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カテゴリ:正岡子規
拓川は、香港で11月18日にへイオ号、12月23日にはイラウアへ乗り換えて翌年・明治17年1月8日にマルセイユへ入港。そこから12日にリヨンに着きました。そしてこの年の春にパリ法科大学と私立の政治学校に入校しています。 明治18年、司法省法律学校(現東京大学法学部)で同級だった原敬が駐仏公使館一等書記官に任命されて12月ふ日にフランスへやってきます。拓川は原敬をリヨンに迎え、フランスを案内しました。 敬は、早速拓川に「東京日日新聞」のパリ通信員の職を世話します。そして、翌年の6月18日には、年俸450ポンドで日本国の奏任官の職を世話します。拓川は、その後の9月23日、駐仏特命全権公使・蜂須賀茂韶退官後、臨時代理公使をつとめ、フランスとの間に結ばれていた不平等条約改正にも関わりました。 一方、この年に久松定謨は、サンシール士官学校に入学することとなりますが、多忙の拓川は世話役を務めることができません。そこで、幼い頃に松山藩校・明教館で机を並べたことのある秋山好古に白羽の矢が立てられます。好古は、明治19年に東京鎮台参謀隣、騎兵大尉に昇進していたのですが、定謨の補佐のためにフランス留学が許可され、翌年にフランスへ到着。定謨の学ぶサンシール士官学校の聴講生となりました。 拓川は、明治21年に前年末に駐ベルギー兼任公使になっていた西園寺公望のために任務の引き継ぎのためにベルギー、スペイン、ポルトガルに出張、翌年にはイギリス、ドイツ、ブリュッセルなどへ出張するなど多忙の日々を過ごしています。 明治24年2月に、拓川と好古は久しぶりの帰国を果たします。3月に、改めて公使館書記官に任命された拓川は、8月に外務省参事官、10月に外務大臣秘書官に就任しましたが、翌年の明治25年、再びパリに向けて出国し、駐フランス公使館二等書記官に就任しました。そして、翌年には代理公使、明治29年には日仏改正条約を調印させ、一等書記官に昇進し、翌年の4月、揚々と帰国しました。 古島一雄は、『拓川と子規』という文で、パリ時代の拓川を描写していますが、拓川の自由闊達で、お茶目な側面を伝えています。 外務省に入り、巴里に留学し、西園寺公望、中江兆民、光明寺三郎らと交友した。 元来、瓢逸なる彼の性格はますます巴里ッ子の中心となり、英国とは異った風格を備え、一種の識見を持つことになった。彼は文才があり、手紙になかなか面白いものがあった。ことに東西風俗の異る点を指摘して、果ては、春本の比較に及び、最後にもって我が建国の古きを知るに足ると結んだ一句は同人を騒がした。 当時巴里遊覧の客はことごとく彼の世話を受けざるものなく、従って、金持で気に喰わぬ奴などはヒドイ目にあわせた。名は言わぬが、ある実業家で、金さえ出せば何事も出来ると思うのが癪にさわり、ある日土耳古(トルコ)風呂に連れ込み、三助に言いふくめて、知らぬ間に大事の毛を薬できれいにつるつるにしてしまった。本人は驚いたものの今更抗議も出来ず口惜しかっていたが、いつとなく無毛紳士の仇名が評判になって、ほうほうの体で、巴里を逃出したそうな。(古島一雄 拓川と子規)
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最終更新日
2021.10.08 19:00:04
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