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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2021.11.10
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カテゴリ:正岡子規
 帰国した羯南は、旅の疲れからか体調が優れず、7月頃から床に臥せるようになり、12月からは湯河原温泉で療養しています。帰京するのは2月でしたが、25日には鎌倉長谷で静養しています。「日本」では、近衛篤麿に融通してもらった借金が近衛家のものか、「日本」のものかの問題が起こりました。しかし、この問題はなかなか片付かず、明治39年になって、羯南は「日本」を伊藤欽亮に売却することを決めました。
 6月23日号には伊藤欽亮の名前で、「余は『日本』の最も重んずべき新聞紙なるを知り、這次これを継承し、来る七月一日以後は余の全力を挙げてその経営に従事せんとす。今後の『日本』は斯業に老熟せる従来の社中を中枢とし、新に社員を加えて大にその発展を試みんとす。将来の紙上は政治、文学、経済、軍事を首め社界百般のことを網羅して、漸次欧米の有力なる新聞紙に追随せんことを期す」との文章を掲げました。
 
 譲渡の際、伊藤欽亮は経営のみにあたり、言論報道は今まで通り三宅雪嶺や古島一雄らが担当するという約束でした。しかし、伊藤と三宅らとの間に対立が生じ、この年の12月4日、三宅雪嶺、古島一雄、長谷川萬次郎、千葉亀雄ら22名の社員はいっせいに退社してしまいます。三宅雪嶺ら一部社員は、政教社において再び羯南と合流し、明治40年1月1日から雑誌『日本及日本人j を発刊することになりました。
 
 しかし、羯南の病状は悪化していきました。明治40年1月、鎌倉極楽寺村に新築した別荘に移って静養につとめたのですが、4月頃には神経痛や発熱という状態になり、7月24日の加藤拓川に宛てた手紙で、「患者たる老生の自覚につきては余命長くはあらじと感じ申候」と死を覚悟しています。この月末に大喀血を繰り返し、9月2日に51歳で永眠しました。9月3日の「東京朝日新聞」は、「陸実氏逝去」と題して、「肺結核にて久しく鎌倉の別荘に療養中なりし前日本新聞主筆陸実氏は、先月初旬喀血し、臨来容体面白からず、親戚知友の痛心一方ならざりしが、幸いにその後少しずつ快き方に向い、この分ならば、先ず当分はと思われしに、一昨夜来病勢俄かに革まり、終に昨日午後二時五十分をもって、濫然逝去せり。悼哉。氏は青森県弘前の人、行年四十九歳」と報じました。
 9月5日、谷中全生庵での葬儀には、司法省法学校以来の友人である原敬をはじめ、犬養毅、徳富蘇峰、杉浦重剛など500余名が会葬。墓は、染井墓園にあります。
 
 柴田宵曲の『子規居士の周囲』の陸羯南の項の最後は、次の言葉で結ばれています。
 
 鳴雪翁はかつて「知己といえば居士終身の恩人は陸翔南氏であろう」といい、「先ず日本新聞に招聘して、未だ居士が若年であったにも拘らず特にそれを優待し、また新聞の第一面を割て俳風表出の地を与えられたことなどは誰も知る所であるが、その他居士が家計に注意し、それを隣家に引き寄せて親戚も及ばぬ世話をなし、なかんずく日清戦争従軍前
後の配慮、また発病後の療養に至るまで非常なる保護を加え、十数年の久しき間いつも間接直接に庇蔭を与えられていたのである。これは吾々同人は長く心に銘記し、私には親友居士の大恩人とし、公には斯道興隆の援助者として大いにこれを謝せねばならぬ」と述べられた。これは正にその通りで、何等蛇足の加うべきものが無い。もし知已とか、恩人とかいう以外に、もっと羯南翁の風神を躍動せしむるような言葉があったらと思うが、ついに発見し得ぬのを遺憾とする。(柴田宵曲 子規居士の周囲 陸羯南)






最終更新日  2021.11.10 19:00:08
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