2484360 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

プロフィール

aどいなか

aどいなか

カレンダー

バックナンバー

2024.03
2024.02
2024.01
2023.12
2023.11

カテゴリ

日記/記事の投稿

コメント新着

ぷまたろう@ Re:子規と木曽路の花漬け(09/29) 風流仏に出でくる花漬は花を塩漬けにした…
aki@ Re:2023年1月1日から再開。(12/21) この様な書込大変失礼致します。日本も当…
LuciaPoppファン@ Re:子規と門人の闇汁(12/04) はじめまして。 単なる誤記かと拝察します…
高田宏@ Re:漱石と大阪ホテルの草野丈吉(04/19) はじめまして。 大学で大阪のホテル史を研…
高田宏@ Re:漱石の生涯107:漱石家の書生の大食漢(12/19) 土井中様 初めまして。私は大学でホテル…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2021.09.22
XML
カテゴリ:正岡子規
 古白が、死の半年近く前、子規に変調を訴える手紙を出しています。また、『藤野潔の伝』にも遺書を記していますが、これらの手紙は、きちんとした論理的な文章になっています。
 つまり、古白の死は突発的なものではなく、覚悟の上での自殺だったようです。
 古白の死より二日後の9日、広島に滞在していた子規に、藤野古白がピストル自殺を図ったという報が届きます。また、河東碧梧桐からは金州に帰った24日、古白の訃報が送られてきました。碧梧桐による手紙には古白の死の詳細が書かれていました。子規は「春や昔古白といへる男あり」の句を詠んでいます。
 
 死に臨みたる古白はなお平和を装いたり。その遺書の中に曰く
 
(略)彼のいわゆる厭世哲学家の如く人間の活動を貶してこの界は厭う可きものなりとの執見を抱くにはあらずして、しかも生の徒らに予には悒怏(ゆうおう)を増さしむる、汗を如何にというにこの界が予には縁遠く世事か予を活動せしめ、もくは反動せしむ可き制限を予に与えずなりたる。即ち予が生存ということにインテレストを抱かずなりたるなり。これ予が従来の行為経歴の畳積したる結果にして固より一朝の故をもって自ら求めて遂にここに至れるには非らず。されば余が把持するところの理想もしく希望の実際と画定するなど頓挫転倒を物うきことに思いたる失意が(略)原因なるにはあらず。しかも世界が予の当て抱きし所の理想及び希望の如くにありたらんには、予は夢にも自暴の想をば為さざりしなるべし。かくいう時は常識はあるいは予を目して詭言をなす者とやせん予は必ずしも理想若くは希望の質世界の風潮の為に涅格されたる事を苦しんでの故に(略)あらざる次第は此に予が理想若くは希望を述ぶることによりて自然較明なるべし。そもそも国の富のためには家の貨財の幾分はこれを公に納れざる可からざると一般絶対というものの、完全ならんがためには個人においては多少の欠漏なきを免れず。水に映れるために月は光を損すというに非ず。しかも人智は際涯あり。よし人智は限なくとも、春の草を何故に青きぞと穿鑿をせんは、これを疑問狂というべく、これを哲学家なりとはいわぬなり(略)
 因果は渝ゆ可からず。この界は適種生存なり。尩羸(おうるい)なる脳髄に懶惰性を載てこの界に生れ出たる予幼稚なりし程は知らず。十歳を超て祖翁の膝下に学庸の句読を授けられし時、常に巻に向て泣かざることなかりしは今も記臆す。その時読書を嫌しは、かくの如くなるも書は読む可きものなりとの観念は嘗失わず(略)その後、故山の休養一年余にして再び都門に出て、狂余の廃人をもって文学を修む可き学校に入り、ここに在学約三年の間は従前の行状に比すればやや勤勉なりきと謂うべし。卒業試験に用意せんために、いかで審美学の創説を作らばやと思立てより数月に数度の稿を作りし中に、注意を一点に凝らすの精神力を失い、脳髄の痛疼と胃病とを興し、治療のため几邊の稿本を引破て故郷に帰りしが、二月許する間に自から力なきを歎して(略)この念押えがたく、かつつ如斯は予が毫も意を働かす一事をせざりしの果(略)なりと思得たれば、活動せんことを目的にて、また故郷を出つ二月許りはこの念を忘れおるを得たりしが、今は遂に耐えがたきなり、顧て思うに予が精神昂沈不定にして意向をして恒に一事一物に専らにせしむる能わず。勇猛進取の気力は例として、一時の発作たるに止りて持久するを得ず。傲慢にして他に愬うることを得為ささりしの果、遂に憩うる所なきに至りてここに現世に生存のインテレストを喪うに畢りぬ(略)行為の迩についてこれを観れば、大勇なるものあるに似たりといえども心術に至りては洵に極めて怯なり心術と行為との恒に矛盾したりし予が最後は、嗚呼終にかくの如くならざるを得ざるか人間か。外囲の刺戟に反抗し得るの力は際限有りて、心をもって身を制し、よく物質の羈絆を脱落し得んは、予において遂に為し難きなり(略)
  明治二十八年三月十日         羊年男生年二十五歳識
 
