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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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カテゴリ:正岡子規
 紅緑がなぜ子規を尊敬しているかという理由が書かれているのが明治40年9月1日発刊の「中央公論 正岡子規論」に掲載された『子規先生』です。
 このころの紅緑は、新派劇のデビュー脚本「侠艶録」がヒットとなり、新派の座付作者としてつぎつぎに脚本を発表しています。また、「中央公論」に小説『あん火』を発表して自然主義作家として文壇の注目を集め流ようになり、人気作家としての道を歩み始める頃になります。
 
 その中であげているのは以下の事柄です。
●子規は天職に忠実であり、死ぬまで研究を続けた。
●子規が病床の中で筆を持ち続けたのは、それが趣味であったから。
●子規が貧乏であったことは、給料よりもそれ以上の喜びが仕事にあったこと。
●子規が喜ぶのは他人の俳句を閲することで、そのことが門人たちの俳句の技術向上につながった。
●子規が党をつくったのは、俳句が汚されると思ったからで、芸術として俳句をつくっているため。
●写生は、モーパッサンのバカボンドのように、自然をそのままに写すことである。
●子規は病苦と長く戦ったために、ほとんど神仏のようになっていた。
 
△子規先生の事を御話しようなら一日や二日で話しきれません、また私が話さんでも子規言行録やその他の書に遺憾なく書かれてあります、私はただ先生が「芸術家としての態度」というような点だけを御話しましょう。それは目下の文壇に私がすこぶる癪に障ってることもあり、かつ自ら顧る処もあるので。
△先生が俳壇を統一したのは何であるかというに私は「天職に忠実」であったからであると思います、昔から豪い人は沢山あるが、先生ほど忠実であったものは、稀であろうと思います、基督、釈迦、孔子、日蓮これらは「誠」の人で苦境の中に非常な楽しさ、いわゆる天の恩寵を感じた人でしょう、子規先生は全くそれです、満身ことごとく文学に捧げたのです、世の毀誉褒貶は問はわなかったです。死ぬるまでが研究的の態度を失わなかったのです、
△八年間枕に頭を着けたままで六尺の蒲団の外は畳一畳外へも踏み出せなかったのです、脊髄がぐちゃぐちゃに腐って、片方の肺が無くなって、片方の肺が三分の一だけ残って、それで死ぬる日まで筆を取ておられた、こんなことはまあ人間の出来ることでしょうか。もちろん先生は日本新聞社から月給を貰っているから一日でも書かねばならぬという義務の観念から筆を放さなかったせいもありましょうが、そんな義務なんどいう小さな理由よりも、先生が苦しい身体を枕にもたせて筆を持ておられるその瞬時こそは決して他人の知る能わざる愉快と喜悦とが心に満ちたであろうと思います、本当に趣味の人です、筆を持てる間は天もなく地もなく吾れもなかったろうと思います、この趣味は経験のない人には語られません、
△もう一つは貧乏であったことです、日本新聞社からの俸給は只だ四十円、四十円で親子三人、その中に自分の医薬代を払うと、毎月の生計が立ち得る訳はありません、先生はしかもそれに満足されていた、私の処への手紙にも「我等は人より多く働いて少なく月給を取るつもりでいなければならん」と私を励まして下すったのがあります、多く働き、多く苦み、人よりも立派なものを書いてソレで俸給を少なく取るというのは何ということでしょう、人が先生の人格に全く心を捧げるのはこの辺ではありませんか、つまり先生には苦みや働きや貧乏や俸給よりもそれ以上の喜びがあったからです、この喜は即ち文学の趣味ということです、
