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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2021.06.08
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カテゴリ:正岡子規
 
 明治35(1902)年9月19日に正岡子規が亡くなりました。10月、瀾水は大阪から由利由人が出していた俳誌「木菟(ずく)11月15日号」に、「子規子の死」と題する約1万字の文章を発表します。
 この内容が問題になりました。多くの子規追悼文が子規の哀悼の気持ちで綴られていたのと異なり、瀾水の文は子規に対する罵詈雑言で埋められていたのでした。最初こそ、「予が子規子の訃を聞知せしは、本月二十四日なり。この朝晏起、食卓に就きまさに飯せんとす、家人新聞を読む、既にして驚いて予に報して曰く、新紙子規先生の訃を伝うと、予措愕箸を抛って立ち、新紙を熟覧すれば、果して然り。噫先生殁せるか、昔容恍としてなお耳にあり、遺教追うべし。黙然眼を閉じて瞑思すれば、不覚の涙潸然として数行下る。後二日、先生の病牀に侍するを夢む、先生なお活けりや、覚めて後かつ疑えり。すなわち旦に嗽ぎ室を払い浄几を設け、遺墨を展し、謹で先生の霊を祭る。香煙縷々先生が手択を燻ず、杜鵑再ぴ啼かず、雲外縦跡なし、惜しむべきかな」と子規の死にショックを受けたことが綴られています。
 そのあとは子規の欠点を「つらつら子規子の為人を思うに、文士としては巨多の欠点を有し、個人としては一層多くの欠点を有したり、しかれども先生たる所以はこれらの欠点に超越して厳存す」と挙げながら、子規の偉業をなんとか賛美しています。そのあとは若き日の瀾水が見た子規の門人たちへの悪口です。
 瀾水は、この時数え年26歳で、東京帝国大学法科大学政治学科に学んでいました。子規に接した時間が短く、若いために子規何者ぞとする批判的な部分が強かったのでしょう。瀾水が子規門に通った時期は、俳句よりも和歌や写生文に関心が移っていた時期です。俳句に関心を寄せていた瀾水は、子規の俳句の力量をもどかしく感じていたのかもしれません。また、エリート意識に加え、土佐っ子の反骨精神があったのかもしれません。そこで、誰もが俎上にしようとしない子規の欠点をあげて、自分が特別だと読者に認めさせようとしたのかもしれません。
 
 まずは『子規子の死』の冒頭部分です。難しい言葉をやたらと使い、いくらか褒めている部分でありながらも、子規を自分よりも低い位置に引きずり落としたいという不遜な気持ちが滲んでいます。
 次回は、ご紹介した文章の後の部分での悪口に言及します。
 