 彼は自ら狂なりという、しかり彼は狂なり。狂なれども狂人的なるを嫌いて、なるべく平和を装わんとす。同じくこれ生存競争に負けたるなり。しかも彼は世を厭うに非ずして、世にインテレストを持たずなりたるなりという。彼は更に之を説明して、希望の満たされざりしがために非ず、しかも希望にして満されなばあるいはインテレストを失うに至らざりしならんという。この説明は矛盾せり。これその狂せるがためなり。しかしながらその矛盾せるにも拘らずなお一貫せる自己の論旨は終始漁らざるを見る。何ぞその真面目なるや。意思強き人といえども、死に臨んで文を書す多少の錯乱を免れず。いわんや意思もっとも弱き古白にして死を見る帰するが如く、この真面目の遺書を作り、感情に訴えずしてかえって秩序的の説明を試るに至ては「大勇に似たるもの」あり。しかれども古白には勇気なきなり。勇気なくしてこの如く真面目なる所以の者は、ついに解せざるなり。これ狂なり。
 古白が世の中にインテレストを失いし素因を先天的に存せしものありとも、これを促したる誘因およそ四ケ条あり。第一は前に論じたる文学上の失望これなり。第二は生計を立て得ざりしことなり。明治二十八年三月六日附を以て某に与えし書中に曰く
 
(略)しかるに小子才芸無く実世界において一方の位置を得るに難く、しかもなお心身を稿灰ならしめて幽谷に火食せざる人となることを願わず。老子のユートピヤ、家の理想に非ざるなり。力食天地に愧ずるなくんば、五斗米に膝を折るもまた何かあらん。しかも小子性として手に算盤を把るに拙不才浅識、また耕をもって衣服を獲るの道なし。詮し来れば謭劣世に立つの能なきなり。能なしといえども彼の僥倖的を羨むを屑とせず、また誰をか恨まんや(略)
 
 と書し、更に身を立つるにもっとも出来易き方法は英語をもって教員検定試験を通過するにあれども、それさへなお一年余の準備を要すれば実行難き由を書し、更に水産業に志して一葉に悼し万頃の茫然たるを凌がんかと思う由をも認め、最後の一節に曰く
 
 自分右縷陳するが如きの心情なるをもって、先夜所承垂誨の如きは小子到底その任に非図。身を立つること能わず。争て家を立てんや。己を利すること能わず。奚ぞ他を利せんや。
 
