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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2022.03.05
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カテゴリ:夏目漱石
 拝復。御帰京の由拝承、この度の事についてはその後種々なる御心労その外にて、定めし御哀傷の上に一層の御疲れと存候。小生はいつ頃御帰りにやと思い、先頃岡倉覚三氏葬儀の折帰途、一寸門口まで伺おうと存候処、車夫が違った道を通りたるため、ついそのままに相成候。御老人の御病気は小生には突然御逝去も無論意外に有之。御老体とは申しながら、ついこの間強壮な処を拝見したばかり故、ことさらに驚ろき申候。
 画は一寸中絶に候。その後の傑作もいかものばかりに候。行人を書き上げてからまた描こうかと存候。
 展覧会音楽会天高馬肥、これからはいいことだらけに候。そのうち行楽の御供仕度と存候。先は右まで。匆々。
   九月十五日   金之助
   寅彦様
 小生は無法ものにて父の死んだ時勝手に何処へでも出あるき申候。最も可笑しかりしは、その節友人の父も死にたれば、茶の鎧か何か携えて弔みに参り、その友人に変な顔をされたことに候。(大正2年9月15日 寺田寅彦宛書簡)
 
 この手紙に出てくる岡倉覚三氏とは岡倉天心のことです。天心は大正2年9月2日、新潟県の赤倉の山荘で没しました。遺体は東京に運ばれ、9月5日、谷中斎場で葬儀が行なわれました。この葬儀に漱石は参列していました。
 
 というのは、漱石は、ロンドン留学時代の時、岡倉天心の弟・岡倉由三郎と交流がありました。由三郎は、明治35年2月に文部省留学生としてヨーロッパ諸国を訪問し、ロンドンに住みました。
 
 由三郎の『朋に異邦に遇う』では「僕が、文部省留学生として、海外に派遣の身となり、まずロンドンに旅装を解いたのは、明治三十五年の初夏のことで、その頃、夏目君は、二ヶ年の留学期の大半をすでに済ませて、テムズ河の南、クラッパム・コンモンの寓居に、じっと読書と思索との朝夕をおくりむかえ、あまりに書物を買いすぎて、転居の自由をさえ失った姿で、終始一つの家に留学の全歳月を送ってしまった。その家へは、両三度、僕も訪ねたことがあるが、型のごとく、二人のオウルド・メイドとしての姉妹が、女世帯の主人として、寄寓の異邦の人々の世話をして閑散な生涯を営んでいた。その頃、道化に居住していたのは、夏目君のほかには、土井晩翠君があったが、未婚の老婆たちには、東海の有志の漂泊あじわいかねてか、土井君に対しては、すこぶる了解を欠いていたに反し、夏目君への敬服の念は、その反比例をなして盛んであった。/その頃の留学生の月手当は、金壱百五拾円也で、一日が五円すなはち十シルであったから、今日に比し、物価は大分やすかったにしろ、誠に遺いでの無いもので、ちょっとした書物一冊買えば、その日は無一文という懐具合。それで、好きな芝居も、ろくろく見物できないみじめさであった。そういう事情もあって、当時の宿の一週間の支払いは、三十シルを普通としていた。これでは、ブレックファスト・ランチ・サッパの循環小数で、ディナというに足る正餐は一周一回の日曜ぐらいであった。処が、夏目くんは、江戸子そだちで、口がこえていたせいもあって、留学仲間では破天荒の一週三十五シルの豪華(?)に生活をしておいでであった。/その夏目君が、時には自転車、英人のいわゆる貧乏人の馬に跨がって、僕のハマスミスの宿を訪ねてくれたこともある。その家は、つましいので有名なスコットランド産の老夫婦が、極めて倹約一方で営んでいた、一週三十シルの住居で、食膳の質素であったことは、今から想い起しても、長い溜め息が出る」「ある日、僕のもとへ文部省から電報が来た。その文面には、『夏目、精神に異状あり、藤代同道帰国せしむべし』とあった。これは、察するに、夏目君に極めて接近していた某氏が、文人にはありがちのハルウシネェションの気味を、夏目君のうえに認めて、こは一大事とばかり、精神に異状あるもののごとく、大陸の旅先から、たぶん芳賀君のもとへ内信を発したところ、その当時、大陸において、留学中の某理学博士が、精神錯乱のあまり、同宿の某氏蒐集の押し葉を焼きすてた事実に鑑み、杞憂のため、かかる処理が採られるに至ったものと、僕はただちに感づいた。そこで僕は、一方、本省に対しては、夏目氏に関しさような心配無用なる旨を報じ、藤代君の来着を待っていた。すると程なく藤代君がやって来た。藤代君は、ハウスクネヒトの講義を、大学でともに聴いた旧友で、その非凡の学才のゆえに僕の昔からの敬服の的であった。遇って夏目君連れ帰りのことを話すと、万事僕と同意見で、その儀まっぴら御免という次第、それで、夏目君のことは、僕が全部責任をもつことにして、そのままに放任、留学期のおわるまぎわに、はじめてロンドン以外への北方旅行を、すこしして、夏目君は、なんにも知らずに、ぶじ日本へ帰着、ああした壮んな文学生活に入ったのである」と書いています。
 
 漱石は留学の終わりころ、スコットランドヘ旅行しています。スコットランドのピトロクリに住む親日家のJ.D.ディクソンの邸宅に招待されています。これは、ディクソンと岡倉天心の間には交友関係があり、弟の由三郎から漱石にデイクソンを紹介したという経緯があったようです。
 天心と直接的な関係はありませんが、漱石が葬儀に招かれたのは、このことに関係がありそうです。





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最終更新日  2022.03.05 19:10:06
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