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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2021.03.28
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カテゴリ:正岡子規
 この日、子規は目の調子が悪いので、黒眼鏡をかけました。そのためか、周りの音が気になります。巡査が来て大声で喋っていたのでまる聞こえです。
 この日の夜には、中国の素麺がでました。叔父からの頂き物ですので、加藤拓川からの贈り物でしょう。素麺は、中国から奈良時代に伝わった食べものです。もともと索餌(むぎはな)と書き、宮中での儀式などに使われていました。いわばうどんのルーツなのですか、それをさらに伸ばして細くしたのが素麺になります。小麦粉でつくられたフォーといったところでしょうか。
十月廿四日
 朝 便通
 牛乳一合 ビスケット
 黒眼鏡をかけて新聞を見る
 午 マグロのさしみ 粥二わん 里芋よき芋也 なら漬 柿二つ
   巡査来り玄関にて、夜間戸締の注意をなす声聞ゆ「そーですか 三人ですか 雇人は居ませんか」大声を残して帰り去る
 虚子来る 焼栗を食う 虚子余の旧稿(新聞の切抜)を携え去る
 晩 便通及繃帯取替
   さしみの残り 飯二わん 茄子 松茸 鮭の味噌漬 支那索麺(過日叔父の恵まれしもの) ナラ漬 葡萄一房 柿一つ
   不折妻君柿苹果を贈り来る
 夜九月十三夜也 庭の虫声なお全く衰えず
  月は薄曇なりと 夜半より雨
 
 この日に届いた柿は、石川の洗耳こと伊藤松宇が送った大和柿です。大和柿は愛宕柿のような釣鐘形をしています。しかし、愛宕ほどの大きさにはならず、もともとは干し柿用の柿なのですが、食卓に出ているところを見れば甘柿たったのでしょう。
 続いて、中江兆民の『一年有半』への批判が出ます。子規はこの本の評判を新聞で知り、17日に高浜虚子から本を受け取り、翌日に読破しています。この本は、9月2日に出版され、自分と同じ境遇にありながら、ベストセラーになったことに子規は嫉妬していたのです。
 子規は、新聞『日本』紙上で11月20日、23日に『一年有半』への批判を続け、30日に読者からの疑問に答える形で「命のあまり」と題する文を発表しています。批判ているのに、だんだんと自己弁護になってしまうところかが面白い文章です。少し長くなりますが、『仰臥漫録』の後にご覧ください。
 
十月廿五日 曇
 朝 便通及ホータイ替
    牛乳五勺砂糖入 ビスケット 塩センベイ
 午 マグロのさしみ 飯二わん ナラ漬 柿三つ
   牛乳五勺 ビスケット 塩センベイ
 晩 栗飯一わん さしみの残り 裂き松茸
 夜 便通山の如し
 加賀の洗耳より大和柿一藍を贈り来る
 客なし
 週報募集俳句歌(題蚯蚓鳴)を閲す
「一年有半」は浅薄なことを書き並べたり 死に瀕したる人の著なればとて新聞にてほめちぎりたるため忽ち際物として流行し六版七版に及ぶ
 近頃「二六新報」へ自殺せんとする由投書せし人あり その人分りて忽ち世の評判となり自殺せずにすむのみか金三百円ほど品物若干を得 かつ姻草店まで出してやろうという入さえ出来たり 「一年有半」と好一対
 余も最早飯が食える間の長からざるを思い今の内にうまい物でも食痛いという野心しきりに起りしかど突飛な御馳走(例、料理屋の料理を取りよせて食うが如き)は内の者にも命しかぬる次第故 月々の小遣銭俄に欲しくなり種々考を凝らししも書物を売るより外に道なく さりとて売るほどの書物もなし 洋紙本やら端本やら売ってみたところで書生の頃ベタベタと捺した獺祭書屋蔵書印を誰かに見らるるも恥かき也 とさまこうさま考えた末、終に虚子より二十円借ることとなり已に現金十一円請取りたり これは借銭と申しても返すあてもなく死後誰か返してくれるだろーくらいのこと也 誰も返さざるときは家具家財書籍何にても我内にあるもの持ち行かれて苦情なきもの也との証文でも書いておくべし
 右の如く死に瀕して余も二十円を得たるを思えば「一年有半」や姻草屋を儲け出したる投書家ほどの手際には行かざりしも余にしては先ず上出来の方也 しかしいずれも生命を売物にしたるは卑し
 
