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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2022.01.23
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カテゴリ:正岡子規
 子規より一年遅く、歩行町に生まれた秋山真之は、子規と同じ勝山学校、松山中学に進みました。柳原極堂著『友人子規』には真之は子規と「同郷の小学校時代からの親友」とあります。
 高浜虚子は、『正岡子規と秋山参謀』で「始めて同君(=真之)を見たのは松山に同郷会というものの出来た年で、恐ろしい眼附きをした鼻の尖った運動の上手な人だと思った位のことであった。その後お囲い池の水練場で秋山君は真裸で「チン●が痒うていかん」といいながら砂を握って両手で揉まれたことを記憶している。君の父君と余の父とは旧藩の時分の御同役といったような関係から父君はよく宅へ来られた。やはり君と同じく鼻の尖った快活な大きな声をして談笑せらるる好きな面白いおじさんであった。そういう関係から「秋山の息子は皆ええ出来で八十九さんは仕合せじゃ」というような話を初め、君に附いての種々の噂は父や父の友逹の人々の口から聞いておって、なっかしく思っておった。しかし砂でチン●を揉むような男らしいことの出来ぬ自分は、とても順さん(真之君)には寄り附けんものとあきらめておった」とあります。
 
 子規が東京へ向かった明治16年、真之は兄の好古を頼って上京し、子規と同じ共立学校に学びます。子規が下宿していた藤野家に真之はよく通いました。
 藤野漸の妻・磯子は『はじめて上京した当時の子規』で「この時分、皆で麻布の久松家のお屋敷へよく出掛けたと覚えていますが、秋山さん—後の有名な海軍中将—がどうしたのか、自分で書いたとかいう猥褻な春画を帽子の中へはさんでいたのだそうですが、それが大風の日で帽子を吹き飛ばされるのと一緒に、その春画がその辺へちらかった。慌ててそれを拾うやら、閉口して逃げ出したなど升さんが帰っての話でした。秋山さんと升さんは、一番仲がよかったかして、よくお互いに誉めあっていました。升さんがアレはいずれ海軍大臣になりますよ、というと秋山さんはまた、正岡文部大臣の時が来るさ、と言ったりして、未来の大臣を夢見ていたようでした」と語っています。
 明治18年の夏、帰郷した子規は真之の紹介で井手真棹の門を叩き、和歌の手ほどきを受けます。松山からの帰路、子規は同行した真之や梅木脩吉と連歌を楽しんでいます。帰京した子規は、好古と同居していた真之の下宿で二、三日起居しました。9月になると、真之は子規の下宿近くに独りで住むようになります。この頃、子規の下宿には、清水則遠が同居しています。
 明治21年、鎌倉無銭旅行の体験談を極堂から聞いた子規、真之、清水則遠、小倉(梅木)脩吉らは、自分たちもそれに倣おうと、夜の10時に鎌倉へと出発したのもこの頃です。歩きつつ眠るという旅を続け、疲労困憊した彼らは途中で切り上げ、汽車で東京へと引き返しました。最初に音を上げたのは真之でした。道端に倒れこみ、動けなくなってしまいました。
 
