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カテゴリ:夏目漱石
淋しくもまた夕顔のさかりかな 漱石(明治29) 夕顔の季語は花が夏、身が秋になります。夕顔は、インド・または北アフリカを原産地とするウリ科の植物で、夕方に咲た花が翌日の午前中にはしぼむことに由来します。 夕顔のみを薄く剥いで作られるのが干瓢です。干した瓢と書きますが、瓢箪も夕顔も同じウリ科の植物で、苦味の少ない瓢が食用になって夕顔と呼ばれました。 漱石作品に夕顔は登場しませんが、干瓢は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『草枕』など多くの作品に登場します。 『吾輩は猫である』では、苦沙弥先生の冒険心のないことを表現するのに干瓢の酢味噌しか食べたことがないと書き、日常に埋没していることを示します。 『坊っちゃん』では、山嵐と氷水の代金をめぐっての諍いが始まるかと思わせる場面で、興味津々に成り行きを見守っている野だいこの顔を、かんぴょうづらと表現しています。 『草枕』では、芝居見物の弁当の中にあるいなり寿司の胴に巻いた干瓢を下に落とすシーンで、孤独感を演出しています。 始めて海鼠を食い出いだせる人はその胆力に於て敬すべく、始めて河豚を喫きつせる漢(おとこ)はその勇気において重んずべし。海鼠を食くらえるものは親鸞の再来にして、河豚を喫せるものは日蓮の分身なり。苦沙弥先生の如きに至ってはただ干瓢の酢味噌を知るのみ。干瓢の酢味噌を食って天下の士たるものは、われ未いまだ之を見ず。(吾輩は猫である 9) 山嵐もおれに劣らぬ肝癪持だから、負け嫌ぎらいな大きな声を出す。控所にいた連中は何事が始まったかと思って、みんな、おれと山嵐の方を見て、顋を長くしてぼんやりしている。おれは、別に恥ずかしいことをした覚えはないんだから、立ち上がりながら、部屋中一通り見巡してやった。みんなが驚いてるなかに野だだけは面白そうに笑っていた。おれの大きな眼が、貴様も喧嘩をするつもりかという権幕で、野だの干瓢づらを射貫いぬいた時に、野だは突然とつぜん真面目な顔をして、大いにつつしんだ。少し怖かったと見える。そのうち喇叭が鳴る。山嵐もおれも喧嘩を中止して教場へ出た。(坊っちゃん 6) 彼はまた偶然広い建物の中に幼い自分を見出した。区切られているようで続いている仕切のうちには人がちらほらいた。空いた場所の畳だか薄縁だかが、黄色く光って、あたりを伽藍堂の如く淋しく見せた。彼は高い所にいた。ここで弁当を食った。そうして油揚の胴を干瓢で結えた稲荷鮨の恰好に似たものを、上から下へ落した。彼は勾欄(てすり)につらまって何度も下を覗いて見た。しかし誰もそれを取ってくれるものはなかった。伴の大人はみんな正面に気を取られていた。正面ではぐらぐらと柱が揺れて大きな宅が潰れた。するとその潰れた屋根の間から、髭を生やした軍人が威張って出て来た。その頃の健三はまだ芝居というものの観念を有っていなかったのである。(道草 39)
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最終更新日
2021.05.26 19:00:06
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