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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2021.11.06
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カテゴリ:正岡子規
 新聞経営の危機を救おうと、「日本」は近衛篤麿に近づき、新聞の存続を図ります。明治35年1月7日、篤麿と「日本」の間で密約が交わされ、翌日に篤麿は日本新聞社を訪れています。そして、篤麿の雑誌「東洋」と「日本週報」が合併。また、外部小機密費より援助を受けられるようにもなりました。
 
 この年の5月5日から『病牀六尺』の連載がはじまります。この時期の子規は、7日から体調が悪くなり、「十三日という日に未曾有の大苦痛を現じ……十五日の朝三十四度七分という体温は一向に上がらず」という状態でした。
 そのため、5月15日から17日、19日から21日まで休載となりました。子規の身体を心配した古島一雄が十九日以降の掲載を休ませると、古島一雄宛に「拝啓 僕の今日の命は『病牀六尺』にあるのです。毎朝寝起きには死ぬるほど苦しいのです。その中で新聞をあけて病牀六尺を見るとわずかに蘇るのです。今朝新聞を見た時の苦しさ、病牀六尺がないので泣き出しました。どーもたまりません。もしできるなら少しでも(半分でも)載せて戴いたら命が助かります。僕はこんな我儘をいわねばならぬほど、弱っているのです」と連載を懇願する手紙が届きました。以降、6月から『病牀六尺』は1日も休まずに掲載されました。
 
 一雄は『古島一雄翁の子規談』で「正岡は『墨汁一滴』とか『病牀六尺』とかいうものを連載していて、それが日本新聞の売りものになっていた。僕は編集者に貴様らは何をしている、瀕死の病人に毎日書かせて新聞が売れる売れないのとは何事だ。休ませろ。そこで一日黙って休ませてしまった。翌る日、社に行ってみると、珍しいことに正岡常規、親展と自筆の書状がある。開けてみると、僕はこの頃朝から晩まで痛む。ようやくモルヒネを飲んでその時だけ良い気持ちになるんだ。その時書いて送る。それを朝見ることがその日で一番楽しいんだ。ところがなんぞ知らん今朝開けて見ると一行も載っておらん、半行でもいいから出してくれ、おれもこれほど弱くなっているよ、と書いてあるんで、それからおれも飛んで行った。実は貴様がそれほどになっているとは知らなかった。よろしい、死ぬまで書け、毎日載せるからと言って慰めたことがあった」と語っています。
 
『病牀六尺』の最後の回は芳菲山人こと西松二郎の手紙を載せました。「拝啓昨今御病牀六尺の記二、三寸に過ず頗る不穏に存候間御見舞申上候 達磨儀も盆頃より引蘢り縄鉢巻にて筧の滝に荒行中御無音致候 俳病の夢みるならんほとゝぎす拷問などに誰がかけたか」の文章と狂歌で終わります。
 9月17日の回は15日に書かれていましたが、その4日後の19日の未明、子規は他界したのです。
 
