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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2022.01.21
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カテゴリ:正岡子規
 明治36年1月22日、漱石は日本の地に戻ってきました。
 その時の様子を高浜虚子が『漱石氏と私』に書いています。
 
 漱石氏の帰朝した時にはもう子規居士は亡くなっていた。
 漱石氏の留守中、細君は子供と共に牛込の中根氏ーー細君の里方であるーの邸内の一軒の家にいたように記憶している。私が氏を訪問して行ったのもその家であった。丁度私の訪問して行った時に中根氏が見えていて、痩せた長い身体を後ろ手に組んで軒近く縁端に立っていると、漱石氏もその傍に立って何か話をしていた光景が印象されて残っている。私も黙って漱石氏の傍に突っ立っていたのである。それから一人の若い男の人が快活に何か物を言いながら這入って来たのに対して、細君が、
「いよいよ夏目が帰って来たから御馳走をしますよ……」と打ち晴れた顔をして笑いながらいった時の光景が眼に残っている。そうして、船が長崎であったか神戸でったかに着いた時に、蕎麦を何杯か食ったので腹を下したそうですというようなことを細君が私に話したことを記憶している。(高浜虚子 漱石氏と私)
 漱石は、2月に子規の墓を詣でました。そして、追悼の文章を書きかけたのですが、途中で筆を止めました。
 子規が生きていた頃に、この手紙を書いておけばよかったという後悔の念が深かったためなのかもしれません。
 
 水の泡に消えぬものありて逝ける汝と留まる我とを繋ぐ。去れどこの消えぬものまた年を逐い、日をかさねて消えんとす。定住は求め難く不壊は尋ぬべからず。汝の心われを残して消えたる如く、吾の意識も世をすてて消る時来るべし。水の泡のそれの如き、死は独り汝の上のみにあらねば、消えざる汝が記臆のわが心に宿るも、泡粒の吾命ある間のみ。
 淡き水の泡よ、消えて何物をか蔵(かくさ)む。汝はかつて三十六年の泡を有ちぬ。生けるその泡よ、愛ある泡なりき信ある泡なりき憎悪多き泡なりき〔一字不明〕しては皮肉なる泡なりき。わが泡若干(いくばく)歳ぞ、死ぬことを心掛けねば、いつ破るるということを知らず。ただ破れざる泡の中に汝が影ありて、前世の憂を夢に見るが如き心地す。時に一弁の香を燻じてこの影を昔しの形に返さんと思えば、烟りたなびきわたりて捕うるにものなく、敲くに響なきは頼みがたき曲者なり。罪業の風烈しく浮世を吹きまくりて愁人の夢を破るとき、随処に声ありて死々と叫ぶ。片月窓の隙より寒き光をもたらして曰く。罪業の影ちらつきて定かならず。死の影は静なれども土臭し。今汝の影定かならずまた土臭し。汝は罪業と死とを合せ得たるものなり。
 霜白く空重き日なりき。我西士より帰りて始めて汝が墓門に入る。爾時汝か水の泡は既に化して一本の棒杭たり。われこの棒杭を周ること三度、花をも捧げず水も手向けず、ただこの棒杭を周る事三度にして去れり。我はただ汝の土臭き影をかぎて汝の定かならぬ影と較べんと思いしのみ。
 
 漱石は、処女作『吾輩は猫である』が単行本になった時の序文に、子規の思い出を書きました。
 かつて小説家なろうとして果たせなかった子規の思いを、漱石が引き継いで小説を書いた漱石の思いが、序文から溢れてきます。
 