△であるから先生はいつも嬉しそうな顔をして本を読み句を作られている、朝から晩までいやしくも眼の開いてる間は読むことと作ることであったです、一時間でも冗な時を潰しません、よく我々と雑談笑話をされるが、そのつまらない話をも先生はことごとく俳味に化して了うのです、寸刻も油断をしません。ですから先生は何でも研究的態度の人を好きでした、生意気、知た振り、人真似、負け惜み文学以外の世事談、そんなことは大嫌でした。それで先生の力量は一日一日と進歩して行く、我れわれはそうは行かん、いくら袖に縋ってもとても先生の早足には追着き得ない、その中に魂気が尽きて途中で休む、甚だしきは退却する、我等同人間には自分の力が先生初め他の人ととても並行し得ないために途中で俳句を止して了ったものが何十人あったか知れない、中には子規と吾輩とは趣味が違う意見が合わぬなどと勝手な理窟を付けて御山の大将になり済ましたのもある、そういう人は直ぐに吾れわれの方へ足が遠くなる、「あれはどうしたろう」などと噂すると、先生は「俳句の出来ない人に来て貰わんでもいいさ」といわれる、俳句に忠実な人でなければ実際先生の側へ行くことが出来なかった、
△私共が先生の病を慰めようと思う時には俳句を沢山作るのです、百句位作って、先生の病床に訪れて、批評を乞う、すると先生は非常に喜ばれて「紅緑君盛んですな」と重き枕を掻げて原稿を見られる、その中に一句でも二句でも先生の気に入った句があると、身体を左右に動かして「すこぶる振ったね」といわれる、その時の先生の嬉しそうな顔は何ともいいようのないことです、私共がこの時の御顔を見るというにいわれぬ愉快を感ずるです、俳句を買められたのが嬉しいのと先生の病苦がいくらかここに依て忘れられるのであろうというのと二つの嬉しさが漲って来ます、ですから怠けて碌々俳句を作らん時には先生を訪ねることが遠くなります、御土産がなくては閾が高いので。
△今でこそ普天の下卒土の浜、新派の俳風及ばざる処なしですが、十年前は僅かに二十人内外の人であったので、それは日本新聞に十句ばかりずつ毎日出したのです、その後先生が早稲田文学に頼まれて一段か二段ずつ俳句を出し鳴雪翁が太陽の俳欄を受持たれた時などは始めて雑誌に新派の俳句が出たのでした、自分の句を新聞に出そうとも思わず、世間に見て貰おうとも思わず、いわば同好の士が寄り集まって、根抵から俳句というものを研究して見よう、古来の悪弊を破って我らの信ずる処を練習しようというのが目的で、それが今日こんなに世間に他播しようとは思も及ばなかった処でした、門戸を構えるの党派を作るのとは夢さらさらもっての外の事でした、それをここに岡野知十という人は風聞記というものを毎日新聞に書いて子規派、日本派と吾れわれを党派の如くにいうたのです、
△党派については私大いに議論がある、党とか派とかいうものは互角のものが二つ以上ある場合にいうものでしょう、もし我れわれを日本派子規派というならば我れわれに角逐するものは何派でしょうか、いいえこれは子供らしい話として打捨ておく訳には参りません、これは先生も口にいわねど内々癪に障っていたに違いなし、私の如きものはすこぶる癪に障るからついでにいいたいのです、日本派に対して秋声会派というです、紅葉、竹冷、松宇その他いろいろの人の会です、然るにこの会は如何かというに、私の眼から見ると全でものになっていません、俳句として一文の価値がないです、百句の中に一句でも俳句らしいものを見出すことが困難です、てんで相手にはなりかねるのです、それならば彼らには一寸の虫も何とやらで彼ら相応の特色があるかというに、これもありません、五年前に私どもの経て来た処を五年後になってからようやく気が付いてそれを真似ているのです、自家の特色もなく時代後れの真似をするというのは元緑や桃山が流行り出す時節柄とはいえ、芸術としては全くゼロではありませんか。無論秋声会の方の人と私どもとは芸術に対する考が違っております、秋声会では道楽半分にやっているので、私どもは芸術として生命を打ち込んで研究しているのです、彼らは骨董屋で私共は創作家です、かくいえば何も彼も分明するのですが、世間ではそうは見てくれません、彼らも我等も同じものと見ております、私がこういうのは何も看板争なんてそんな卑劣な根性ではありません、つまり私どもが身命を捧げて神聖なものとしておるのを彼等は理髪床の小僧同様にやはり俳句を慰み半分道楽半分にやるから腹が立つのです、俳句の神聖を犯すものは親の敵よりも憎いのです、秋声会は俳壇の天理数のようなものでしょう。
△先生はいつも私どもに向て「どうも皆なが大家になったから句を作らんようになった」と皮肉な言をいわれました、私は今でもそれを思い出す度に冷汗が出ます、碌々俳句も出来ない癖にもう大家顔して句作もせず、苦心もせず、研究もせず、先輩気取でいたということは先生の眼から御覧になったら、どんなに苦々しくキザでイヤミで生意気で、可愛そうで憐れであったろうと、昨今の俳人を見るに付けひしひしと自分の陋劣が思い出されます。
