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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2021.07.26
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カテゴリ:夏目漱石
   無花果や竿に草紙を縁の先  漱石(明治43)
 
 無花果は、クワ科の落葉小高木で、小アジア原産です。日本に伝えられたのは江戸時代で、『大和本草』には「寛永年中(1624〜44)西南洋の種を得て長崎に生う。今諸国にこれあり」、『庖廚備用倭名本草』には「その肉虚軟なるをとりて塩につけ、あるいはおしひらめ日に乾かして果に食す。熟すれば紫色なり。柔燗にして味わい柿の如し。核(たね)なし。元升曰く長崎にこの果あり。俗にナンバンカキという」と記されています。また「蓬莱柿」という名前でも呼ばれていました。
 無花果はペルシャ語の「アンジール」が中国で「映日果(インジェクォ)」となり、日本に伝わって「イチジーク」と発音されるようになったという説があります。また、果実の発達が早く、1か月で熟すことや1日に1果ずつ熟すことから「一熟(いちじゅく)」と呼ばれ、それが転訛ともいわれます。「無花果」と表記されるのは、一見すると花が咲かずに実がなるところからきています。
『吾輩は猫である』に出てくる無花果は「いちじゅく」と読みます。
 
「昔し希臘(ギリシャ)にクリシッパスという哲学者があったが、君は知るまい」
「知らない。それがどうしたのさ」
「その男が笑い過ぎて死んだんだ」
「へえー、そいつは不思議だね、しかしそりゃ昔の事だから……」
「昔しだって今だって変りがあるものか。驢馬が銀の丼から無花果を食うのを見て、おかしくってたまらなくって無暗に笑ったんだ。ところがどうしても笑いがとまらない。とうとう笑い死にに死んだんだあね」
「ははは、しかしそんなに留め度もなく笑わなくってもいいさ。少し笑う――適宜に、――そうするといい心持ちだ」(吾輩は猫である 8)
 
 クリシッパスは、哲学者のクリュシッポスのことです。彼は笑いすぎたために発作を起こして死んでしまうのですが、その理由がロバが無花果を食べてしまい、喉につまらせないようにと「ロバにぶどう酒を飲ませなさい」といった自分の言葉がおかしくて笑い寺にしたというのです。何が面白かったのか、ちっともわかりませんが、とにかく無花果は昔から食べられていました。
 
 また、『旧約聖書』では、知恵の実を食べたアダムとイブは、自分たちが裸であることに気づき、無花果の葉をつなぎ合わせて腰に巻いたとされています。また、もともと知恵の木は無花果のことを指していたのですが、のちにリンゴに変わったといい、欲望の象徴ともされていました。古代ギリシアでは、乾燥させた無花果が甘みを感じさせるために珍重されました。クリュシッポスに限らず、プラトンも無花果が大好物だったといいますから、好みには哲学者を夢中にさせる何かがあるのかもしれません。
 
『虞美人草』においても、ローマ帝国の著述家プルタルコスの『プルターク英雄伝』が出てきます。クレオパトラの記述で、藤尾をクレオパトラにたとえていることがわかります。最後に自殺してしまうのも、シェークスピアの「アンソニーとクレオパトラ」の影響を受けています。ただ、藤尾はクレオパトラのように、毒ヘビに乳房を噛ませるわけではありませんが・・・。
 
 御母さんの弁舌は滾々としてみごとである。小野さんは一字の間投詞を挟むいとまなく、口車に乗って馳けて行く。行く先はもとより判然せぬ。藤尾は黙って最前小野さんから借りた書物を開いて続きを読んでいる。
「花を墓に、墓に口を接吻して、憂きわれを、ひたふるに嘆きたる女王は、浴湯をこそと召す。ゆあみしたる後は夕餉をこそと召す。この時賤しき厠卒ありて小さき籃に無花果を盛りて参らす。女王の該撒シイザアに送れる文にいう。願わくは安図尼(アントニイ)と同じ墓にわれを埋ずめたまえと。無花果の繁れる青き葉陰にはナイルの泥つちの焔の舌を冷やしたる毒蛇を、そっと忍ばせたり。該撒(シイザア)の使は走る。闥を排して眼を射れば――黄金の寝台に、位高き装いを今日と凝して、女王の屍は是非なく横たわる。アイリスと呼ぶは女王の足のあたりにこの世を捨てぬ。チャーミオンと名づけたるは、女王の頭のあたりに、月黒き夜の露をあつめて、千顆の珠を鋳たる冠の、今落ちんとするを力なく支う。闥を排したる該撒の使はこはいかにという。埃及(エジプト)の御代召す人の最後ぞ、かくありてこそと、チャーミオンは言い終って、倒れながらに目を瞑る」(虞美人草 2)
 
『道草』と『彼岸過迄』にも無花果は登場しますが、こちらは庭の描写で、昔から庭に植えられていて、昔の子供達はそれをちぎって食べたのでした。
 
 健三はその留守に座敷のなかを見廻わした。欄間には彼が子供の時から見覚えのある古ぼけた額が懸っていた。その落款に書いてある筒井憲という名は、たしか旗本の書家か何なにかで、大変字が上手なんだと、十五、六の昔ここの主人から教えられたことを思い出した。彼はその主人をその頃は兄さん兄さんと呼んで始終遊びに行ったものである。そうして年からいえば叔父甥ほどの相違があるのに、二人して能く座敷の中で相撲をとっては姉から怒られたり、屋根へ登って無花果をもいで食って、その皮を隣の庭へ投げたため、尻を持ち込まれたりした。主人が箱入りのコンパスを買って遣るといって彼を騙したなり何時まで経っても買ってくれなかったのを非常に恨めしく思ったこともあった。(道草 4)
 
 婆さんは何直ですと答えて、草履を穿いたまま、石段を馳け下りて行った。叔父は田舎者は気楽だなと笑っていた。吾一は婆さんのあとを追かけた。百代子はぼんやりして汚ない縁へ腰をおろした。僕は庭を見廻した。庭という名のもったいなく聞こえる縁先は五坪にも足りなかった。隅すみに無花果が一本あって、腥い空気の中に、青い葉を少しばかり茂らしていた。枝にはまだ熟しない実が云訳ほど結って、その一本の股の所に、空からの虫籠がかかっていた。その下には瘠せた鶏が二三羽むやみに爪を立てた地面の中を餓えた嘴でつついていた。(彼岸過迄 須永の話 22)





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最終更新日  2021.07.26 19:00:06
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