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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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カテゴリ:正岡子規
   旱雲西瓜を切れば眞赤也(明治29)
 
 新海非風は、明治3(1870)年に松山末広町で生まれ、子規に常盤会寄宿舎で出逢い、子規の見識に惚れ込みました。その時子規と同居していた男に頼み込んで代わってもらい、同室となって俳句や小説にのめり込みました。子規と一緒に小説『山吹の一枝』を連作したこともあります。
 非風は、俳句の優れた天分を持っているのですが、その反面エキセントリックなところがありました。子規は『筆まかせ』の「悟り」で「神経過敏にして輒すく事物に刺激せらるるの性なれば……その挙動半狂の人に似たり」と評しています。
 軍人志望で陸軍士官学校に入学したのですが、肺病を患って退学したことで自暴自棄となり、放蕩の果てに家の財産を食いつぶした非風は、吉原でなじみになった女と結婚しました。そして日本銀行に入って、のちに北海道に渡りますが、健康面で激務に堪えきれず妻の実家のあった京都に戻り、不養生から子規より一年早く鬼籍に入りました。高浜虚子の小説『俳諧師』の五十嵐十雨は、非風をモデルにしています。
 河東碧梧桐は『子規を語る』で子規の西瓜好きを綴っていますが、その中で「非風が途中で西瓜を買った。……のぼさんも一所に、石手川の川原まで引張って行った。そこらの石に西瓜をぶっつけて、手づかみで貧り食いながら、今夜は大いに振ったな、と大恐悦(大喜び)だった」と非風の破天荒な行動を記しています。
 
 かなり暑い日でもあった。シャツ一枚の肌ぬぎになった子規の前に、赤い西瓜が盛って出された。白い細い長い指の股から垢を探み出していた子規は、私にも勧めるよりか、自分でしゃぶりつく方が早かった。
 私の家では、西瓜を食うのは年にただ一度で、旧の七月に七夕祭をする時だけであった。それも子供の七、八人もある大家族を擁していたので、せいぜい二切れか三切れの
割宛に過ぎなかった。今、目の前に盛られた西瓜の鼻を衝く涼しい豊かな芳ばしきに打たれながら、私は軽々しく手を出す気にならなかった。物固い倹約に馴らされた私の家
の習慣と、余りに距離のある眼前の事実が、新たな感想となって、私の頭の中を往来していたのだ。
 そう言えば、いつの帰省の時に尋ねて往っても、御馳走に西瓜の出ない時は無かった。毎日尋ねて往ってもきょうのは善かったとか、悪かったとか、西瓜の評が出た。そうして誰よりも一番余計に食べた。ある年非風ーー新海正行、亡ーーと一処に帰省した時など、月を見に行こうというので、近くの石手川まで出かけた。月の冴え冴えした水のない磧(かわら)の石に腰かけて、その日見た田舎芝居の評などしている中、非風が持って来た西瓜を、そこらの石にぶちあてて割ったりしたこともあった。(河東碧梧桐 子規を語る 4野球)
 
 これは明治24(1891)年の夏、子規が松山に帰省したときの出来事でした。割れた西瓜の汁のように、非風の狂気が赤い色で浮かびあがってきます。このことは高浜虚子も『子規居士と余』に書いています。
 
 三津の生簀で居士と碧梧桐君と三人で飯を食うた。その時居士は鉢の水に浮かせてあった興居島の桃のむいたのを摘み出しては食い食いした。その帰りであった。空には月があった。満月では無くて欠けた月であった。縄手の松が黒かった。もうその頃汽車はあったが三人はわざと一里半の夜道を歩いて松山に帰った。それは、「歩いて帰ろうや」という居士の動議によったものであった。その帰りに連句を作った。余と碧梧桐君とは連句というものがどんなものかそれさえ知らなかったのを、居士は一々教えながら作るのであった。何でも松山に帰り着くまでに表六句が出来ぬかであった。そうして二、三日経って居士はそれを訂正して清書したものを余らに見せた。もし今獺祭書屋旧子規庵を探したらその草稿を見出すのにむずかしくはあるまい。居士は如何なる場合にいい捨てた句でも必ずそれを書き留めて置くことを忘れなかったのである。
 こういう事もあった。
 海中に松の生えた岩が突出して居る。
「おい上ろう。上ろう」と新海非風君が言う。
「上ろう。テレペンが沢山あるよ」と言ったのが子規居士である。舟が揺れて居る。二人の上ったあとの舟中に取り残されたのは碧梧桐君と余とであった。間もなく碧梧桐君もその岩に掻かき上ってしまって最後には余一人取り残された。
 非風君はその頃肺を病んでいた。たしかこの時であったと思う、非風君がかっと吐くと鮮かな赤い血の網のようにからまった痰が波の上に浮いたのは。
「おいおい少し大事にしないといけないよ」と子規居士は注意するように言った。
「ハハハハ」と非風君は悲痛なような声を出して笑い、「おい升さん(子規居士の通称)泳ごうや」
「乱暴しちゃいけないよ」子規居士は重ねて言う。
「かまうものか。血位が何ぞな。どうせ死ぬのじゃがな」と非風君は言う。
 居士の病後のみを知っている人は居士はあまり運動などはしなかった人のように思うであろうが、あれでなかなかそうでもなかったらしい。ベースボールなどは第一高等学校のチャンピオンであったとかいうことだ。居士の肺を病んだのは余の面会する二、三年前のことであったので、余の逢った頃はもう一度咯血した後であった。けれどもなお相当に蛮気があった。この時もたしか艪を漕いだかと思う。ただ非風君ほど自暴ではなかった。非風君の方が居士より三、四年後に発病したらしかったがその自暴のために非風君の方が先に死んだ。居士は自暴を起すような人ではなかった。
 同勢三、四人で一個の西瓜を買って石手川へ涼みに行き、居士はある石崖の上に擲げつけてそれを割り、その破片をヒヒヒヒと嬉しそうに笑いながら拾って食ったこともあった。(子規居士と余 2)
 
