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カテゴリ:正岡子規
今日は千客万来です。寒川鼠骨、叔父の加藤拓川、昼には高浜虚子が子規庵を訪ねてきました。 今日は珍しくビスケットが食卓に出ました。 当時のビスケットは、現在のようなお菓子の感覚ではなく、今の乾パンのような「非常食」という位置付けでした。明治維新を前に、水戸藩士の柴田方庵は、兵糧食としてのパン・ビスケットに目をつけ、長崎遊学中にその製法を学びました。また、日本初の牛鍋屋を後に始めることになる中川嘉兵衛が、慶応3(1867)年10月版『万国新聞』に、「パン、ビスケット、ポットル、此品私店に御座候。お求奉願候」という広告を出しています。嘉兵衛は、内海兵吉に次いで邦人としては二人目のパン屋だったのですが、パンは嘉兵衛の店の隣にあったイギリス軍兵粘部売店のパン焼所から仕入れ、それを取り次ぎ販売していたのです。 明治8(1875)年には、風月堂の米津松造が機械を買入れ、フランス人に製法を学んでビスケットの製造に着手、初のビスケットの製造に成功します。 明治10(1877)年になると、西南戦争の食糧用に陸軍が風月堂にビスケットを注文しました。 ビスケットは、戦争の都度に需要が増すようで、明治27(1895)年に始まった日清戦争による軍需増大でビスケットが息を吹き返しました。経営不振で破産寸前の状態だった風月堂は、昼夜を問わずビスケット製造に追われ、大躍進を遂げます。日清戦争の勝利を受けて、風月堂は「かちどきビスケット」、銀座木村屋の「御旗ビスケット」を販売しています。 子規はどこのビスケットを食べたのでしょうか。 季節の旬が子規の元に届きました。三河の荒川同楽は松茸、伊予小松の森田義郎の兄より柿が送られています。 十月二十日 晴 鼠骨来ル 加藤叔父来ラル 午後虚子来ル 朝便通、朝飯ナシ、牛乳五勺紅茶入ピスケット 午飯三人共二食フ、サシミ、豆腐汁 柚味噌、ヌク飯三ワン 牛乳五勺紅茶入 ビスケット 煎餅 三河の同楽より松茸、小松の森田某より柿を送り来る 同楽の手紙に曰く 過般日本紙上墨汁一滴やみまた俳句も不出相成候節は誠に落胆致候 しかしまた週報に御選の句出候故、いささか力を得候えども小生はもし御訃音之広告出候かと日本来ることに該欄を真先に披見致居…… 真率にしていささかも隠さざるところ、はなはだ愛すべし 晩餐 虚子と共にす 鰻の蒲焼、フジ豆、柚ミソ、飯一わん、粥二わん、柿二ッ、無花果二ツ 夕刻前便通及びホータイ取替、夜便通
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最終更新日
2021.03.22 19:00:05
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