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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2021.08.05
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カテゴリ:正岡子規
 瓢亭は、「日本」新聞に入っていた子規から、新しく「小日本」の編集長になったことを知らされ、子規の誘いに応じて「日本」に入社します。せっかくの医者生活を捨て、新聞記者になることに、親戚などから反対されたのですが、子規との約束を重んじたのでした。
 日清戦争がはじまると瓢亭は召集され、看護長として従軍します。各地に転戦する瓢亭は、犬骨坊の筆名で「従軍日記」を書き、文名を高めます。
 
 話が大分混雑をして来ましたが。子規が大学を退いたのは、この廿五年の夏期休暇が境界線であったと思います。彼が『日本』に入社したのは大学をやめた当座でした。元来子規は早くから肺結核に罹っていましたので。まだ高等中学に通っていた時からしばしば血を略きました。子規という雅号も全くこの血を吐くという所から来たのです。かようにこの男の病身なのは随分久しいのでありますが。昔からその精神の堅牢にして少しも病人らしくないのは。我々同人を初め子規を知ったもので驚かされぬものはないのです。第一お医者様が舌を巻いているので。彼はほとんどその精神の精英で生きているのだ。とても尋常の人間であったならモウとうにまっているのだ。この向きでは一層全快してしまうだろうなどというております。一体こんな風の男だから書生の時分からまたすこぶる横着者で。とかく学校の科目などには余り心も傾けられないようで。自分勝手に勉強をしました。所がこの夏の試験で後一年という所で落第をやらかしたが。子規はこれを機として断然学校をよしました。当時子規の周囲は皆不平の声ばかりで。モウ一年で卒業だというに今やめるは馬鹿々々しい。人爵を崇拝するでは無いが、とにかく学士の肩書を取って置くにしくはない。などと注告するものの多かったようでしたが。面白いことにはこの時僕は一向そんな感じもしない。ナーニ学校を卒業して学士の肩書がなんだい。そんなもの今に掃溜にころがるのだ。という考えで平気なもの。やめるのもよかろうよ位な風で。却って欣んでいたと見えて今当時の子規の手紙の中に『小生の落第を喜ぶ者広き天下に只貴兄一人矣』という文句があります。イヤ僕も随分乱暴な奴です。
 上にお話し致したように。木曽路の記を前ぶれとして子規は此秋『日本』に入社してから。ここでもっぱら文学の方を擔任して。かの俳句欄が初めて『日本』紙上に開かれました。今のいわゆる新派の俳句がようやく世間的になる第一着歩は全くこれに在りというて宜しかろうと思います。今まで日蔭者であった我々の俳句は。これから世間に出る通路が開かれたので一層乗気が出来ましたから。ますます必死の勉強で句作を試むると。既に進歩の途に向うている同人の句は。ずんずん若鮎の瀬を昇る有様になりました。ただ面白くてほとんど夢中で。このごろはわずかに『日本』の一隅に十行未満の所にポツリポツリと出るのが。非常に嬉しくてたまらなかったのです。我々の俳句はこの廿五年になって如是進運に向うとともに。句も発達するし。仲間も多くなるし。幾分か世間的になって来ました。とかくするうち、やがて明治廿六年の春を迎えました。
 去年廿五年正月は。駒込の子規が寓居で非風と子規と僕の三人で。その競吟の発端を作りました位で。同人の俳句もすこぶる寂しかったですが。今年廿六年の正月は。全くその境遇を一変して即ち正月廿二日というに。根岸の岡野で大会を開きました。この時の兼題が。梅、鶯、霞というので一人二句でありましたが。
(以下略・競吟の句)
 進歩したとはいえ今から見ると恥しくて世の中に出されたもので無いが。しかし以前から見ると一段階段が違っています。クズの手も付けられない句が多いけれど。中には早や一ケの句として決して恥しくないのもあります。ことに嗚雪翁の句などは咋年入門した時から見ると極めて目立った進歩で。この句の中にある『夕月や納屋も駁も梅の影』など、いうのは。当時同人の間でも喧他致しました。