 陸羯南は、「子規言行録」の序文で次のように書きました。
 
 何か一芸に秀いでた人は、その芸のために全体の人格を掩われてしまって、ただ芸だけをもって世に持て囃さるることが多い、例を挙ぐれば、細井廣澤という昔の書家であるが、この廣澤は立派な儒者であって、また立派な政事顧問であったのみならず、廣澤は最も武芸に長じ、また兵学に通じたのであった、であるが、廣澤の始めて文徴明の書風を江戸の真中に弘めて、元緑時代の日本をその筆跡にて風靡した処から、今も多くの人は廣澤を徴明流の書風の元祖として、また近古第一流の書家として記臆する、それで廣澤の他の長所むしろ廣澤の人格の全体を知る者は少ない、廣澤は随分長命した人であるが、何にせよ当時封建の盛んな際で、ただ一藩の抱え儒者たるに止まって、シカモ太平の世であるから、その技能抱負を施すことができずに一世を終ったのである、廣澤と彼此同時であるが、松尾芭蕉、宝井其角なんどいう俳人たちも、その言行の超凡にして一世の欽仰を受けたことから考えると、全体の人格は余ほど優れておったものとせねばならぬ、俳人としてのみ持囃さるるのは、この偉人どものために惜むべしである、とかく世間はその人の学問や技芸のみを見て人格の全体を問わぬ風がある、芭蕉は俳人の宗とする所であるが、俳句においては芭蕉よりも巧なる人は幾人もあったろう、歌人にした処で加茂真淵の門人で真淵よりも上手な歌よみは少からぬようであるが、人々が欽仰して師の翁のと崇めたのはその人格の超凡であった証拠といわねばならぬ。
 明治十六年の夏のころと記臆しているが、友人加藤拓川(今の白耳義(ベルギー)国在勤全権公使恒忠氏)が仏蘭西へ往こうというので、語学練習のために築地の天主協会堂に寄宿していた、ある日予の寓居に来て色々話した中に、「このごろ国元から甥のヤツが突然やって来たが、まだホンの小僧で何の目当も無く、何にしに来たのかと聞いたら、学問しに来たというてる、僕も近々往くのだし世話も監督も出来るじゃ無し、いづれ同郷の人に頼んで往くのじゃが、君の処へも往けといって置いたが、来たらよろしく逢ってくれたまえ、との話もあった、二三日たつとやって来たのは十五六の少年が、浴衣一枚に木綿の兵児帯、いかにも田舎から出だての書生ッコであったが、何処かに無頓着な様子があって、加藤の叔父が往けといいますから来ましたといって外に何もいわぬ、ハハァ加藤君から話がありました、これから折々遊びにお出なさい、私の宅にも丁度アナタ位の書生がいますからお引合せしましょうといって予の甥を引合わした、やがて段々話する様子を見ると、言葉のはしばしに余程大人じみた所がある、対手になっている者は同じ位の年齢でも、傍から見ると丸で比較にならぬ、叔父の加藤という男も予よりは二つもわかい男だが、学校にいる頃から才学ともに俊ぐれて予よりは大人であった、流石に加藤の甥だとこの時はや感心した、その後当分見えなかったが、二年もたった頃尋ねて来た、その時早や大学予備門に這入っているとのことであった、予は驚いた、田舎から出て来て二年も経たぬうちに予備門に入るなどは余程珍らしい方である、その後久しく見えなかったが、予の『日本』を始めたころ留守中に名刺があったことがある、そのころ高橋自侍庵(健三)は官用にて仏蘭西へ往くことになったから予は加藤に宛てて紹介吠をやった、二人は彼の地で一見旧の如くであったそうだが、やがて高橋が帰朝して、加藤から托せられた獨逸文のエステチックの書物をその甥に届けねばならぬといった、多分本人が注文したのであろう、加藤の甥といえばあの少年だが、なるほど今ごろは大学にいる筈だ、しかしモーこんな書物を読むようになったかと驚いて話したことがあった、その後文科大学にいるということを聞いたが、二十四年の秋予が根岸の寓を尋て来て来年は卒業の筈だが、病気のために廃学するつもりだと語る、ドンな病気か知らんが我慢して卒業したらどうかと勧めても、決心はなかなか動かせない、近ごろ俳句の研究にかかって少しく面白味が付いて来たから、大学をやめて専らこれをやろうと思うといい、根岸に座敷を貸す家があらば世話してくれといって帰った、その晩端書に「秋さびて神さぴて上野あれにけり」という一句をかいたのが来た、この時予は俳句の趣味などを少しも解せぬ、こんなものを研究してどうする積りか、病気保養のためとあらば格別だが、これで文学に貢献せんなどというのは、アの男の了簡違であるまいかと、一人で心配しておった、ちょうど寓居の向いに老婦独住いの家があって誰か確かな人に下宿させたいとのことであったから早速そのことを報じてやったら、すぐやって来てやがて引越して来た、これから隣同志となって、毎日往来する問に俳句の味が少し分りかけて来た、そのころ新聞紙上に十七字の句を出す者は其角堂永機の輩かさもなくば角田竹冷の徒で、それも至って少ない方であった、どうだ何か『日本』へ出して見たらばといったら、かねて書いてある紀行でも出そうとのことで、それからそれと俳句まじりの紀行などは出た、これが抑も正岡子規の初陣である、その後のことは子規の名声とともに大概世に知れている、いよいよこの他を去って後は都郡の諸新聞争って逸事遺聞を記し、またその人格を各方面より観察して書いてある、今度それらの切抜を集めて一冊にまとめ、それを同好に頒たんというのである、追つって子規門下の人々らはその詳側を編まん時には最好の芸をもって全体を掩はわれた仲間である、子規が文壇に出陣してから僅に十年にて世を去ったのだが、十年間のその七年は病床の上で暮した、それで世を風靡した勢力というものは学問芸術の力ではなく、全くその人格の超凡な証拠である、僅かに十年の間でシカモ病床の上で俳句や歌でもってアレほどの名声を成したのだ、もし健康であってなお世間並に二十年も長命したならば、まだまだ仕事をしたであろう、文学ばかりではなく、政事界にも飛出して仕事をしたであろう、思慮といい、気魄といい何処にでも当てはまる人格であった、詳しいことは『子規随第』と併せて本書を見ればおのずから分かるであろう。子規居士四十九日逮夜。(陸羯南 子規言行録序)





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最終更新日  2021.11.06 19:00:07
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