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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2021.11.12
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カテゴリ:正岡子規
 天田愚庵はユニークな人物です。
 安政元年、磐城平藩士・甘田平太夫の5男として生まれました。本名は五郎で、幼名は久五郎と言います。
 明治元年、戊辰戦争において磐城国も戦場となったため、数えで15歳の身ながら戦場に身を置きます。しかし、落城したので仙台に敗走。戦乱のために、疎開していた父母と妹が行方不明になりました。
  
 久五郎は、帰藩して許され、藩校・佑賢堂に学びます。明治4年には上京してニコライ神学校に学ぶと、ひょんなことから小池詳敬と知り合って山岡鉄舟の門に入り、国学を学んで小池詳敬とともに東海道・中国・九州を歴訪しました。佐賀の乱の際には、反乱分子と間違われて投獄されたこともあります。獄中では、いいこともありました。万葉歌人の丸山作楽と知り合い、短歌と国学を学んだことです。この学びは、以後の久五郎の人生を決定づけました。
 明治10年、恩人であった小池詳敬が死去すると、その遺された6人を京都の親戚に送り届け、帰路には行方不明になった父母と妹父母妹を探しながら北陸方面を巡って東京に戻ります。当時の司法学生で、のちに「日本」新聞代表になる陸羯南や子規の叔父・加藤拓川と知り合ったのはこの頃でした。
 明治11年、山岡鉄舟の紹介で清水次郎長に預けられます。翌年には、父母と妹を探すために写真師・江崎礼二の門に入り、旅回りの写真師となって小田原で写真店を開業しました。しかし、父母と妹の手がかりはありません。清水次郎長から養子とならないかとの声がかかり、山本五郎と名を改めました。
 明治17年には、次郎長一家誕生から荒神山の喧嘩までの話を本にまとめた「東海遊侠伝」を刊行。この内容は、のちに浪曲となって浸透し、清水次郎長の名は全国響くようになりました。久五郎がこの「東海遊侠伝」を書いたのは、当時次郎長は「賭博犯処分規則」により静岡県警察本所に逮捕されていたため、その用語の気持ちもあったの手はないかといわれています。この甲斐あってか、次郎長は明治翌年に刑期の満了を待たずに仮釈放となっています。
  
 清水次郎長の富士山裾野の開墾事業をすすめますが事業は思わしくなく、閉鎖されてしまいました。その責任を取って清水次郎長の養子を辞し、天田の姓に戻します。鉄舟の世話で有栖川宮に奉職したのち、明治19年には、大阪内外新報社に入社し、山岡鉄舟の紹介で京都林丘寺に参禅。翌年に出家し、鉄眼と名乗りました。
 鉄舟が他界して4年、京都清水産寧坂に草庵が完成したため、そこに住まいを移し、庵を「愚庵」と名付け、自らも「愚庵」と号しました。






最終更新日  2021.11.12 19:00:07
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