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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2022.03.18
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カテゴリ:正岡子規
   自来也も蝦蟇も枯れけり団子坂(明治32)
 明治32年の秋、子規は人力車で知り合いのところに出かけるだけの余裕がありました。9月28日には芋坂、田端を経て道灌山に登ったり、10月10日には神田猿楽町の高浜虚子を訪ねて、上野から新坂経由で根岸に戻りました。10月21日にも虚子宅を訪ね、10月23日には石井露月送別会で道灌山へ、11月13日には本郷にある岡麓の新宅、11月16日には原町の香取焔椎真を訪ねています。
 このうちのどれかで、団子坂を通ったのかもしれません。また、10月末には「菊人形」の題で句会が行われており、その際の題が頭に残っていたとも考えられます。
 
 団子坂は、千駄木にある坂で坂の下に団子屋があったからこう名づけられたという説と、雨降りの日に転ぶと泥まみれの団子のようになる急な坂という意味だとする説があります。また、この坂からは、品川沖の海が望めたといい、「汐見坂」とも呼ばれました。 『東京風俗志』には「菊見菊は駒込団子阪著し、皆花戸の養える所にして、ただ花の見事なるをこそ賞美すべけれ、清高なる趣はこれを見ること能はず。いずれも戸毎に舞事を構え、当年興行の演劇の芸題などを取りて、菊にて人形を作り、それぞれ俳優の顔に似せ、廻り舞台、せり上げ道具を設くるなど、さまざまに意匠を凝らせり。おおむね資金幾千円を費すといえり。されば、かかるたわいもなき作り物、却つて主となりて、花壇に植えつけられたるは、ほとんど客となりたり。十月の季より始まり、十一月の下旬に至る。小春日和のうちつづくに、人の遊処に乏しき折柄なれば、自ら集い来りて雑沓を極む」と書かれています。
 
 菊人形は、江戸時代の中頃、岐阜の廓の主人が、店に菊人形をつくって飾ったところ評判が立って店も繁昌したところから、その菊人形が大阪に伝わりました。枚方の菊人形が有名になり、徳川時代の末期になって、菊人形が江戸に伝えられたといいます。
 文化6(1809)年に麻布の狸穴で行なわれた菊人形は、巣鴨に移り、駒込、根岸、谷中などで植木屋が菊人形をつくりはじめました。団子坂の菊人形が有名になったのは明治15(1882)年頃で、菊人形といえば団子坂を指すようになりました。
 10月末から11月末までの菊が盛りになる頃、鶴や孔雀、鳳凰などの吉鳥や、帆掛舟、富士山などの縁起物が話題を呼びますが、時代が移ると人気役者の当たり狂言の菊人形をならべ入場料を取るようになりました。
 
 吉村武夫の『明治粋人奇人談』には、「毎年菊人形の季節になるとたいへんな人出で、この三年坂(団子坂の前の谷中側の坂)の上から車止めになったそうです。このように混んだのも根津に遊廓もあり(明治十八年まで文京区根津一丁目にあった)寺詣りの人々が流れ込んだものでしょう。勿論藍染川の通りも車止めになったようです。菊人形を作るのは駒込駅前付近に住んでいた菊作りの植木屋がきてやったそうで、この菊人形の胴体作りを菊付けといいました。胴作りは、竹を芯にしてその回りを藁で包み糸で巻いて、一・五センチ位の太さにしました。これで胴体を作り、その胴の中に菊を入れて、胴体の間から菊の花を出しました。胴体の中は何段にも仕切り、菊の根は水を含んだ水草で巻き、毎日この水草に水をやり花の生気を保たしておりました。一週間くらいで花はダメになるので胴体を解いて、新しい菊と取替えて飾ったものです。この作業は徹夜で行なわれ、菊人形が始まると、関係者は夜もろくろく眠れなかったといいます」と、人形店の田口氏の話を紹介しています。
 
 団子坂の菊人形は、昭和の中ごろまで続けられ、次第に下火になって来ました。そのきっかけは、大正3(1914)年のがけ崩れで、道が広げられたため無粋な道になったためだといいます。





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最終更新日  2022.03.18 19:00:08
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