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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2021.07.18
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カテゴリ:正岡子規
 鳴雪は、子規から尊敬の念で接せられました。しかし、子規の病気が重くなるにつれ、鳴雪は少し距離を置き始めます。それは、子規の態度にすまないと感じ、また、自らの平常心が保てるかどうか、不安になったところからでした。しかし、俳句の解釈などにおいて、鳴雪は子規と論争になるのが常でした。しかし、その諍いは翌日なっても続くことはなく、あくまで自分の位置や俳句の感じ方ををはっきりさせるためのものだったようです。
 また、諍いがあると、子規から詫び状が届きます。これでは、怒りを長引かせることもできません。
 
〇さて居士の人物は事業とともに次第次第に大立物となり、世問の尊重もますます加わり、学者文士の訪問出入する者日夜絶え間ないくらいになった。されども僕は旧交でもあり年長者でもある処から、文字問題の外は居士が僕に対する恭遜辞譲の態度は始終一貫していつも変わらなかった。もっとも文字の議論になると居士も中々倣然と構え僕を睥睨して来る。僕もいわゆる莫逆でどんなことをいっても構わぬと思うから蟷斧を揮って抵抗する。居士も激する、僕も激する、随分長時間呶々して鶯横町通行人の足を止めたことも少なからぬ。けれども、少々時刻が立つとモー互に霽月光風。ただ少し残っている感じは言い過ぎて気毒なことをしたという一点くらいだ。しかるに卅二年の秋であったが、ある夜蕪村輪講中雁の別れの感じということにつき互に衝突して非常な激論になったことがある。その翌朝居士から書簡が到逹した。
 
 拝啓。今夜散会之後内の者申候には「外の人ならまだしものこと、内藤先生へあつかむような言葉甚だよろしからず」といたくたしなめられ候に付て驚き、かしこみ謹て御詫申上候次第に御坐候私事生来癇癪強く候処、病気以来ことに劇敷相成、自分にては可成押える積りなれど、他人より見れば常に圭角を露わすことに可有之候。加之当夜も例の如く発熱中にて発熱の苦痛紛れに大声を発し思わずあつかみつけるように相成候事と存じ候。自分は一切夢中にて何も存不申候えども、自分に分らずとて失礼之段は罪のがるべきにあらず。如何に発熱中とはいえ、先生へ対して侵したる無礼は偏に御海容を祈る外無御座候。今後を謹み可申候。右御わび迄如此候。謹言。
  九月廿二日輪講当夜認          常規
 鳴雪先生 函丈
 追伸。近来私より虚子その他に対してしきりに義務(無論俗界の方面)の怠慢を責め候事有之候処へ、今夜却て家内の者に気付られ候に付、甚だ大打撃を被りたるよう感じ申候。もっとも私の我儘にして横着な言葉を使い候などは昔よりにてかつて同宿せし友は皆承知致居候。それは父親なしに育ち候故ならんと申者も有之。その後は多少謹むつもりなれど、実際は無効と相見え今に至って依然旧態を存居候事、慚愧に堪えず候。
 
   蘭の花吾に鄙客の心あり
   蕃椒廣長舌をちちめけり
   十年の狂態今にかかし哉
 
 かように僕は意外の挨拶を受けて却て驚き、かつ気毒でたまらず、直に返書を出して僕よりも失態を挨拶し、且大いに居士を慰めて箇いた。此事はホト、ギス三巻一琥蕪村句集講義の條中に於て居士が自記にも一寸見えている。右書簡の文字だけでも居士が半面の人物は躍然と現れていて、如何に長者に恭遜なるか、克己自省の念が強いか、また如何にその義務責任を重んずるかが知られる。かつ、どこかにまた初心であどけなく可哀らしいという点も見えるではないか。
〇また卅四年十月伊藤左千夫氏が好意の発議で居士を駿州興津辺へ転地療養せしめたいといい出し、居士も非常に乗り気になって、早やも飛んで行きたいという塩梅、処が碧梧桐虚子氏を始め僕らは第一に途中汽車の動揺、次には往ってから後に病気が重ったその時医療や介抱人万端の不便から、まだ取留めの出来るのも取留め得ない残念があろうという心配で、どうしても転地がさせたくないから、代る代る留めた。ある夜僕も出掛けて往ってあるいは人情、あるいは道理、さまざまの方面から説いたけれども居士は一切聞き入れない。いよいよ留めればいよいよ激して来るから、僕ももてあまして、尚徐々に御考なさいといって帰った。帰ったけれどもはなはだ気になるのは、一体僕の話は平生でも議論張っていて耳やかましく病苦の居士に感ぜられている処だから、もしや今夜の諫争が一層居士の反動力を起さしめ、まだ随分留まるのであったものも決断を早めていよいよ往ってしまひはせぬかと思い出し、どうも気になってならぬ、遂に一書を発して縷々挨拶をして、もしこれで興津行をせらるると僕が議論で激成したこととなり、居士を誤った僕が罪は居士のみならず他人へも申訳がなく、僕は自身の立場がないようになるとの意までいって遣った。すると返簡に、
 
