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カテゴリ:正岡子規
佛へと梨十ばかりもらひけり(明治29) 五百木瓢亭著『夜長の欠び』には若き日の子規の梨の食べっぷりが描かれています。「僕が始めて子規と会見したのは明治二十二年の秋でした。子規はたしかまだ大学へはいっていなかったと思います。その時は寄宿舎で僕等と同居しない前で。不忍の松源の近所の下宿にいた頃です。……盆の上に山のように積んだ梨をたらふく食いちらしつつ」とあり、若い頃からくだもの好きの子規は梨をよく食べています。明治34年3月20日発行の「ホトトギス」に載った子規の「くだもの」という文には「○くだものと余 余がくだものを好むのは病気のためであるか、他に原因があるか一向にわからん、子供の頃はいうまでもなく書生時代になっても菓物は好きであったから、二ヶ月の学費が手に入って牛肉を食いに行たあとでは、いつでも菓物を買うて来て食うのが例であって。大きな梨ならば六っか七つ、樽柿ならば七っか八つ、蜜柑ならば十五か二十位食うのが常習であった」とあります。 明治32(1899)年には、送られてきた梨の大きさに驚き、句をしたためました。 ザボンより大きな梨をもらひけり 大きなる梨を包みし袱紗哉 この年の8月21日には、宮本医師の来診を受け、毎日梨を食べていることを話すと、梨はよくない、僕の家にもらったリンゴがあるからと、翌日持って来てくれました。明治27年に刊行された宮崎安貞著『農業全書』には「梨は百薬の長といいて菓子(くだもの)中のとりわけ賞翫なるものにて、ことに熱煩の病人などに用いて功ある名物なり」とあり、宮本仲氏の持論だったのかもしれません。ただ、梨のほとんどは水分で栄養が少なくゴリゴリとした梨の繊維が病に障ると考えたのかもしれません。 明治34(1901)年6月13日には、大阪の水落露石宛に「梨難有候。病気は次第によろしく候へども腰に痛ありて起ることかなはず何とも致方無之候」と梨の礼状を送っています。この年の9月6日には、病床の子規のもとに太白という梨が伊藤左千夫から届き、9月16日には石巻より長十郎梨が届いています。9月16日の『仰臥漫録』には「石巻の野老といふ人より小包にて梨十ばかりよこす。長十郎という梨とぞ。一つくうに美味あり」とあります。病床にいる子規には、各地から美味しい梨が届いたのでした。 長十郎は、明治26(1893)年に、当麻辰次郎が梨園に他とは違った品種があることを見つけ、家の屋号から「長十郎」と命名しました。この「長十郎」は、昭和30年にかけて梨の「黒星病」が流行しましたが、品種が壊滅状態になる一方、「長十郎」が病害に強いことがわかり、一気に栽培されるようになったのでした。また、「二十世紀」梨は、明治21年、松戸の松戸覚之助が裏庭のゴミ捨て場に生えていた小さな梨の木を偶然発見した品種で、当初は「青梨新太白」と呼ばれましたが、明治27年に東大の池田伴親助教授が「二十世紀」の新品種名をつけると、一躍その名が全国に知られるようになりました。 川崎大師には、『種梨遺功碑』という石碑があります。この碑は、「長十郎」を発見した当麻辰次郎の功績を記念して建てられています。 明治時代誕生の「長十郎」と「二十世紀」という梨は人気品種となり、「淡雪」や「太白」といった古い品種は姿を消してしまいました。 石ノ卷ノ長十郎ガ見舞カナ(明治34)
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最終更新日
2022.04.17 19:00:07
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