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カテゴリ:正岡子規
漱石が、ロンドンから翌年の年賀の挨拶を式に送ったのは、明治33年12月26日、クリスマスの様子を絵葉書で知らせています。漱石は、初めてクリスマスのご馳走であるアヒルのローストを食べたのですが、そのことを子規に知らせていません。 その後御病気如何。小生東京の深川の如き辺鄭に引き籠り勉学致おり候。買たきものは書籍なれどほしきものは大概三、四十円以上にて手がつけ兼候。 詳細なる手紙差上たくは候えども何分多忙故、時間惜き心地致し候故、端書にて御免蒙り候。 御地は年の暮やら新年やらにて、さぞかし賑かなことと存候。当地は昨日が「クリスマス」にて始めて英国の「クリスマス」に出喰わし申候。 柊を幸多かれと飾りけり(夏目漱石 明治33年12月26日 正岡子規宛書簡) 漱石は、明治34年1月22日の日記に「ほととぎす届く。子規尚生きてあり」と記しています。 子規からのハガキは現存していませんが、この年の4月に届きました。おそらく、ロンドンの様子を知らせてくれとの依頼だったのでしょう。漱石は、子規と高浜虚子に宛てて4月9日と20日、26日に手紙を送っていますが、それらは『倫敦消息』として「ホトトギス」に掲載されました。 子規は、連載していた『墨汁一滴』で、漱石のことを書きました。5月23日に掲載されています。 漱石が倫敦の場末の下宿屋にくすぶっていると、下宿屋の上さんが、お前トンネルという字を知ってるかだの、ストロー(藁)という字の意味を知ってるか、などと問われるのでさすがの文学士も返答に困るそうだ。この頃伯林の灌仏会に滔々として独逸語で演説した文学士なんかにくらべると倫敦の日本人はよほど不景気と見える。(墨汁一滴 明治34年5月23日) また、5月30日の『墨汁一滴』には、漱石が米が稲になることを知らなかったことを記しました。 東京に生れた女で四十にも成って浅草の観音様を知らんというのがある。嵐雪の句に 五十にて四谷を見たり花の春 というのがあるから嵐雪も五十で初めて四谷を見たのかも知れない。これも四十位になる東京の女に余が筍の話をしたらその女は驚いて、筍が竹になるのですかと不思議そうにいうていた。この女は筍も竹も知っていたのだけれど二つのものが同じものであるということを知らなかったのである。しかしこの女らは無智文盲だから特にこうであると思う人も多いであろうが決してさそういうわけではない。余が漱石と共に高等中学に居た頃漱石の内をおとずれた。漱石の内は牛込の喜久井町で田圃からは一丁か二丁しかへだたっていない処である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田から関口の方へ往たが大方六月頃のことであつったろう、そこらの水田に植えられたばかりの苗がそよいでいるのは誠に善い心持であった。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰う所の米はこの苗の実であることを知らなかつたということである。都人士の菽麦を弁ぜざることは往々この類である。もし都の人が一匹の人間にならうというのはどうしても一度は鄙住居をせねばならぬ。(墨汁一滴 明治34年5月30日)
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最終更新日
2022.01.14 19:00:05
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