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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2021.10.24
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カテゴリ:正岡子規
 当時、官立学校を放校された人物は、他の官立学校に入学することができませんでした。ただ、彼らは在学中に学んだフランス語と法学の知識を生かして、新聞記者を目指します。原敬は報知新聞に入り、そののちに大東日報の主筆となります。国分青崖は朝野新聞に入ります。羯南と拓川も東京の新聞社に入るつもりで奔走したのですが、志を果たせませんでした。ついに羯南は失望して、書籍や衣類を売り、僅かの旅費をつくって郷里・弘前に帰ります。
 
 明治12年の秋、羯南は弘前を離れ、青森新聞社に入り、のちに編集長となりますが、筆禍事件に巻き込まれて罰を受けてしまいました。。そのために、明治13年9月羯南は青森から北海道に渡ります。そこで、フランス語の技能を買われ、紋鼈(もんべつ)製糖所で働くことになりました。紋鼈製糖所は官立で、機械や政党技術にはフランス語が堪能な人物が必要とされ、そこで技術を生かしたのでした。
 しかし、ほとんどの従事者は素人で、出来上がった砂糖の品質も良くありません。そのため、所長の山田寅吉が上京して善後策を図ることになり、羯南も同行します。寅吉は農務省の品川弥二郎に会い、寅吉は製糖事業から手を引いて、会社は試験政党を続けるということになりました。弥次郎は、羯南のフランス語能力を認め、フランス語の本を翻訳してもらい、羯南はそのことで整形わ立てることになります。当時、政府の機構は、フランス政府に学ぶことことが多く、フランス語がわかる優秀な人材を必要としていたのです。
 
 明治16年、羯南は太政官御用掛となり、新設の文書局に勤めます。加藤拓川の甥である正岡子規が羯南を訪問したのはこの頃のことでした。拓川は「まだホンの小僧で何の目当てもなく、学問しに来た甥」を陸羯南の家へ訪ねるよう指示します。羯南は、日本独自の政治文化や民族的伝統を重んじる国粋的な「国民主義」を提唱し、明治の言論界をリードした人物で、拓川とは司法省法学校の同級生でした。羯南は、子規を「いかにも田舎から出だての書生ッコだが、どこか無頓着で大人じみたところがある」と評しました。子規がのちに大恩人として慕う羯南との最初の出会いでした。
 
 友人加藤拓川が仏蘭西へ往こうというので……色々話した中に『このごろ国元から甥のヤツが突然やって来たが、まだホンの小僧で何の目当てもなく、何しに来たのかと聞いたら、学問しに来たというてる。僕も近々往くのだし、世話も監督もできるじゃなし、いずれ同郷の人に頼んで往くのじゃが、君のところへも往けといっておいたが、来たらよろしく会ってくれたまえ』との話もあった。二三日たつとやって来たのは十五六の少年が、浴衣一枚に木綿の兵児帯、いかにも田舎から出だての書生ッコであったが、どこかに無頓着な様子があって、加藤の叔父が往けといいますから来ましたといってほかに何も言わぬ。『ハア加藤君から話がありました。これから折々遊びにお出なさい。私の宅にもちょうどアナタくらいの書生がおりますからお引き合わせしましょう』といって予の甥を引き合わした。やがてだんだん話する様子を見ると、言葉のはしばしによほど大人じみたところがある。対手になっている者は同じくらいの年齢でも、傍から見るとまるで比較にならぬ。叔父の加藤という男も予よりは二つも若い男だが、学校にいる頃から才学ともに優れて予よりは大人であった。さすがに加藤の甥だと、この時はや感心した。(子規言行録序)






最終更新日  2021.10.24 19:00:07
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