 九月頃のことなりけん。ある夜余が猿楽町の下宿を柳原秋山の両氏おとずれて話しつつある中に、柳原如水(極堂)が『先日四、五人連れにて十銭ばかりの金にて絵島鎌倉に行きたり』とて、難儀話と滑稽話とをまぜて話し、君らも金を持たずに行けとすすめけるに、秋山氏は跳りたちて今よりいかんといえば、余もさまですすめられて、あとへもえひかぬ男なれば半分は面白く半分は恐ろしく、五十銭を懐中し夜の十一時頃に家をいで、清水、秋山、小倉三氏を携えたか携えられたか、ようように品川まで来たりし時ははや大びけ頃にて妓楼の前を通ればはいれとすすむれど、はいるどころではなく。鞋をひきずりながらボタボタとあるいてる風、まさか日頃の色男とも見えぬ故、楼丁等はクスクスと笑うさえ心よからぬに二階を見ればあいにくと障子の上に男女さしむかひの影ありありと写りおり、一ッとして胸をわるくする種ならぬはなし。ようようにそこを通りぬけて海浜に出ずれば、月はなけれどあまのいさりする火も一ッニッは見えたり消えたりする処、如何にも塵の浮世とは思われず、通りすぎんはなめげに似たり。いざ一息みせんと道の傍に腰をつきしは実ははやこの時に足のだるく覚えし也。かくてはかなはじと鶴見までやっとのことで来た時は夜あけに近かりしが、ある小さき堂の中に入り縁へ腰うちかけしばしやすみぬ。余はねむくてたまらねば、いい心持に艪をおしつつあるに外の者ははや表にいでたり、苦しけれどせんかたもなくあるきはじめしが、あるきながら眠り、眠りながらあるき、あるくのか睡るのかさらに分からず、その内夜もあけければ目も自然にあきぬ。神奈川にて全く夜明けとなりしが道傍の小屋に餅のつきたてをならべいたり。昨夜已来の努れといい、腹もへりたれば覚えず鼻を二三度スコスコいわして通り過ぎぬ。この時、清水、秋山の二子は一町ばかり後れて来りしが二三町行きて待ち合せ、今の餅はどうだうまそうであったなといえば、秋山は「当り前よ、うまそうならばなぜ買わぬのだ」といと恨めしげにいえり。けだし余が大蔵大臣をつとめいる故也。余も始めて心づきもとより朝飯など食う身分ならねど、何かくわなくてはたまらぬ故、餅を買うてもよかりしなれど、かく行き過ぎてはせん方なしとて停車場の処へ来り、橋の上に立てば汽車は丁度下にて仕度最中なり。足だるければ見て行かんと楯上にたたずみいる中、汽笛一声車は進行を始め橋の下へはいると思うと、そのとたんに真黒な炭烟は橋上にある余等の鼻口などの穴からプットはいりたり。腹までも進入する気もちなるに、すき腹なれば何條たまるべき余はしきりにムカツキたり。余はこの時足ほとんど努れ秋山なども疲労の様なれば「もういつそここから帰ってはどうだ、行けば行く程内が遠くなるよ」といえば秋山は頭をふり「ここまで来て帰るやつがあるものか」という。そんなら行かんとふかしいもを買い歩みはじめしが元来疲労の上に睡眠さえかぎしことなれば、一町行きては休み二町行きては息い、木の蔭だといっては坐り石があるといっては腰かけたり。否休むという訳にならず、何だか自然に尻がすわってきて足が中々いうことを聞かず、腰を投げる様にかければスッカリ落ちつきて中々持ちあがらず、故にやすむといはずして「かしこまる」という名を用いたり。程ヶ谷を過ぎてはいよいよもってたまらず、道あるく人には追いこされ車屋には笑われ、くやしながらも「これぞ昨日の金殿玉楼なるべし」などと蝉丸気取りで半町もあゆめばもうたまらず、小倉のみは努れの様子もなく遥かさきの方をスタスタと行けど、清水、秋山は後の方よりヨボヨボと来る。待ち合わせて『オイどうだ、もうかしこまろうじゃないか』といえば、二人はものもいわず、うれし涙を流してやすむこと暫時、小倉氏の呼ぶに励まされてあるきしが、半町ばかり行く間に、秋山ははやよほど余らに遅れたり。今度は余らの待ち合わすをも待たず、後の方より手をあげて『オオイ、かしこまれかしこまれ』というゆえ、ふりかえり見れば秋山は、はや道傍にいくじなくも休みいたり。おかしさにたえねど、自分もやはり同じ思いゆえ、同意しける。かくてようように戸塚の手前に来りし時は十二時なれば、とある草の屋に入りて昼飯を食いしが、余は東京出てはじめての飯故うまくてたまらず、秋山はうまくなしとて飯はくわずそこに寝ころぴしが、はや鼾の声のみ高かりける。一時ばかり休みて秋山をもゆり起し「まだこれから三里已上あるが行くかどうするか、というとさすがの秋山ももはや強情もはりきれなくなり、帰ろうと承知するどころか嘆願する有様なれど、とてもこの足では東京まではおろか、神奈川までもむつかしという。汽車賃でもあればいいがと小倉氏に相談すると天、人を殺さず。小倉氏が意外に金を持ていて四人の深車賃の外に十錢余を余しければ、その残りで道々梨をくいながらかろうじて紳奈川までつきしが、神奈川につきし頃は紐の歩みもただならずという次第にて、後の足が前足の指のさきまではどうしてもひけず、後足のかかとがようよう前足の中頃に来る有様なれば、道通る人は皆あやしみてふりかえりける。小さき子供等の走りまわるもうらやましく、龍も魚となりては漁夫にとらるる習いと車夫の冷笑を尻目にかけて停車場に至り、汽車に乗りおうせては大いに安心し、昨夜以来苦しんで通りし街道をながめながら、一時の内に新橋へつきぬ。(『筆まかせ』「弥次喜多」)






最終更新日  2022.01.23 19:00:06
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