△終りに臨んで私はこの一つだけのことをいいたいです、これは私が終生忘るることの出来ない、私の唯一の座右の銘としている処ですが、それは先生が私どもに遺された「創作の趣味」です、この点は紅葉さんが小説においてその門人に伝えられた趣味と同じものでしょう。
△福本日南翁はかつてこういうことを私にいわれた、日本の詩の中で俳句が最も発達してかつ詩そのものの特色を保っているというのは即ち俳句が創作的にして模倣的でないからである、凡て創作というのは自己の発現である、自己の発現はその中に必らず精力が籠っている、万葉の歌の面白いのもこれがためである、これに反して模倣は自己を卑しくして他の声色を作るのである、声色はいくら上手でも役者に及ばざる遠しだ、古今以下は詰らない模倣的だからであると。これは実に至言だと思った、子規先生が俳句でも和歌でも文章でも、手を染めたものはことごとく創作的で、決して他を踏襲したり模倣したり、そんなことはなかったです、俳句に至っては非常に厳格で古人の句今人の句にいやしくも似寄たのがあるとそれを大恥辱と思うておられました、私はこの点を実に感謝しています、たとえ痩せても枯れてもこの点だけは守って行きたい、この感化に触れたことを私は非常な幸幅に感じています。
△芭蕉は創作家であった、これを真似して自家の独創を発する能はざる門人数十人、ここにおいて蕉翁死するや否や俳壇は沈衰した、蕪村は創作家であった、決して芭蕉をも模倣せぬ、ここにおいて俳句に生命が吹き込まれた、蕪村死して幾もなく模倣俳人ことごとく腐敗した、百年の後、子規先生出でて蕪村を呑み芭蕉を噛みことごとく消化して独創の見を起された、創作の人は世紀を作るのである、目下の俳壇が漸次沈衰しかけて来るようですが、それはことごとく子規先生の模倣だからでしょう、時代の思潮が段々代って来る以上はこれに伴う創作が必要でありますまいか、これを思うと私共は未だ未だ研究の初歩にあるのです、私はそれを八釜しくいうのです、もう少し新思想に入ろうではないかと御互に子供の積で昔に返って研究しようじゃないかというのです、けれども対岸の火事視して同意してくれません、私のいうことを狂人のように思ってるようです、どうも早く大家にはなりたくないものです、貴方方は小説家の方面の内情を御存知で実に文士というものはイヤなものだとよく仰るようですが、小説家の方はまだ余程宜い方でしょう、どうも俳人と来た日には目も当てられません、虚名と衒気で持ち切て嫉妬が深く思想が古く頑固一点張でしょう、子規先生が死んでから五年になりますが、もう俳壇は全く研究的態度を失って了ったのです、滅亡近くにありといい得るでしょう。
△写生文のことですが、あれは私はよく知りません、あれは子規先生独創のもので、私はその時から写生文には趣味を持たなかったです、先生が完成しない中に死なれたのだから、どうといふうことは出来ませんが、生きておられたら、只今の写生文のような淡薄な無趣味のものには終らなかったのでしょう、つまり先生の未成品です、未成品をもって先生を論ずるのは世の評者蓋し酷なりです、虚子君や四方太君の写生文もどうにか発逹しなければあれでは私は全然反対です、漱石君をもって写生文の方に繰り込んで了うのは乱暴です、漱石君のは子規先生の伝えた写生文とは非常に違います、読んで見たら一目瞭然じゃありませんか、つまり俳人であるからまたホトトギスに関係があるからという点で、同一視するのでしょう、私は先生の伝えられた写生文よりもむしろ漱石君の方に感心しています、無論文章の上です思想の上からは全然反対です。
△先逹て漱石君の書いた文学論(?)の中に私が同君と到談の折りにモーパッサンのバガボンドを推奨したことを記し、かかるものを喜ぶのは道徳心の麻痺した人間であると書いてあります、漱石君は疑もなく私を道徳心の麻痺した人間と思っているらしいです、実際この点が今の技巧派と自然派との岐るる処ですから漱石君のこの論定を私は非常に愉快に訊みました、その意のある処が明瞭になったからです、それで私は一つ誂論を吹掛けに行こうかと思いましたが、向うは学者で私は無学、議論では負けるに決まつてる、口惜しいと思うているとふとこんなことを考えました、もし子規先生在世であったならば何方に賛成するであろうか。
