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カテゴリ:正岡子規
柿喰えば鐘が鳴るなり法隆寺(明治28) 明治28(1895)年10月19日に松山の愚陀仏庵を離れた子規は、広島から須磨を経て大阪に渡ると、左の腰骨が痛んで歩行困難になり身体が癒えるまで大阪に滞在し、26日に奈良へ赴きました。子規は、松山の漱石に鰻の蒲焼代を払わせ、さらに夏目漱石から10円を借りていますが、それを返したかどうかは定かではありません。 それから大将は昼になると蒲焼を取り寄せて、御承知の通りぴちゃぴちゃと音をさせて食う。それも相談も無く自分で勝手に命じて勝手に食う。まだ他の御馳走も取寄せて食ったようであったが、僕は蒲焼のことを一番よく覚えている。それから東京へ帰る時分に、君払って呉れたまえといって澄まして帰って行った。僕もこれには驚いた。その上まだ金を貸せという。何でも十円かそこら持って行ったと覚えている。それから帰りに奈良へ寄ってそこから手紙をよこして、恩借の金子は当地において正に遣い果し候とか何とか書いていた。恐らく一晩で遣ってしまったものであろう。(夏目漱石 「正岡子規」) 子規は、東大寺周辺を散策し、「角定対山楼」という旅館に宿泊します。角定(「対山楼」とも称した)は、江戸末期から明治、大正にかけ奈良を代表する老舗旅館「角定対山楼」は、伊藤博文、山県有朋、山岡鉄舟、滝廉太郎、岡倉天心、フェノロサなど政府要人や学者、文人など明治の各界を代表する著名人が数多く宿泊しています。昭和38(1963)年に廃業し、現在は「天平倶楽部」という日本料理店が建っています。 ちょうど周りの木には色づいた柿がたわわに実っていました。柿好きの子規にはたまらない季節です。 ある晩のこと、夕食が終わり、宿の女中に、「まだ御所(ごぜ)柿は食えまいか」と聞くと、用意できるといいます。子規は、十年ほど御所柿を食べていませんでしたから、さっそく持ってくるように命じると、女中は直径一尺五寸(約45センチ)もありそうな鉢に山のごとく柿を盛ってやってきました。 女中は庖丁を持って柿を剥いてくれます。子規は、柿を剥く女のうつむいた顔に見とれていました。年のころは十六、七、肌の色は雪のごとく白く、目鼻立ちも美しい。「生まれはどこか」と聞くと、梅の名所である月ヶ瀬だといいます。子規は、この女中を梅の精ではないかと思いました。 子規がうっとりしていると、ゴーンという鐘の音が一つ聞こえました。すると女中は「おや初夜が鳴る」と言って、なお柿を剥いています。あれはどこの鐘かと聞くと、「東大寺の大つり鐘が初夜の鐘を打つのです」といいます。「東大寺はすぐそこです」といって、中障子を開けると、確かに東大寺は自分の頭の上に見えています。女中はさらに向こうの方を指さして、「夜は鹿がよく鳴きます」というのでした。 そこで子規は「柿喰えば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を詠んでいます。 ○御所柿を食いしこと 明治廿八年神戸の病院を出て須磨や故郷とぶらついた末に、東京へ帰ろうとして大坂まで来たのは十月の末であったと思う。その時は腰の病のおこり始めた時で少し歩くのに困難を感じたが、奈良へ遊ぼうと思うて、病を推して出掛けて行た。三日ほど奈良に滞留の間は幸に病気も強くならんので余は面白く見る事が出来た。この時は柿が盛になっておる時で、奈良にも奈良近辺の村にも柿の林が見えて何ともいえない趣であった。柿などというものは従来詩人にも歌よみにも見離されておるもので、ことに奈良に柿を配合するというようなことは思いもよらなかったことである。余はこの新たらしい配合を見つけ出して非常に嬉しかった。ある夜夕飯も過ぎて後、宿屋の下女にまだ御所柿は食えまいかというと、もうありますという。余は国を出てから十年ほどの間御所柿を食った事がないので非常に恋しかったから、早速沢山持て来いと命じた。やがて下女は直径一尺五寸もありそうな錦手の大丼鉢に山の如く柿を盛てきた。さすが柿好きの余も驚いた。それから下女は余のために庖丁を取て柿をむいでくれる様子である。余は柿も食いたいのであるがしかし暫しの間は柿をむいでいる女のややうつむいている顔にほれぼれと見とれていた。この女は年は十六、七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立まで申分のないように出来ておる。生れは何処かと聞くと、月か瀬の者だというので余は梅の精霊でもあるまいかと思うた。やがて柿はむけた。余はそれを食うていると彼は更に他の柿をむいでいる。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしているとボーンという釣鐘の音が一つ聞こえた。彼女は、オヤ初夜が鳴るというてなお柿をむきつづけている。余にはこの初夜というのが非常に珍らしく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるという。東大寺がこの頭の上にあるかと尋ねると、すぐそこですという。余が不思議そうにしていたので、女は室の外の板間に出て、そこの中障子を明けて見せた。なるほど東大寺は自分の頭の上に当ってある位である。何日の月であったかそこらの荒れたる木立の上を淋しそうに照してある。下女は更に向うを指して、大仏のお堂の後ろのおそこの処へ来て夜は鹿が鳴きますからよく聞こえます、という事であった。(くだもの 「ホトトギス」明治34年4月25日) 山口誓子著『子規諸文』によると、誓子は奈良に住む友人に子規の泊まった「角定」の柿の調査を頼みました。御所柿がなっていた木は「毎年立派な実を結び、今年も相当の出来だったそうですが、近所の悪童に太い枝ごと折られてしまって、来年からは実がならぬかも知れぬと大変嘆いておられました」とあり、近所の腕白小僧にあの柿の木は折られていました。 御所柿は奈良御所原産で、柿にある遺伝子は、ほとんどが渋を含んでいるのですが、この御所柿だけが渋のない突然変異種の完全甘柿です。近畿から東海の地域では、「御所柿」が地元の在来品種と交雑して新しい柿の品種が次々と生まれました。その柿には、「江戸御所」「天神御所」「晩御所」のように、地名や時期のあとに「御所」の名がつくものが多くあります。 なお「柿喰えば鐘が鳴るなり法隆寺」の句は、この年の九月に夏目漱石がつくった「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」を受けてつくったものだともいわれています。
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最終更新日
2022.02.14 19:00:07
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