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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2021.10.22
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カテゴリ:正岡子規
 全回ご紹介した「賄征伐」と羯南の青春時代について、森銑三『明治人物閑話』に「陸羯南異聞」という項があり、羯南が亡くなった際に、明治40年9月5日から3回にわたって加藤拓川の追悼団を経緯しました。
 上記の部分を『明治人物閑話』より引用します。
 
 僕が始めて陸を識ったのは、明治九年司法省の学校にはいった時だ。その前陸は仙台の師範学校におり、校長と議論して、退校を命ぜられたそうだ。その相棒は合川勝蔵という人で今は法官か弁護士をしている筈だ。仙台時代のことは、この人に聞けばよく分る。
……
 さて二人は、仙台を放たれて、東京の師範学校にはいるつもりで、ひょこひょこ上京して、直ちに御茶の水の学校に来て見ると、既に仙台の校長から退校の報告が来ていて、入学を拒絶された。それから僕等と司法省の学校にはいったんだ。陸は奥州生れ、僕は四国出の田舎書生同士で、互に言語もよく通じなかったくらいだが、ふと意気投合して、三年間の同窓中、格別に親密にした。暑中は国分(青崖)、福本(日南)と四人で、富士山に登ったり、東海道の徒歩旅行をして、途中一文なしになったり、ある時は千葉県に遊歩して、警察署に拘引せられ、結局両人が裁判所に引出された大失策もある。右の如く、休暇中でも寝食を共にして、特に心安くしたが、高潔な性格で、胸中一点鄙吝の心がなかったのは、死に至るまで替らなかった。
 
 今朝(明治40年9月5日)の読売新聞に、司法省退校のことが載せてあるが、事実すこぶる相違だから、ちょっとその時の話をしよう。読売曰く、当時陸氏と、今の内務大臣原氏が、成績常に人に秀いで、ついに級長に挙げられたるも、ある日同級の某学生が賄方と争論し、果ては器物を破壊し、人を傷つくるなどの乱暴をなしたるため、学校にては、これは級長の不取締に因るものとなし、放校の処分を受くるに至りぬと。これは大間違いだ。その前に賄騒動はあったが、器物を破壊し、人を傷つくるなどのことは全くない。
 その頃は皆二十前後の学生で、意気軒昂、既に他日の参議を以て任じていたのだから、賄方を傷つくるような気遣いはなかった。また級の首席は、いつも今の司法次官河村譲三郎氏が持切りで、桜井一久氏などが、これと争うていた。原、陸両氏も、常に中等以上の成績ではあったが、どだい級長などというもののあった筈はない。
 
 もっとも原、陸両氏が、他人のために放校処分を受けたのは事実だ。当時僕等二十人ばかりの校中に大獄が起り、司法省の役人が無理をいうから、大いに議論をした。その時局外にいた陸や原が、直接自分らに関係もないのに、大いに議論をして、末は司法卿まで持出した。結局、僕等の仲間でさえ過半降服したのに、陸と原は飽くまで正論を唱えたるた
め、痛く校長や学監に目指されて、ついに十五六人同時に放逐された。当時僕らの放逐仲間は、皆乱暴書生で、勉強は少しもせず、成績は悪い上に、犯則は度々やっているのだから、退校せらるるは無理もないのだ。しかるに原、陸両人は、行状もよし、勉強はする、成績はよい。他人のために男の意地を張り、僕らと同一の処分を受けたのだから、他の学生はこれを気の毒がり、中には復校を運動した連中もあったが、肝心の両人は、毫も未練を残さなかった。その時陸が僕にいうたことを、今に記憶している。原は翩々たる才子にあらずとは思うていたが、かくまで正義を重んずる人とは知らなかったと。その後は原の人となりを重んじて、別段親しくしていたようだ。(森銑三 明治人物閑話)






最終更新日  2021.10.22 19:00:07
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