 明治27(1894)年、虚子は、小石川にあった非風の家に転がり込みます。この時のことを『俳諧師』で綴っています。
 
 この男は何かにつけてカランカランと玉盤を打つような響をさして笑うのが常で、馬鹿に涙脆くって腹も立てやすい代りに機嫌も治りやすい。俳句を作り始めた頃は仲間中の第一の天才といわれ、小説を書いてもオリジナルな処があるという評判であった。ところが一年許り前から道楽を始めて、国許に五十嵐の成功を待焦れていたお母さんから、なけなしの財産をすつかり捲き上げて遊蕩費にしてしまい、何でも目下吉原の何楼とかの女郎を身受けするとかいって騷いでいるという噂をこの頃増田は聞いたのであるが、その実この女郎というのは京都の六条の数珠屋の娘で、かなりの身代であったのが破産したために吉原に売られ、この頃年季が明けて廃業する、それをある小官吏と競争していたのである。この女郎は源氏名を司といって小籬ながらもお職を張通していた。丸ッポチヤの、顏の割合に口の大きい、笑う時はあまり口が広がりすぎて相形が崩れる嫌いはあるが美人たるを失わぬ。人の好い張りの無い、朋輩には司さん司さんと可愛がられていたが、よくあれでお職が張れたものだと蔭口を利く者もあつた。五十嵐と小官吏とが互に微力を尽し合って鞘当てをする。司は両方共に公平に待遇する。小官吏の方は大人しい、五十嵐はしばしば癇癪を起して当り散らす。小官吏の方はいつも優しい。五十嵐の方は優しい時は度を外れて優しい。司は廃業間際になって五十嵐の手に帰した。(俳諧師 14)
 
 碧梧桐の『子規を語る』には、非風を「碧梧桐の『子規を語る』には「非風を知ったのは、偶然子規の部屋で会ったのが最初だった。気の軽い、賑やかな、言葉に誇張的な形容が多かったが、しかし十分に明るさを持った、中で一番親しみやすい人だった。どういう話でも半分笑いながら、さも嬉しそうに、一語一語に力を入れて行くので、いつかその方向に引きずられるのだった。美しく並んだ白い歯を見せる大きな口から垂れそうになる涯を拭き拭き話しすすむ時が、その喜びと明るさの絶頂であった、面長な規則正しい顔に、ゆとりを与える二重の限検のやさしさが漂っていた」とその印象を書いています。
 
