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カテゴリ:正岡子規
子規が松山を離れた後、松風会は月一回の例会では飽き足らず、随時会員宅に集って、その会稿を子規に送って評価を乞うなどをしていましたが、明治29年頃になると次第に熱を失ってきました。これは、叟柳、梅屋、愛松といった松山尋常高等小学校のメンバーが次第に熱気を失ってきました。 子規の『明治三十年の俳句界』には「地方俳句会の最も古き者を松山の松風会とす。起源数年前に在り。(中略)昨年の上半にありては松風会、百文会、北声会など、威を振いし者漸次に哀え、下半に在りては満月会独りその隆盛なるを見る。しかれども一盛一衰は種々の原因に出ずるものにして、必ずしもその地方の俳句の退歩を示す証拠とは為し難し」と書いています。また『明治三十二年の俳句界』には、「俳社一覧表」のうち、伊予の部に吟風会、無声会を挙げて、松風会については「伊予松風会哀えて出雲碧雲会盛に」とあり、これらからも次第に衰退してきたことがわかります。 しかし、松風会は明治33年に白石南竹らによって再興され、翌年には森田雷死久・村上霽月・仙波花叟らによって復興を果たしました。ただ、大正時代末期には「松山ホトトギス会」の名で活動報告が見え、松風会は、「松山ホトトギス会」に自然に吸収されていったと思われます。 叟柳は、松山尋常高等小学校から松山第三(現八坂)小学校校長、松山第一(現番町)小学校校長を経て、温泉郡視学となって教育家の道を歩み、晩年は松山市学務課長となって、のちに市会議員となりました。 叟柳は、松山から離れず、地方の俳句界で後進の指導にあたりました。阿部里雪の『子規門下の人々』には「叟柳先生は晩年、頭髪中央部が少し薄れてきたし、句会の時には眼鏡をかけて選句をしていたが、教育畑の人だけに穏やかな風貌であり、長老として尊敬され、旬会はいつも皮柳先生を中心として催された。松山の松風会も叟柳先生あっての松風会であり、先生健在なる時は盛んであったが、先生の遠逝とともにその名実は失われてしまい、虚子先生のホトトギス派がこれに代わってしまった」と書かれています。 叟柳は、昭和7年8月18日、69歳でこの世を去りました。
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最終更新日
2021.09.10 19:00:06
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