 サテ右の内で桂山、松宇、猿男、桃雨というこの四人の連中は。以前に別に椎の友という一団体を組んでいたので。やはり旧派の宗匠連にあきたらなかった人々ですが。廿五年中に子規と交通が初まっ
て後。この大会を機として以後ほとんどしばらくは一所になりました。その他の嗚雪、子規、明庵、五洲、古白、及び僕は同郷の者で嗚雪を除くの他は。皆青年で御座ります。また木同は僕等のいわゆる兵隊組で。当日先生は近衛二等卒の兵服。僕が看護手の服で坐りこんでいたのですが。すこぶる奇観であったろうと思われます。
 所がこの日運座をやっている最中に。火事だという騒ぎで。ナンデモ浅草の方で猿男と桃雨との近所だということで。中途で。一座は解散してすぐに見舞に出かけましたが。その数日後に右の兼題の
摺物と一所に。蒟蒻版で左のようなものを送ってまいりました。
(以下略・競吟の句)
 今はこの時に会合した連中も。色々に境涯を変じてうたた今昔の感に堪えませんよ。技師になって神戸に往ている者もある。税関長で函館にいる者もある。日本銀行の何かになって大坂にいる者もあ
る。中学校の先生で国に帰っている者もある。東京にいる者も文部省に出るとか。仏国博覧会に関係したる会社へ出るとか。保険会社へ出るとか。郵便局長でいるとか、新聞記者でいるとか。各々方面が違っているので中々一つに会するどころでは無い。ほとんど顔も合さぬようになっている。もっとも東京にいるというても始終いついている者は少く。多くは地方へ出たりまた東京へ来たりというのですから、同じ東京にいることさえ分らぬ位です。中には行方の知れぬのもあるし。あるいは世の中を厭うて自ら殺したる古白の如きもあるのです。俳句界はその時から今日まで一年一年栄えているけれど舞台に上っている人間は年々違っているから面白い。(五百木瓢亭 夜長の欠び 5)
 
 三年の軍隊生活は我輩にとってはむしろ暢気な時代であった。最初の六箇月間は人並に練兵もやり、およそ新兵が経験するだけの苦痛は嘗めたが、その後我輩は看護手を志願し、当時衛戌病院内に在っ
たその学校に入ったので、すこぶる楽な身分になった。この学校は六箇月で卒業する規定になっており、勉強といったところで大したことは無いから、その余暇を利用して盛に本を読んだ。卒業して隊へ
帰ってからも、もう皆と一緒に練兵するようなこともなし、ことに我輩は医者の免状を持っているものだから、夜中急病人などが起った場合でも、先ず五百木看護手に見せて、しかる後処置を決すると
いう風で、特別待遇を与えられておった。我輩の一生を通じて、この二年半ほど読書に耽り得た時代は全く無い。
 その間に正岡の文学趣味はだんだん発達して来る。二十四年の暮には例の「月の都」という小説を書くために、寄宿舎を出て駒込に家を持ったりした。この駒込の家は我輩も行ったことがあるのだろうと思うが、今どうしても思い出せない。二十五年の春には根岸に移った。これは今の子規庵ではない。八十八番地の方である。我輩は正岡とは始終逢う機会があったし、また逢う以上に手紙を往復した。俳句の方もだんだん盛になる。例の何々十ニヶ月というようなものを、あとからあとからと作ってよこしたのはこの頃であった。
 二十五年の末に正岡は大学をやめて日本新聞に入った。正岡が伊藤松宇と相識ったのはその前後からではなかろうか。二十六年に入っては句会の顔触も大分賑かになった。松宇と一緒に「俳諧」という雑誌を出して、二号か三号で潰れたのも、二十六年になってからだったろう。一方「日本」の文苑にも絶えず俳句を出すようになったし、吾々仲間の俳句も世間に出る機会が多くなって来た。
 正岡が「はてしらずの記」の旅行に出る時、我輩は「松嶋で日本一の涼みせよ」という餞別の句を作った。「はてしらずの記」には「折ふし来合せたる諷亭一人に送らる。我れ彼が送らんことを期せず、彼また我を送らんとて来りしにも非ざるべし」と書いてあるが、このことは全く記憶が無い。軍隊にいた時分だから、その日が日曜ででもあって、偶然行合していたものかも知れない。
 我輩の軍隊生活が終に近づいた頃、正岡が手紙をよこしてこういうことをいって来た。今度日本新聞社で別に「小日本」という新聞を出すについて、自分が主になってやることになったが、君も一緒にやらんか、というのである。我輩は元来医者になるのが厭で堪らないのだが、外に何も無ければ仕方が無いと思っていたところだから、早速承諾した。除隊匆々松山に帰ることになって、途中京都に碧梧桐、虚子を訪うた。両人ともまだ高等学校の生徒で、吉田村に下宿していた。「吉田のしぐれ」という句稿はこの時出来たのである。