「猫」の稿を継ぐときには、大抵初篇と同じ程な枚数に筆を擱いて、上下二冊の単行本にしようと思っていた。所が何かの都合で頁が少し延びたので書肆は上中下にしたいと申出た。その辺は営業上の関係で、著作者たる余には何等の影響もないことだから、それも善かろうと同意して、先ずこれだけを中篇として発行することにした。
 そこで序をかくときに不図思い出したことがある。余が倫敦にいるとき、忘友子規の病を慰めるため、当時彼地の模様をかいて遙々と二三回長い消息をした。無聊に苦んでいた子規は余の書翰を見て大に面白かったと見えて、多忙の所を気の毒だが、もう一度何か書いてくれまいかとの依頼をよこした。この時子規は余程の重体で、手紙の文句もすこぶる悲酸であったから、情誼上何か認めてやりたいとは思ったものの、こちらも遊んでいる身分ではなし、そう面白い種をあさってあるくような閑日月もなかったから、ついそのままにしているうちに子規は死んで仕舞った。
 筺底から出して見ると、その手紙にはこうある。
 僕ハモーダメニナッテシマッタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテマス。今夜ハフト思イツイテ特別ニ手紙ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カッタ。近来僕ヲ喜バセタ者ノ随一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガッテ居タノハ君モ知ッテルダロー。夫ガ病人ニナッテシマッタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往タヨウナ気ニナッテ愉快デタマラヌ。若シ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)
 画ハガキモ慥ニ受取タ。倫敦ノ焼芋ノ味ハドンナカ聞キタイ。
 不折ハ今巴里ニ居テコーランノ処ヘ通ッテ居ルソウジャナイカ。君ニ逢ウタラ鰹節一本贈ルナドトイウテ居タガ、モーソンナ者ハ食ウテシマッテアルマイ。
 虚子ハ男子ヲ挙ゲタ。僕ガ年尾トツケテヤッタ。
 錬郷死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマッタ。
 僕ハ迚モ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思ウ。万一出来タトシテモ其時ハ話モ出来ナクナッテルデアロー。実ハ僕ハ生キテイルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰来」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。
 書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉エ。
  明治卅四年十一月六日灯下ニ書ス
東京 子規 拝
  倫敦ニテ
   漱石 兄
 この手紙は美濃紙へ行書でかいてある。筆力は垂死の病人とは思えぬ程慥かである。余はこの手紙を見る度に何だか故人に対して済まぬことをしたような気がする。書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉えとある文句は露佯りのない所だが、書きたいことは書きたいが、忙がしいから許してくれ玉えという余の返事には少々の遁辞が這入っている。憐れなる子規は余が通信を待ち暮らしつつ、待ち暮らした甲斐もなく呼吸を引き取ったのである。
 子規はにくい男である。かつて墨汁一滴か何かの中に、独乙では姉崎や、藤代が独乙語で演説をして大喝采を博しているのに漱石は倫敦の片田舎の下宿に燻って、婆さんからいじめられているというようなことをかいた。こんなことをかくときは、にくい男だが、書きたいことは多いが、苦しいから許してくれ玉え抔などといわれると気の毒で堪らない。余は子規に対してこの気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺して仕舞った。
 子規がいきていたら「猫」を読んで何というか知らぬ。あるいは倫敦消息は読みたいが「猫」は御免だと逃げるかも分らない。しかし「猫」は余を有名にした第一の作物である。有名になったことが左程の自慢にはならぬが、墨汁一滴のうちで暗に余を激励した故人に対しては、この作を地下に寄するのがあるいは恰好かも知れぬ。季子は剣を墓にかけて、故人の意に酬いたというから、余もまた「猫」を碣頭に献じて、往日の気の毒を五年後の今日に晴そうと思う。
 子規は死ぬ時に糸瓜の句を咏んで死んだ男である。だから世人は子規の忌日を糸瓜忌と称え、子規自身の事を糸瓜仏となづけている。余が十余年前子規と共に俳句を作った時に
  長けれど何の糸瓜とさがりけり
 という句をふらふらと得たことがある。糸瓜に縁があるから「猫」と共に併せて地下に捧げる。
  どつしりと尻を据えたる南瓜かな
 という句もその頃作ったようだ。同じく瓜という字のつく所をもって見ると南瓜も糸瓜も親類の間柄だろう。親類付合のある南瓜の句を糸瓜仏に奉納するのに別段の不思議もない筈だ。そこで序ながらこの句も霊前に献上することにした。子規は今どこにどうしているか知らない。恐らくは据えるべき尻がないので落付をとる機械に窮しているだろう。余は未だに尻を持っている。どうせ持っているものだから、先ずどっしりと、おろして、そう人の思わく通り急には動かない積りである。しかし子規はまた例の如く尻持たぬわが身につまされて、遠くから余のことを心配するといけないから、亡友に安心をさせるため一言断って置く。
  明治三十九年十月(夏目漱石 吾輩は猫である中篇自序)





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最終更新日  2022.01.21 19:00:07
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