 と。彼が性はうきうきとして水に漾うが如く、到底規則的の職業に従事する能わず。水産業というは比較的に彼に適せる者を択びたり。されどもここは快染の点よりいうことにして過度の労働は彼が耐
うる所に非ず。彼はついに一の職業に就きたることなかりき。
 第三は家族における配慮なり。幼にして母を喪い継母に依る。同母妹一人異母弟二人異栂妹二人あり。家庭の訓誡厳にして過あれば仮借せず。古白のもっとも畏るる所は父君なりき。母方の叔父また亡き母に代りて訓誡する所多し。古白この叔父君を畏る。しかも毫もこれを嫌忌するの意はなきなり。藤野氏二家に分る。他の一家は海南翁(古白の実の伯父、義理の祖父なり)の家にして常に東京に住む。古白書中に「祖翁の膝下に学庸の句読を授けられ」とあるは海南翁のことなり。
 古白は道徳上より論評を下して毫も悪と目すべき所行無し。普通の人必ず多少の悪を秘密の中に有す。古白に至りては秘密の悪なかるべしと信ず。もし少しにても悪行ありたらばそれは意外の結果を生じたるものにして、古白の意思は公明正大天地に愧ずるところなかるべし。けだし古白は卑怯にして寸毫にても悪と認めたることを為す能わざりしなり。かくの如く無邪気の古白なれば、家族誰一人これを愛せぬは無く、親戚朋友誰一人これを憎むは無かりき。されども古白は家族の調和につきて配慮すること多く、他の家族を見て精細の観察を施すこと常なり。彼はその継母に遺すの書を認めていう。
 
(略)命の際に遺言書などは相認申問敷、予てよりの心算に御座候えども、事情難已により思想の乱も如何なれども一書かきのこし申上候というて、さて何をさきに可申上歟。永年の御恩愛などはとても
(略)申さる言葉には無之申すも、愚痴がましきことは一切申度無之候。さて申度は準滋なと御教育の方にて候えども、委曲は筆にまかせかね侯。唯一言申さてかなわぬ義は、嬾惰に日をおくることの極めておそろしきものなることを思いしらしむる様、万般の所為に就而傍よりよくよく御注意。この義くれぐれ御願申上候。しかし右は旦より晩まで始終几に向て読書勉強致すようにとの意趣にては無之候。人は各生れ得て、格別の性質あるを角をためて牛をころすとかや唯空しく徒らに目をくらすことなく、遊戯にても活発に身心を動かして魔のささぬように仰而天に愧ずるようなる陰翳のささぬように被致候が肝要にて候。嬾放なれば自然に魔がさすものにて候。なお他の言葉にて申せば気力を養うということに御座候。児女を嬾惰ならしめさらんようにせんには家庭に蔓鬱なる気有之間敷候。この所畢竟は和気が第一にして候(略)今より十年程も相過候後、家のうち極而楽しきように相成可申。何事もそれまでの間の御辛抱にて御座候。得は日々可成陰気な方のことは心の内に御とり入なく来日を望て喜望の方に一歩々々御近附なされ候。半事くれぐれ祈上申候。私只今は精神くるい一種の狂人に御座候えども、折々は真面目の考も胸に浮美、この書は誠にまじめになりて相認候。しかし己は己を知らぬ者なれば狂人の句調有之可申歟。自身にては判断いたしかね候(略) 生存し居て働かねばならぬとは折にふれ胸にこたえ候えども、妄念と知らぬにはあらずして(略)遂に思いとまり難く相成申候。仏説という前世の因縁なれば、渇して飲を欲すると同理、致方なき儀に御座候。何事も因果なれども、その因果に乗すれば何事も人間の力のうち種をまけば生えるは即この理なれば、五年十年先きの幸福今から種を御まきなされ候。御工夫第一たとえ一歩半足なりともその方へ向て御進みなされ候よう、不断御心に御懸なされ候。半よう祈奉候。今書く筆の穂先をぬらす硯の水の乾かぬ間に私の命はなきものに可相成存居候えども、如何なる因緑有之また意外の辺に命を繋き可申やらん未来なれば、これも相知不申ことながら、もしまた硯の水命よりあとまでもかわかず有之候わば、これも因緑なり。誰か殺す者なるや誰か死ぬる人なるや。これもくだらぬよまい言、自暴自棄ほどの悪業はまたと有之間敷とは万々承知にてありながら(略)くるしからぬには候わねど、一度癖と相成たる一念遠離致すの気力も無之候。臨終の御願と申は、くれぐれも御気落なきようこの儀ばかりに御座候。潔。頓首。
   母上さま       三月六日夜
 
