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カテゴリ:正岡子規
子規は晩年になると、「滋養論」とともに牛乳を飲むことをみんなに提唱しました。晩年の子規を綴った赤木格堂の『子規夜話』には、京都の天田愚庵に薦められた経緯と牛乳の価値を語る子規の姿が描写されています。愚庵は明治32年に上京して子規を訪ねていますので、その頃のことでしょうか。 子供の時から坊主に育ったものには、随分偽者が多いようだが、中道、何か大いに感じて頭を剃った坊さんには尊敬すべきものがある。桃山の愚庵などはその一人だ。愚庵が戒を守るのは、それこそ真剣に正直に守りきるのだ。いつか見舞に来てくれて僕にしきりと牛乳を勧めて、「ぜひ牛乳を飲め。医者よりも薬よりも牛乳くらい体に利くものはない」と無闇に牛乳万能を説くから、何してかと思ってよく訊いてみると、和尚が病気の時分に人の勧めで牛乳を飲んだら、それで回復したというのだ。平生戒めを守って魚肉を遠ざけ、全くの粗食に甘んじていたから殊に牛乳の利き目が強かったのであろう。しかも一日幾合あて飲まれたかと聞くと、毎日一升ずつ飲んだという。あの体格だからそれ位は無理でもなかるまいが、平生粗食していて、にわかに一升あてもやれば、そりゃ随分利いたろう。その経験を僕へ応用しようというんだから面白いじゃないか。(赤木格堂 子規夜話) 愚庵は、明治33年、明治天皇の御陵地選定のために京都を訪れた内務大臣・品川弥二郎を案内して、伏見桃山へ誘います。御陵地は伏見に決まったのですが、愚庵も温暖な気候の桃山がすっかり気に入りました。そこで、産寧坂の庵を売却して龍雲寺の近くの土地を手に入れ、庵を建てました。 完成の喜びに、愚庵は「桃山結庵歌」19首を詠んでいます。 打日指京のうちをことしげみ伏水の里に我は来にけり 三吉野の吉野若杉丸太杉柱にきりてつくる此庵 天地に祝ひて作る我庵の棟上の日を雨な降りそね 我庵は誰が来て作る西浜の江崎の子等が米てぞ作れる 遠山は葛城の山志直の山生駒の山のいただきも見ゆ 青丹よし奈良の都の春日野の春日の山も霞みてぞ見ゆ ただ、愚庵の健康が優れません。 明治34年5月5日、愚庵は「遺物贈与之事は悉元策の勝手たるべし。但し従来寄付者の姓名知れおるものにて、珍本奇書あるいは大切の品々は、該寄付者へ迎付するを好しとす。我が買得たる品物は尽く元策の所有とすべし」と遺書をしたためます。 ただ、不思議なことにこれ以降、愚庵は小康を保ちます。子規は『仰臥漫録』の同年9月5日に「青崖と愚庵芭蕉と蘇鉄哉」という句を記しています。この月に青崖が愚庵のところにしばらく滞在することがわかったからでしょう。 明治35年、36年と、愚庵は各地に出かけています。明治35年は陸羯南とともに伊勢へ、明治36年は道後温泉で新年を迎えます。そして、5月には上京し相撲観戦を楽しんでいます。死期が近いと悟った愚庵は、無理をしてでも各地を旅したのでした。 明治37年の元日に「童謡二十首」が新聞「日本」に載りますが、その夜に発熱します。死を覚悟した愚庵は、14日夕刻、遺言状を書くと翌日から薬餌の全てを断ち、看病や見舞いの人に一々手を握って別れの挨拶をしました。16日には法弟に身を拭ききよめさせ、麻の法衣をまといます。17日の午前11時過ぎには法弟を促して読経をさせ、それが終わろうとする時にあの世へと旅立ちました。
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最終更新日
2021.11.24 19:00:06
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