 予が子規子の訃を聞知せしは、本月二十四日なり。この朝晏起、食卓に就きまさに飯せんとす、家人新聞を読む、既にして驚いて予に報して曰く、新紙子規先生の訃を伝うと、予措愕箸を抛って立ち、新紙を熟覧すれば、果して然り。噫先生殁せるか、昔容恍としてなお耳にあり、遺教追うべし。黙然眼を閉じて瞑思すれば、不覚の涙潸然として数行下る。後二日、先生の病牀に侍するを夢む、先生なお活けりや、覚めて後かつ疑えり。すなわち旦に嗽ぎ室を払い浄几を設け、遺墨を展し、謹で先生の霊を祭る。香煙縷々先生が手択を燻ず、杜鵑再ぴ啼かず、雲外縦跡なし、惜しむべきかな。
 つらつら子規子の為人を思うに、文士としては巨多の欠点を有し、個人としては一層多くの欠点を有したり、しかれども先生たる所以はこれらの欠点に超越して厳存す。その精微透徹なる頭脳と、強大汪盛なる精力とは、相まって先生の人格をなせり。先生かつて予に語って曰く、予他長なし、ただ刻苦勉励してしかも怠ることなきの一点は、何人にも譲るまじと思う、故に予が技能中やや拙なからざるものありとせば、皆な一に勉強の賜なり、予は天才ある人の如く努力せずして巧なる能わずと、先生自らよく知れり、その性向の結果として、先生の思想は極めて秩序的論理的なり、しかして安息ぜざる
智識の欲求と外来の智識に対する驚くべき消化力とを有す。高浜虚子曰く、正岡は徒爾に書を読まず、歴史を読み、地誌を読み、その他科学に関する書をひもとくも、常にある一定の見識をもって、これを判断しつつ理解す、故に一冊読み了れば、これに対する意見あり、予懶惰無学なれども、正岡の病牀に侍し、種々の話を聞くを楽めり、正岡の話は実に面白しと、またある時語って曰く、正岡が承久の乱に関する書籟を読み、東国勢上洛の有様を地図に引き宛てて論じ、かつ歴史が明記せざる、当時の情勢を揣摩描しつつ話しくれたり、正岡の頭脳は異常なるかな、紛糾乱雑せる古代の記録を秩序立て歴然掌を指すが如く明快に述べて興味尽きずと、先生の智識を求むるやまた勉めたりというべし。先生は多くの才人の如く自主自尊の念はなはだ強し、故に先生はすこしも助を他に侯ずして自啓自発し着々その思想を拡充しその見識を上進す、先生の頭脳は柱の時計の如し、躍進することなき代り、退歩することなし。中村不折かつて曰く、正岡の頑冥にはむしろ腹の立つことあり、しかれども彼のエラキは何程邪路に迷い入るも一旦豁然として醒悟し、従来固執せる繆見を打ち捨つる日、遅かれ早かれ必ずあるにあり、彼は独立独行の男ゆえ迷うにも困苦して迷い、悟るにも困苦して悟る。悟って迷うはあり、再三迷うて悟るものは稀なり。これ予が彼を取る所以と、不折や、麤糲を食うて不味なりとせず、梁肉を食うて甘しとせず、弊袍を着てか冠冕の間に立ち、自ら称して、予書画の外衣食翫好などにおいて一切嗜好する処なしと放言し、忍耐堅持、勉むることを解して、怠ることを解せざる恠物なり。思うにこの性格を有せる彼が先生を評す、当に先生が長所の一角を道破するにおいて遺憾なかるべし。しかして予が最も先生に異とする一事は、普通東洋の文学者に有勝なる放狂乱雑を嫌忌し、秩序を酷愛し、義務の観念の確立せるにあり。かつて先生を訪えるものはその家宅のコジンマリとして什具装飾品などの排置整然たるに気付かざるはあらざるべし、間毎々々奇麗に洒掃し、清き白布の蒲園の上に横臥せるを見ん、先生は病苦の間、しばしば湿布をもって皮膚の垢塵を拭い取らしめ、理髪師を呼びて寝ながら頭髪を刈らしむるなど、常に身辺の清潔に留意し、来客をして病者に対する不快の念をすくなからしめんとせり。故に先生が周囲にありてはあらゆるもの秩序あり、あらゆるもの清潔なり。先生が文草を草する時も絶えて枕辺に書巻の狼藉たるを見ず、その書冊は疲室の押入に秩序正しく彙類して襲蔵されたり。先生は実に勤勉、細心、秩序、清潔などの諸徳の権化なり。かつその文士たる天職に対して義務を感ずるや往々濱死の苦痛を忍んで筆を執る。日本新聞社主陸謁南ら諫めて曰く、卿少しく自愛せよ、猥りに短促して心血を耗尽する勿れ、と。依て新聞社より資を給して海岸の地に静養せ
んことを勧誘するも先生喜びすして曰く、予が筆を執らざるに至らんか、予において死と択ばず、いやしくも一日生を保つ、一日書ざるべからず、予に空しく生よと勧むるは死せよというと一般なり、のみならず、ツマラなき記事なりとも、毎日の新聞に、自己の文書を見るは、病中の楽事、実に愉快なるをや、かつ予に静養の地を与えらるる如きは好意謝すべしといえど、予が不潔汚穢なる東京の空気を忍てここに住する所以は、資力なきよりも日夕故旧の宋訪を辱するが為なり、アア予の友人に慰藉せらるる事いくばくぞ、友人なかつせば病余の羸躯は寂寞のために悶死せんのみと、先生また日本新聞社に籍をつなげたるをもって、その入社より死に至るまで始終力を尽してこれに報いたり、新紙の伝うる所によればその死に先つ二日前まで、病牀六尺の記事を続けたりというにあらずや。先生戯て曰く、予は日本新聞より給料を受けて生活す、故に『ほととぎす』などに書くようならば先ず日本に書かざるべからず、『ほととぎす』に書き『日本新聞』に書く、煩忙いちじるしい哉と。先生は義務を知れり、みだりに好む所に厚うすというべからず。先生すでに『ほととぎす』に執筆するに及び、また自己の職務を広廃せんことをおもんばかり、和歌に関する記事だけは、必ず日本新聞にて発表することとし、俳句俳論等は適宜二者の一に載することとせりという。先生が森厳なる義務の観念を有し勤勉知己に報ずること、おおむねかくの如し。(若尾瀾水 子規子の死01)





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最終更新日  2021.06.08 19:00:07
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