 この書を読む者、誰か古白が家庭に対する愛情に同感せざる者あらん。彼は初に二弟(準滋とは二弟の名なり)の教育を説き、次に同母妹に対しては世間前を憚り、機嫌を取りて増長せしむることなどはなきようと頼み、終始和気の二字を骨子として死後の和楽を望みし彼の心中を思えば、実に憫むべきものありて存す。古白と最も親しかりし余は、遺書を開いてここに至れば、眼をしばたたかざることなし。
 第四は熱情を外に発する能わざりしによる。熱情の最も著きは愛なり。この間には多少の秘密もあるべしといえども、その秘密の中に道徳的悪意を含まざることは古白の性質より考えても、熱情の性質より考へても、保証し得べし。彼は実に花柳社会に流連することなどは夢にも知らざりき。彼がかつて長文の一書を認めて、未だ親まざるの愛人に贈りしが如きは世俗の少女に対して理想的の愛を得んと
したるものにして、その方便のつたなくやさしき処、彼の愛の無邪気なるを見るに足る。
 彼は自らいう、吾は狂を自覚するの狂なりと。狂と自覚する程の真面目なる彼をして狂ならしめしものは、この数箇の失望に因らずんばあらず。この中の一箇條にても彼の希望に副わしめば、彼はなお浮世に対して全くインテレストを失うには至らざりしなるべし。(藤野潔の伝)
 
