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カテゴリ:夏目漱石
奥には例の客が二人床の前に坐っていた。二人とも品の好い容貌の人で、その薄く禿げかかった頭が後にかかっている探幽の三幅対とよく調和した。 彼らは二人とも袴のまま、羽織を脱ぎ放しにしていた。三人のうちで袴を着けていなかったのは父ばかりであったが、その父でさえ羽織だけは遠慮していた。(行人 帰ってから 12) 探幽とは狩野探幽で、狩野孝信の子で江戸幕府の御用絵師です。江戸城鍛冶橋門の近くに屋敷を与えられ京都から江戸に本拠を移しています。その居住地から江戸で鍛冶橋狩野家を興しました。 漱石は、明治40年に京都を訪れた際、詩仙堂に飾られていた探幽の「詩仙図巻」を見ています。3月30日の日記には「探幽三十六詩仙」とだけ書いています。また、大正4年に再び訪れた京都で探幽を観ています。津田青楓の兄で華道家の西川一草亭の茶室にかかっていた、探幽の梅の掛け軸を題に「梅の香の匂いや水屋のうち迄も」という俳句を詠んでいます。 長押作りに重い釘隠を打って、動かぬ春の床には、常信の雲竜の図を奥深く掛けてある。薄黒く墨を流した絹の色を、角に取り巻く紋緞子の藍に、寂たる時代は、象牙の軸さえも落ちついている。唐獅子を青磁に鋳る、口ばかりなる香炉を、どっかと据えた尺余の卓は、木理に光沢ある膏を吹いて、茶を紫に、紫を黒に渡る、胡麻濃やかな紫檀である。 椽に遅日多し、世をひたすらに寒がる人は、端近く絣の前を合せる。乱菊に襟晴れがましきを豊かなる顎に圧しつけて、面と向う障子の明かなるを眩ゆく思う女は入口に控える。八畳の座敷は眇たる二人を離れ離れに容れて広過ぎる。間は六尺もある。(虞美人草 12) 狩野常信は、尚信を父に持ち、木挽町狩野家を継いだ逸材です。父が亡くなった後は、狩野探幽に画を学び、狩野元信・狩野永徳・狩野探幽とともに四大家の一人とされ高く評価されてきました。常信の雲龍図には、姫路の龍門寺がよく知られており、水墨の特徴を生かした雲の間から、力強い龍の姿を描いています。
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最終更新日
2022.03.11 19:00:07
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