   病牀の財布も秋の錦かな
   栗飯や病人ながら大食ひ
   かぶりつく熟柿や髯を汚しけり
   驚くや夕顔落ちし夜半の音
 
 近頃兆民居士が大患に罹って医者から余命一年半という宜告を受けた。そこで「一年有半」という書物を書いて出すと、売れるわ売れるわ目たたく間に六七万部を売り尽した。誠に近来珍しい大景気なので、しかもこれが万年青や兎や自転車の流行と違うていやしくも一部の書物が流行するのであるからどこまでもほめてほめて、なおこの上にもはやらすべきであるが、さて如何程これがはやった処で瀕死の著者に向うてそれを賀して善いであろうか悪いであろうか。まさかに「一年有半」が一命を犠牲にして作たという程の大作でも無し、また有形の実入からいうても原稿料二百円という説がほんとうならこれも命がけで儲けた程の大猟でも無い。本屋の収入はどれだけであるか我々には分らぬが、兎に角著者のいわゆる利は他人に帰し損は己に帰することになったのであろう。これが若手であるなら一度名を売って置けば後々のためになるということもあるが、兆民居士の身になって見たら死際に返り咲的の名誉を博するよりも、むしろ薬代の足しにでもなる方が都合が善いかも知れない。苦しい息の下で筆を取って書いた処で死にがけの駄賃がやっと百か二百、それを診察料に払ってしまえば差引残りが六文にも足るまい。それでは三途の川の渡し銭もこの頃の物価騰貴で高くなったから払えぬと来れば誠にはや気の毒至極なものである。
「一年有半」が売れたというのは題目の奇なのが一原因であるが、それを新聞でほめ立てたのが大原因をなしたのである。死にかかっている病人が書いたというものをいくら悪口ずきの新聞記者でもまさかに罵倒するわけにもゆかず、あたかも死んだものが善人も悪人も一切平等に「惜哉」とほめられるような格で、「一年有半」も物の見事にほめあげられたのである。この間にあってもし「一年有半」を罵倒する資格(チト変な資格だが)があるものを尋ねたら恐らくは予一人位であろう。死にかかっているということは両方同じことで差引零となる。ただ先方が年齢においても智識においても先輩であるだけが評しにくい所以であるが、その替り病気の上においては予の方がたしかに先輩である。病床における苦痛やまたはその苦痛の間における趣味の経験については五年問の日月を費して研究した予に及ぶものは他に無いであらうと信ずる。といってみた所で何も自慢する程の研究でもないが、こんな時にでも意張らねば外に意張る時がないから意張ってみる位に過ぎぬ。誠に我ながら兆民居士に上越す程の気の毒さである。
 さて「一年有半」を罵倒する程の資格があるならば罵倒して見よと言われたところで万罵倒する程の書物でも無い。さればといってもとより顔面目になってほめる程のものでもない。評は一言で尽きる。平凡浅薄。仮りにこの本を普通の人が書いたものとしても誉めるに足らぬ。まして兆民居士の作としては平凡浅薄であるということは誰も認めているに違いない。ただそれを口に出すものが無いばかりのことだ。
 実行的の人が平凡な議論をするのは誠に頼母しく思われるが、奇行的の人が平凡な議論をするのは嘘つきがたまたま真面目な話をしたようで、何だか人をして半信半疑ならしめるところがある。兆民居士は今まで奇行的の人と世間に思われていた人である。
「一年有半」のうちに大阪の義太夫を評したところがいくらもある。これはさすがに兆民居士が他の俗人の仲間より頭をぬき出しているところであるが、しかし義太夫以上のたのしみを解せんところは、やはり根本において俗人たるを免れん。居士は学問があるだけに理屈の上から死に到してあきらめをつけることが出来た。今少し生きて居られるなら「あきらめ」以上の域に逹せられることが出来るであろう。〔1 明治34.11.20〕
「一年有半」を評する人の言葉に、余命一年半という医者からの宜告を受けながら、なお筆を執ってこの書物を書き、いやしくも命のある間は天職を尽しているということは感ず可きことであるなどと褒めているのがある。これは見当違いの褒辞であって、余もますますこの論法で褒められて甚だ迷惑した。六十にも余って腰の屈んでヨチヨチした爺さんが毎日毎日手弁当を提げて役所か会社へ欠勤なしに勤めているのを見て、この爺さんはこの年になってもなお天下国家の為に尽している感心な爺さんであると褒めて見たらドウしても滑精に聞えるであろう。爺さんの胸中には、もとより天下国家もあるわけでは無い、一日でも欠勤して日給が取れなければ爺さんの腹は空になるのである、如何に苦しくとも爺さんは出勤しなくてはならぬのだ。吾々が病躯を忍んで下らないことを書き立てるのは、この爺さんの如く生活の必要が逼っている為で無いとして見ても、少くとも気晴らしの為めに無聊を消す為
めに、唯だ黙って寝ているよりも何か書いている方が余程愉快なのである。試みに兆民居士の身の上に成って見玉へ、病気は苦しい、一年半の宜告は受ける、今は人間万事皆休すの有様で、最早世の中に向って何の希望も持つことは出来ぬ、やりかけた事業を続けることも出来ねば、もとより新らしい事業を起すことも出来ぬ、ただ徒に手をこまぬいて一年半の後を待っているやうな有様になる、この時に当たって兆民居士如何に哲学上からあきらめたとしても、為すことも無きままに、一人つくづくと過去未来を考えて見たらば、必ずや幾多の惑慨は胸に迫つて悲しいような心細いような何となく不愉快な感じが続々と起って来るに違いない、この不愉快な感じを起させぬようにするには文楽座の義太夫もよからう、妻君と共に杏の実を喰うもよかろう、しかしながら胸中に多少の文字のある者ならば、筆を執って書きたいことを書きちらす程愉快なことは無い。兆民居士が「一年有半」を書いたのも、天
職を尽したのでも何でもない、要するに病中の憂さ晴らしに相違あるまい。余がくだらない出鱈目を書くのももとよりこれより外ではない。それを多く人が解しないと見えて、余に向ってアンナに書いては苦しいであろうなどといって挨拶をしられる、成程少し長い文章などを書いて、それが幾らかの苦痛を感ずることは珍らしくない。しかしその小苦痛の為めに病気の大苦痛は忘られていることが多い、よし自分に書く時の苦痛は如何に強くても、その苦痛の結果が新聞雑誌などの上に現れる時の愉快は、よく書く時の苦痛をけすに足るのである。「一年有半」が六七万部も売れたと間いた時には兆民居士も甚だ愉快に感じたのであろう。たとえ原稿を書く時の苦痛があっても、
また実際の実入は余り豊稔でなくとも、ソンナことは少しもかまわぬ、ただ「一年有半」が売れたということの愉快を博したということが病人に向ってこの上もない報酬である。そこへもって天職論などをかつぎ出されては、寧ろ著者の迷惑であろう。〔2 明治34.11.23〕
(三は似た論なので省く)





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最終更新日  2021.03.28 19:00:06
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