 拝啓。昨夜はまた例の暴言を発し後悔一方ならず。今朝御詫吠差上可申と存候処に却て御手紙に接し恐縮之至候。来客謝絶の件は私の心持丁度曽子易と同じように存候。曽子は箕に対して心を安んぜず、私は客に対して心を安んぜずと申すことに御座候。私は転居の方に定めてこの上は叔父の認可不認可によって決定可仕候。もし興津へ参り候わば御高話を聴くことも難出来。その代り例の暴言を吐て御わぴ状を出すようのこともなかるべく候。わざと簡単に御返事芳御わび迄一書差上候。御厚意の程は十分銘肝罷在候謹言。
      十月五日           常規   
 内藤老先生 玉几下
 
 文中に来客謝絶とあるは、居士は興津行をもって来客を避くるの一手段だとし、この地にいて客を門前払いにするには何分忍ぴぬといい、僕は来客は元々好意で来るのだから、病苦に障るという訳でこれを断るのにいささか心配は入らぬと弁じた、その件である。この件につき居士が曽子の易箕に比したのは、つまり僕らが説はあたかも曽元の父を愛するの情と同様で、姑息である、居士自身はどこまでも「得正而斃焉」という君子の操を執っている、ということをほのめかしたので、その興津行の当否はともかく、居士が自信と地歩を占めている処とはこの手紙でも明確で、大いに畏敬すべき点である。
 また文中の叔父は加藤恒忠氏なので、氏は既に興津行反対論者であるから、この人の意見に任かすというのは思い止まったというのも同様だから、僕もそれで安心したのである。
〇居士は一体理性に富んでいたとともに感情も非常に強い。かつ文学的趣味は居士朝夕の業務でまたその娯楽であるから、病床に臥して病苦のせまればせまる程この要求は切になり、これに反対した談話は必要の場合は格別、その他はなるべく耳にすることを厭うようになった。処で、僕という人間は居士の薫陶で多少美趣味を解したとはいえ、元来が理窟好きで、人に到して二言三言モー勃しゅたる理窟談となる。故に居士の病床では十分この辺に注意し自ら戒めているはいるけれども、何か問題になると直ぐ誂論になる。居士も健康の時分はまたこの方面も随分好物で散々僕と遣ったのだけれども、病苦の進むに随い自然とモー厭う塩梅で、ことに僕が癖の高声はすこぶる居士の耳を苦めるとのことで、僕のしばしば居士を見舞うのは好し悪しで、僕自身も段々と斟酌をして来た。今一つは居士の美徳として飽まで長者を尊敬し、如何なる苦悶中でも僕が往くと忽ち誤度を改め、忍んでも相当の応接をするということで、一例を挙ぐれば、蕪村輪講に往った時でも、済み際になると居士が苦悶の声ながら「酒があろがな、なぜ先生にお上げんのぞ」と、母人などに注意するという仕合せ。だから、しまいには僕はあまり度々見舞わぬ方が却て病気のためだとの気もつき、自然遠ざかるようなことにもなった。
〇病牀六尺で僕らのホトトギスの選句や選者吟を居士が攻撃したから、僕も病気の慰めかたがたからかって答弁をした、処が、居士は今一度再駁して見たいと思っていたらしく、九月十日の蕪村輪講は居士が水腫を発し一層の苦悶で、中途からほとんど無言であったにも拘わらず、輪講が済むと直きに右の問題に移り、「西の京」を西京即京都のことだと答弁したけれども、現在奈良の一部を西の京という故「の」の字を加えてはその方になってしまって、京都とは聞こえまいということ、また「京都」の西部を「右京大夫」といったのは太祇の句に類似の詞があって手柄でないということ、などであって、一々もっともな再駁であった。その言葉も吐息をついでようよう切れ切れに出る位くらいで、如何にも苦しそうであったから、僕は成程そうだとばかりでなるべく居士に物を言わせぬことにし、とかくして暇乞を述べて帰って来た。嗚呼「西の京」「右京大夫」これが居士と最終の説論、また言葉の聞き納めであった。(内藤嗚雪 追懐雑記03)





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最終更新日  2021.07.18 19:00:04
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