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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2021.07.31
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カテゴリ:夏目漱石
   鐘つけば銀杏ちるなり建長寺  漱石(明治28)
   薫風や銀杏三抱あまりなり  漱石(明治29)
 
 最初に紹介した「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」は、漱石が当時住んでいた松山の「海南新聞」明治28(1895)年9月6日号に掲載された句です。正岡子規の代表句「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は漱石の下宿を離れた子規が、上京途中に奈良で詠み、11月8日に「海南新聞」で発表されていますが、「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」を下敷きにしたといわれています。
 
 銀杏は、中国原産の裸子植物です。世界古来の樹木のひとつで、中生代(約2億5000万年前〜約6600万年前)から新生代(約6,500万年前〜現代)にかけて世界的に生息していましたが、氷河期の到来でほとんどが絶滅し、中国の一種類だけが生き残ったのでした。そのことから「生きている化石」とも呼ばれています。そのため、他の樹木と多少異なり、雌雄異株で、精子で受精します。
 長寿で、長野県の樹齢2000年の木をはじめ、福岡や広島、高知などに樹齢1500年という樹木があります。また、根の張り具合によって、枝から「気根」と呼ばれる円錐形の突起が垂れ下がります。これを乳イチョウといい、安産や子育ての信仰が生まれています。
 種子のできるのは秋が深まった頃で、とても臭いが強く、触るとかぶれることもあります。この実を水に浸けて腐らせ、果肉を洗い流して種子を取り出します。
 漢方では、せき止めや夜尿症に効くといわれ、良質のタンパク質はコレステロールを減らし、滋養強壮にも効果があります。しかし、銀杏には中毒物質が含まれていて、食べ過ぎると痙攣などが起きることもあります。美味しいからと、調子に乗って食べ過ぎるのは厳禁です。茶碗蒸しに入れたり、軽く炙って酒の肴にしたりと、モチモチとした独特の食感に人気があります。
 
 漱石の銀杏に関するエピソードといえば、正岡子規に送った明治24年7月18日の手紙で、「ええと、もう何か書くことはないかしら。ああそうそう、昨日眼医者へいったところが、いつか君に話した可愛らしい女の子を見たね。—— 銀杏返しに竹なわ(=丈長=髪飾り)をかけて——天気予報なしの突然の邂逅だからひやっと驚いて、思わず顔に紅葉を散らしたね。まるで夕日に映ずる嵐山の大火の如し」と書いています。銀杏でも植物ではなく、髪型の銀杏返しです。
 
『それから』には、代助が友人平岡の妻三千代と会った時、三千代は結婚以来結ったことのなかった「銀杏返し」の髪型で登場します。
 
「兄さんと貴方と清水町にいた時分の事を思い出そうと思って、なるべく沢山買って来ました」と代助がいった。
「いい香いですこと」と三千代は翻がえるように綻びた大きな花弁を眺めていたが、それから眼を放して代助に移した時、ぽうと頬を薄赤くした。
「あの時分のことを考えると」と半分いってやめた。
「覚えていますか」
「覚えていますわ」
「貴方は派手な半襟を掛けて、銀杏返しに結っていましたね」
「だって、東京へ来立きたてだったんですもの。じきやめてしまったわ」
「この間百合の花を持って来て下さった時も、銀杏返しじゃなかったですか」
「あら、気が付いて。あれは、あの時ぎりなのよ」
「あの時はあんな髷に結いたくなったんですか」
「ええ、気迷きまぐれにちょいと結ってみたかったの」
「僕はあの髷を見て、昔を思い出した」
「そう」と三千代ははずかしそうに肯けがった。
 三千代が清水町にいた頃、代助と心安く口を聞くようになってからのことだが、始めて国から出て来た当時の髪の風を代助から賞められたことがあった。その時三千代は笑っていたが、それを聞いた後でも、決して銀杏返しには結わなかった。二人は今もこのことをよく記憶していた。けれども双方とも口へ出しては何も語らなかった。(それから 14)
 
 三千代は何にも答えずに室の中に這入て来た。セルの単衣の下に襦袢を重ねて、手に大きな白い百合の花を三本ばかり提げていた。その百合をいきなり洋卓(テーブル)の上に投げるように置いて、その横にある椅子へ腰を卸した。そうして、結ったばかりの銀杏返を、構わず、椅子の背に押し付けて、「ああ苦しかった」といいながら、代助の方を見て笑った。代助は手を叩いて水を取り寄せようとした。三千代は黙って洋卓の上を指した。そこには代助の食後の嗽いをする硝子ガラスの洋盃(コップ)があった。中に水が二口ばかり残っていた。
「奇麗なんでしょう」と三千代が聞いた。(それから 10)
  
「銀杏返し」は、もともと島田髷の格好を銀杏の葉のように広げたものです。相撲の際に関取が結う髷が「大銀杏」ですから、ほとんど基本的な神の結い方といってよく、下の部分を強調した「根下り銀杏」や仇な感じの「銀杏崩し」などがあり、「銀杏返し」もそのバリエーションの一つで、真ん中でわけた髪を左右にふっくらと整えた髪型です。幕末から明治・大正にかけて少女たちの間で好まれました。
 また、樋口一葉の日記「若葉かげ」の明治24年6月20日に髪型のことを書いているのですが、その中に「銀杏返し(〇こは大人となく、子供となく結う。結び髪というものなるべし。儀式の折などには結ばぬなり)」と書かれています。また『東京風俗志』にも「十二三歳に至れば、はや、銀杏返しなどに結い始め」とあり、「銀杏返し」は、幼児から30歳くらいの女性の髪型ですが、どちらかといえば、成熟した女性の髪型ではなく、未熟さを強調するものでもありました。





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最終更新日  2021.07.31 19:00:05
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