 長々の御無音御海容被下度候。さてこの度古白子の珍事につきては嘸かし御喫驚のことと奉推察候。小生もほとんどことの出ずる処をしらず、魂を消し申候。小生のしりしはその日他出して家にあらざりしかば、その日の午後七時頃にて候いし。それよりは毎日毎日病床にありて看護致せしことなれば、聞きたること見たること等、概略御報申候。
 午前九時過なりしとなり。家人の耳に(切通の家と知り玉へ)豆を板にうちつけたる如き昔きこえけり。古白子はいつもいつも長寝して十時過ならでは起き出で玉わず、その前日もかわることなかりし故、今のは大方小供の悪戯ならんとてそのままにきき流し玉いしに、またまた前の如き音きこえけり。この度は小供もともに朝飯をくいおられければ、何やらんとていそぎ古白子の部屋に入りて見玉ひしに、古白子は左手にピストルをもち寝衣臥褥、皆肝血にまみれほとんど死状を呈しおりたり。皆々ことの意外に驚き、直ちに警察へ届け警部などの臨検を請いなどし、一方には内藤先生その他知己に使を走しぬ。警察署にはビストル、と弾丸の殻二箇と遺書全て六通のうち封のしてあらざりしもののみとりかえりぬ。内藤先生のかけつけられし時は息もはかばかしからず、最早落命せしかと思わるる許なりしとぞ。
 何をいうても親身の人とては独もなく皆に冷視せられて誰一人主となりて慟く人もなければ、内藤翁はすぐ様自ら主となりて直ちに大学の第一医院へ入院なさしめ玉いぬ。これより先町医堀澤とかいう人来り、一応疵口(眉間に一つ、後頭ぢぢんこあたりに一つ)に姑息の手あてしたりしが入院後(入院の手続など凡て内藤先生の尽力による)当直医もまた血どめくらいの手あてにてやみぬ。入院せし時カンフルという興奮剤を注射せしよりも息もようやくたしかとなりたり。かつ半身全く不随。すなわち左脳を傷けたりと見えて右方はちとも動かざるに比して左方の力なかなかに強く、ことに左手の如きは虚子さえも得抑えざる程なりき。もしこれを放擲しておけば頭の包帯をむしり取るの恐れあるなり。また頭を動かして体を横にひねらんとして左足を縦横自在に慟して勢なかなかに当るべからず。これ故にその看護人は常に三人を要せざるべからず。折々かわりもせねばならぬ故、四人はいつも看護として附随おりたり。されども人事全く不通にして、小便も吾知らずもらし、問えども答うるの様なかりき、言語の機能を損せしかアアウウと許うめけどうは言などは一つも出ず、かくてその日も過ぎ明くる日の午後(小生は眠りに帰宅中)三並氏の働きにて(当時第一医院長独逸人スクリッパ及び木原という善き医師、二人とも馬関に李翁を見舞いて留守なりし)、第二医院長佐藤三吉氏の手術をうけたり。最初当直医の話によれば銃丸は深く脳中に入りおれば、到底これを抜く事能わず。もしこれを抜かんとせば頭蓋骨を割くにあらざれば出でざるべしさすれば生命もなしとのことなりしが、三吉氏は眉目を割いて玉を探りしに前よりは丸のかげの細きもの三つ四つ出たり。後頭部のは骨に遮られて盾の方にすべりしがこっちは完きものを探り出したり。しかして前頭のものの他の残りは深く脳中に入りたるが如き様なれば、到底これを抜くべからずとて、またもとの如く包帯しぬ。この手術後よりして言語も少しくいえるが如き観あり。キヨムサンと呼ベばウウと答え、その他返辞はいつもたしかなるのみならず、何やら言薬をもいう様は見えたり。かつ左手左足の運動はもとの如く、右方は不聞なり。薬など飲せば少しは安眠するも大抵煩悶の時間多かりき。この時頃よりしきりに氷など噛ませしが、そのうれしそうなるは氷を立ろにぐわぐわりと噛むにてもしられ、薬などはもっともうまそうに飲めり。牛乳もはじめはロをしめて飲まざりしが、この時よりまたもっとも容易に咽下せり。その量日に二合、多き時は三合なりき。
 かくして日を経しが始めより医師は生命の覚束なきをいいおり、小生らもその病体を見て今更回復したりとてかえって古白子の煩悶を増すのみ。むしろこの世の人たらざるを願えり。事甚だ無情なるに似たれども小生の心中御察し被下度候。
 藤野漸氏は九日の午後十一時四十分に見えられ、諸人はじめて少しは落居たるの感ありき。けだしそれまでは内藤先生のみ一人心を労せられ、切通の藤野の如きは皆々ほとんど対岸の火視せられたるやの思いありしなり、漸氏、父なり見えるや申されても眼はきろきろと他人よりは見ゆる如くなるも、何の感も無きに似たり。いわんや十二日の朝参りし大兄の写真をや。
 小生と高浜は最初より毎日夜伽に参りおり候いしが、十日の夜より手足の運動ようやく弱わり、煩悶よりは安眠の時間長くなりたるの感あり。十一日の夜二時頃より寝て朝七時起きて見しに、昨夜よりはまた瓦羅離と変りたるの思いあり。色ようやく青く、両眼瞼に下りし血液色黒く紫となりて瞳孔の動きようよう鈍く、口も閉ずる事能わざるに到れり。医師もまたその危篤を告ぐ。すなわち急に人を走せて諸人を呼び来りしが、十二日の午後二時終に溘然として逝きぬ。
 吾が同郷の友五六人いつか大幟を推し立てて天下に鼓撃するの日あらんを期せしに、今や已にその一人を失う。もしそれ往事を追懐し花晟月夕相笑談せし時のことを思えば、衷情縷々暗涙しきりに胸をつく。吁。落花情なく雨徒らに寒し。
 この度の事につきては内藤先生の尽力は非常なるものにて夜伽はせられぬかわり、朝は早朝より暮はおそくまで大方つめきりにて何かに気をつけ玉いぬ。その努その煩、先生の御心も哀れに覚えぬ。……以下略……(河東碧梧桐 明治28年4月14日 子規宛書簡)





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021.09.22 19:00:05
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.