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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2022.01.25
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カテゴリ:正岡子規
 明治18年9月、東京大学予備門へと進んだ秋山真之は、落第した子規と同級になりました。
 翌年1月30日、子規は予備門の友人たちと「七変人評論」を行います。「七変人」とは子規、真之に加え、清水則遠、関甲子郎、菊池謙二郎、井林博政、神谷豊太郎の七人でした。子規は、わがままで小心、内弁慶な性格を指摘されました。真之は自信過剰で論争好き、騒ぎ過ぎるところに釘をさされています。
 勇気、才力、色欲、勉強、負吝みの面で子規と真之を比較すると、子規は才力に優れ、勉強嫌いで、負吝みはしない。真之は才力に優れているものの子規より劣り、勉強はそこそこ、負吝みの強い人物と採点されています。互いに忌憚のない意見が交わされ、遠慮のない人物評が出されたのは、青春の特権というものかもしれません。
 
子規の評価
 あるいは曰く、満腔詩文の才想を懐き、日課役々の中に洒々落々たるは、余輩正岡君においてこれを見る。これ才智あり。かつ大胆なる者にあらざれば能わざるなり。さて君の性質に至っては別に非難すべきなく、かつこれあるもここに詳論するの限りにあらざるなり。ただ君は才子をもって自らを許すものの如し。君の才子たることは同友中等しく許すところなれども、才子才をもって身を誤るの鄙諺もあれば、左様に才子気取りはかえって君のために悪しからんと余輩の老婆心。
 あるいは曰く、その胆の小なる、俗にいわゆる家の前の弁慶を働くをもって見るべし。何をもって子を目して家の前の弁慶、即ち影弁慶なりやというに、元来子に付着する一種の病あり。この病は俗にいわゆる我儘なるものなり。而して、子のこの我儘なる病を発してあるいは威張り、あるいは人を侮るは、全く郷友もしくは親友数名の間に行うものにして、校中多数の友人あるいは教師に対して発することなく、あたかも猫前の鼠の如し。これ、余の子を指して小胆となすゆえんなり。しかれども子は才子なり。己を知らざるものに対して論ずるも威張るも無益無効の親玉と思意してしかるかしかり。而して、子はまた篤実人を喜ばしむるところあり。而して、その才たるや文字上の才にして究理の才にあらざるなり。後世、あるいは文墨をもって名を挙ぐるも、真説をもって名を挙ぐるは難きことかと思うなり。なお、君のために取るべからざる一事あり。そはまたなんぞや。曰く、小成に安んずるの気。
 あるいは曰く、子は詩作者にして歌詠家と化し、歌詠家にして俳諧者に変じ、文章家にして小説家を擬し、人に対して間の合わざるなく、その博識多才子が自ら誇り、我儕がまた信じて疑わざるところなり。而して、子が属する所の詩文中に奇語絶句を含むといえども、未だこれをもって高等に達する能わざるは何ぞや。曰く、子が胆小にして詩文自らその勢力を失うをもってなり。子が小なるもの、独り胆のみならんや。気もまた小なり。今これを比せんに、余は子を守門の犬の如しと言わん。常に家にありては能く人を評して、能く人を賤む。而して、聚衆のところにおいてはすなわち尾を垂れ耳を俯し、あえて一言のいうなく学校生徒をして、子を婦女子の如しといわしむるに至る。子が性、淡白なり。然れども子がなすところ多く、淡白に過ぐゆえに損することしばしばあり
 
真之の評価
 あるいは曰く、伊予松山に人ありやと問わば、君は自ら我なりと答えん。大学予備門に人ありやと問わば、君は自ら我なりと答えん。その気、感ずべし。その意、許すべからず。才子は才を守り、愚は愚を守る、少年才子愚に及ばずとは名言なり。とにかく自惚するは、他人よりこれを見れば自惚するほど惚れぬのみか、かえってこれを悪むものなり。
  見るほどに見てくれもせぬ踊かな
 あるいは曰く、君は学問さほど博識を究めたりという能わずといえども、侃然事務にあたり、これを処理してその当を過たず、その職務を尽すことを得るは、同友中独り、君においてこれを見るならん。これ畢竟、君の俗才に長ぜるものにして、余輩の大いにこれを依頼するところのものなり。その気象は、真に人に信愛さるる風ありといえども、どうもすれば人と争論を開き、ために友誼を破るの恐れあり。これらの点に至りては、少しく軽躁に失するものの如し。その勉強の仕方に至りては、余輩は実に感服を表せざるを得ざるなり。
 あるいは曰く、当今の書生、活発ならんことを欲して軽躁に陥るもの比々皆これ、子が如きも活発と言えば活発と言うべし。軽躁と言えば軽躁と言うべし。けだし、子は六の軽躁を有し、四の活発を有するものというべし。しかり、而して君の如く普通の才を有するは余の未だかつて見ざるところなり。しかれどもその才たるや、大才あるにあらず。俗の『器用』なるものに過ぎざるなり。その例を言えば浄瑠璃の真似をなし、都々逸を歌う類なり。子は終身一つの技手にして果てんのみ、大事をなすに足らざるなり。(高浜虚子『正岡子規と秋山参謀』より「七変人評論」)





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最終更新日  2022.01.25 19:00:08
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