△先生は自然を尚んだ人で、俳壇の自然派であった、して見るとバガボンドの自然なる情慾を描いた処に賛成するに相違ないと思いました、それと同時に写生文も進歩したならばバガボンド位まで進みそうなものだと思いました、今の写生文は極めて不自然なるもので、何でも彼でも美化しなければ止まぬという技巧一方に偏したもので、葛生という名前とは極めて矛盾してるものでしょう、先生在世ならばもうちと何とかするだろうと思います、景色や人事ばかりを彩色せずに人間そのもの、吾れわれ人類の生活の実際を自然に写すことになるだろうと思います、しかしそれは想像です、想像であるが何だかそのように思われて、まあ自分だけが安心しています、春情文学も随分振ってるねと先生が破顔一笑されるかも知れません。
△一体子規先生の唱えられた俳句は自然を主としたのは無論であるが、俳句は字数が少ないから同じく自然を写すにしても措辞の関係上余程技巧を要するのです、ソコは散文と違う処です、今一つ極端の場合をいうと、俳人は自然を作るのです、自然という海の中から真珠を拾い取るのでなく、海の水を掬いかためて真珠を製造する場合があります、理想の句などは最もこの部類です、かくの如く自然の製造術に練磨を経た俳人のことですから技巧ということは決して脱し得ません、先生の句はこの製造は余り多くないです、吾れわれ門人仲間の昨今は随分製造が盛んです、であるからかくの如き頭脳をもって写生文を書くと写生文でなく製造文になるのは免れ難い処でしょう、なぜそんなに製造するかというに「美」という禍神が付きまとってるのです、一にも美、二にも美、三にもまた美です、その結果は万象を美化するということになる、何事によらず美くしく製造しようと力める、美の色を塗らない物品は文学でないとしてあるのです、私も一時はそう思うていたのです、が、よく考えると美というものはどんなものかということになるでしょう、俳人の美とするもの以外に未だ忘れられたる美が沢山あるではありませんか、漱石君の所謂をもって見ると情欲及び情事に美が無いというのでしょう、そこは問題です、バガボンドを見て面白いと思うものが理性の麻痺患者だとすると、私はそういう人こそ助平人種だといいたいです、諸君は裸体の石膏像を見て春情を起しますまい、けれども助平国の住人熊公八公が見ると、やあこいつあ堪らねえななどと騒ぎ立てます、この頃ある役者が私の処へ来て博覧会の白木屋陳列場で結婚の盃をしている人形を見た時、この次はど真実を書くことは出来んです、私は先生の在世中にこの議論を聞くことの出来なかったことをすこぶる遺憾に思います。
△写生文は先生晩年の創造です、先生の晩年は多年の病苦と戦ったために人格はほとんど神の如く潔くなっておりました、けれども一方には非常な神経質となられたです、第一喧嘩の話が嫌いになって、狩猟などの鐵砲騒ぎの話よりも釣のような話が好きになられました、当時ある人の句に「春の夜の撲られ損や人違ひ」という句がありました、同時に私の句に「朧夜の人を嚇すや人違ひ」というのがありました、私は撲られ損の方が面白い自分の句は詰らないといいましたが、先生は君の句の方がいい、撲られたら痛からうじゃないかといわれました、この時私はああ先生もまた病に疲れたるかなと思うて何ともいえぬ悲しい思が湧きました、同時に只だただ先生の思想が大醇に向われて美の紳がその苦しい呼吸の間に月の如く立っているような気がしました、けれども私はこれは美感を重んずる極端の傾向だと未だに記憶しております、無理のないことです、なお更ら先生の如く四方八方頭から爪先まで苦痛、灼熱をもって責められている人は美にあこがれ美に楽むのは無理のないことです、だが身体の逹者な吾れわれまでが、嚇され〈る〉よりも撲られるのが痛いからいやだなどなどと病人らしいことをいうたら、さとは訳が違って来るだろうと思います。
   佛前に供へん秋の草もなし(佐藤紅緑 子規先生)





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最終更新日  2021.06.28 19:00:05
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