『子規を語る』には「非風の家」という章が設けられています。
 
 非風の家は小石川の何処であったか記憶していない。非風は一時喀血をした、肺結核の診断をうけたのであったが、療養効を奏して、その頃常態に復していた。日本銀行の
計算課とかに出ていたようだった。算盤を二つつないで、何十億という長たらしい数の計算をするのは、そりゃア苦しいもんぞな、とよく日々の仕事のくだらなさをこぼして
いた。薄給のせいもあったであろうが、六畳と四畳半位しか部屋のない小さな家だった。それでも非風の家には火燵がしてあって、いつも春らしい濃厚な暖かさが漂っていた。非風や虚子のいうように、根岸が窮屈で冷たいとも思わなかったが、非風の家に来ると、何となく骨の伸びるようなくつろぎを感ずるのでもあった。
 非風はその頃吉原で馴染であった女と同棲していたのだ。恋の経緯をよく非風から面白くきかされたものだったが、地位も金もない非風が、多くの競争者の中の恋の勝利者であったのだ。
 小柄な、眼のばっちりした、口は大きかったが、顔全体に愛嬌のあった細君ーー他人行儀に、ただこの女とは言いすてられないーーは、初対面から私達を友達のようにもてなした。忘れられない人なっこい柔かさがあった。そうして何処にも玄人らしい臭いがなかった。下女も置かないで、自ら薪水の労もとっていた。よく御馳走になった食べ汚したものを片づける時など、気の毒な位小まめに立働いていた。書生上りの水入らずの暮しには、恰好の細君だった。
 鳴雪や子規の先輩には打ち開け難い内証も、非風はかけかまいなく私達の前にさらけ出した。私達を見物人に持って、二人でいちゃついたりする晴れ晴れしさが、生活に追われていた非風のせめてものパラダイスだった。こまかい女性らしい感情の動きに支配されて、すぐ泣いたり笑ったりする、話上手な非風は、総てのものを失なったような空洞な暗い心に囚われていた私には、この上なく美しいものに見えた。また羨ましい境涯にも見えた。主人のすすめるままに、虚子と謡をうたったりしている間、万事を忘れてしまうことの出来たのも、ただこの非風の家があったのみだ。もっとも先天性が合わないといって私を好かなかったらしい非風と私との間は、中に虚子を通じての交際であったから、当時の鴛鴦生活の甘味に十分浸るほどの親しみを持つてはいなかった。
 非風がその後東京を引払って、北海道に往ったり、後に細君の郷里の京都で、悲惨な最期を遂げた事情についても余り多くを知らずに過ごした。
 私は今でもそう思う。非風という人に不得手な算盤などを持たして置かずに、その趣味性の上に生活せしめる方法は無ったのかと。花の一時に開くように、その口をついて出づる片言隻句にも光っていた天才的な閃めきを、もっと培養し鍛錬する道は無ったのであろうかと。一題百句時代の子規と非風とは、古白瓢亭以上の親しみを持っていたようであるが、それがどういうはずみで、次第に疎遠になって往ったものか、この明治二十七年の末には、もう殆んどお互いに往来することもないほどの隔たりを見せていた。(河東碧梧桐 子規を語る 25非風の家)
 
 五十嵐は不思議な眼附をしてこの一座を見る。殊にそのぎらぎら光る眼は先ず艶書の束に止まり、細君の手許から、張り掛けられた畳紙、それからまた三藏の首筋に及ぶ。細君は「大変早かったのですね」を少し驚いて五十嵐を見上げる。五十嵐の癇走った声が晴天の霹靂と破裂する。「貴樣ッ。何をしておるのだ」「畳紙を張っていたのです」「馬鹿ッ。恥を知れよ恥を。人の前でこんな物を出し散らかしてッ」とそこに転げていた文束を取って細君に擲げつけると、細君の前髪の辺にはたと当って櫛が飛ぶ。「こんな物を馬鹿なッ」と畳紙を八ツ裂きに裂いてそれを丸めてまた細君に擲げつける。細君は青い顏して口をむっと閉じ、目をショボショボさせながら黙ってキチンと坐っている。細君は五十嵐が腹を立てて物を擲げつける時や、長い骨々した腕で搏つ時はいつもこういう態度でいる。また鬢がほつれて額にかかって憐れ気にションボリと坐っている細君の凄艶な姿は、能く五十嵐の心を柔らげるに足るのである。三藏は「十風君、乱暴をしてはいかぬ。僕がここへ来たのが悪かった」と言いながら立ち上って五十嵐の手を支える。この時五十嵐の心はもう少し折れかけている。「君は心配せんでいいよ」と僅かに笑いを洩らして三藏の顏を見「馬鹿野郎が、自分の身分を恥ずることを知らないのか。情けない奴が」と嵐の吹き留めにここに在る糊の皿を足蹴にしてひっくりかえし、眼の中には涙を一杯に溜めている。細君はまだ黙って木像の如く坐っている。「奧さん雜巾は?」と三藏は覆った糊皿を見て心配そうに細君の顏を見る。「塀和君、そんなことに君心配すなよ。君のように気分が弱くってはいかぬよ」といって、五十嵐は三藏の肩に手を置いて「この間の発句は出来たかい。さうかそれでは見てやろう」といって三藏が懷から出す句稿を受取つて、例の赤い机掛の前に体を擲げつけるようにして坐る。
 細君は漸く体を動かし始めて、覆った糊を拭き取ったり、飛び散った文殼を纒めたりして、鼻を啜り上げながらその辺を片附け始める。
 その夜五十嵐はひしと細君を抱き締めて寢る。かかることのあった夜はいつもそうである。(俳諧師 25)
 
 虚子は、非風の人間としての魅力と複雑さ、その破滅的な生き方を、『俳諧師』の五十嵐十雨に託したのでした。
 結核になって自暴自棄になり、その才能を放蕩に浪費してしまった非風と、病にありながらも俳句や和歌の革新のために歩んでいった子規。西瓜の食べ方にも、破滅型の非風と、対象を貪り尽くす子規の違いが、よく現れています。





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最終更新日  2022.04.23 19:00:07
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