 松山では我輩が医者にならぬということについて、無論反対があった。しかし我輩は正岡と約束しているので、とうとう頑張って帰って来た。「小日本」は「日本」と同じく、紀元節に誕生したのだ
から、二十七年の一月中に帰って来たものだろうと思ふ。
 昌平橋の通を真直に突当ったところ、神田雉子町三十二番地に日本新聞社は在った。団々珍聞の迹で、ボロボロの南京屋敷である。その筋向ーー中川という牛肉屋のならびに蕎麦屋があって、その隣の角家で奥に土蔵がある、その士蔵の二階が「小日本」の編輯室であった。八畳あるかなしの狭い部屋だったと思う。その時の顔触は古島一雄、齋藤信の二人が二面担当、仙田重邦が会計経営の方面で、多少経済記事などもやる。外に荒木という相場記者がおった。我輩は三面を引受けて、探訪を二人ほど使う。正岡は主に文学方面の記事をやることになって、旧稿の「月の都」を第一号から連載したりした。
 日本新聞社では毎年創刊記念日として、紀元節に宴会を開くことになっている。この年は「小日本」の創刊祝賀を兼ねて、開花棲で宴会を開いた。正岡もはじめて自分が主になってやる仕事が出来たので、多少嬉しかったらしい。二次会をやろうと行って、我輩を吉原へ連れて行った。我輩を吉原へ案内した最初の人は正岡であった。
「小日本」は小人数ではあるし、毎日一頁分位の記事を書いて校正から大組まで見て帰るのだから、午前十時頃出て行って、どうしても夜の十時頃までかかる。工場は無論日本新聞のを使うのである。我輩は新聞には無経験だったけれども、その頃は何か書くということに興味があったし、元来無頓着な性分だから、不馴な仕事の中に飛込んでも存外平気だった。月給十二円、その頃は十二円あれば、下宿をして楽に暮せたものである。正岡も割合に元気で、毎日車に乗って出て来た。
 そのうちに画家が必要だというので、浅井の紹介で中村不折が入社した。これは毎日社に出て来たわけでもなかったかと思う。次いで石井露月が校正に入る。それまでは校正はめいめいが見て、別に校正係というものは無かったのだ。露月が入ってから間もなく、我輩は召集されて広島に行かなければならなくなったので、露月のことはあまりよく知らない、露月は「小日本」発刊後「日本」に移ったが、我輩が「日本」に入った時はもういなかった。その後逢う機会はあったかも知れないけれども、何も記憶に残っていない、今でも露月のことを考えると直ぐ眼に浮んで来るのは、「小日本」に来た当時の、鼻の低い、丸い顔である。
 我輩と同時に入営した非風は、士官候補生になっている間に、肺を病んで軍隊を退いた。その後の彼は自暴自棄に陥り、放縦な生活に入ったので、正岡はすこぶる気に入らなかった。そういう薄志弱行ではいかん、というのである。非風が失業して困っているので、雑報でも書かしていくらか煙草錢でも取れるやうにしたのは、この「小日本」時代だったような気もするが、これもはっきりしない。
「小日本」は紀元節に生れて盂蘭盆に倒れた。我輩はそれより前に軍に従って広島に下り、しばらく滞在している間に正岡から廃刊のことを知らせて来たのである。我輩が出発する時には、それほどセッパ詰っているとも思わなかった。原因は経済難であるが、当時は日清戦争前なので、「日本」は盛に内閣攻撃をやって発行停止を食う。仕方が無いから今度は「小日本」を代りに用いるので、この方もやられる。日本新聞社と小日本社と向い合って発行停止の看板を出していたこともあった。それやこれやで長く続かなかったのであろう。
 我班がいよいよ出征したのは牙山の戦争が済んでからであった。陣中到る処から書いて送った「従軍日記」は、犬骨坊の名で、「日本」に連載された。この切抜は不思議に全部我輩の手許に残っているが、一体あれを書いたのは正岡の註文によったものだと思う。最初の間はすべて正岡宛に送り、正岡が目を通してから「日本」へ廻していたようであった。(五百木瓢亭 我が見たる子規 「小日本」以後)  





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最終更新日  2021.08.05 19:00:05
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