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カテゴリ:正岡子規
到来の赤福餅や伊勢の春 上の句は、赤福が株式会社になったときの初代社長・濱田ますさんが書かれた『赤福のこと』という本に拠っています。ますさんは濱田家8代目・種三の妻で1956年から68年まで社長をつとめ、のちに会長となりました。 先にも少しお話ししましたが、かつて神風館に徘徊を学びました父種助の影響を受け、私の夫種三も俳句をよくし、自宅で句会など開くようになりました。伊勢には神風館のあるを見ましてもわかりますように、句作をなさる方が大勢おみえになり、俳句の革新を唱え「ホトトギス」をお創りになった正岡子規の門弟山本勾玉(こうぎょく)様も、そのお一人でした。その山本さまが明治三十三年の春、すでに病の床に臥しがちであった子規先生のお宅へお見舞いに参られました折、手みやげに赤福を持って行かれましたとか。 子規先生は「病床にあって外出もままならぬ日々を重ねるうちにいつしか春を迎えましたが、私が過ぐる年伊勢に参宮したのもちょうど今ごろでした。あの折に立ち寄った店が赤福だったのですね」と四方山のお話などなさりながら、おみやげを懐かしそうに召されて、伊勢の春を偲びつつ、 到来の 赤福餅や 伊勢の春 とお読みくださいました。すると、ご同席の河東碧梧桐様がその後を、 伊勢の春 赤福餅の 店一つ 春永く 赤福餅の 栄うらん と続けられたそうでございます。また、この場に居合わされた子規先生の高弟高浜虚子先生も昭和十年ごろ手前どもの店にお立ち寄り下さいまして、ありし日を偲ばれ、 旅は春 赤福餅の 店に立つ と詠まれたのでございました。(濱田ます 赤福のこと) この文にリアリティがあることから根拠を伺いますと、赤福に伝わる「伊勢の浜荻」という冊子から取ったものではないかということでした。残念ながら、その冊子は所在不明になっていて、探しているところだといいます。また、子規の句が包装紙に記載されるようになったのは明治44年からだそうです。 この文章が史実と異なるところは子規の伊勢参宮で、20歳の時、子規は四日市に訪れているのですが、当時鉄道などの交通機関が整備されていないことから、参宮は無理ではないかと思います。 山本勾玉が子規庵を訪れたのは、4月8日の子規庵で行われた「俳句月次会」で、この日は花見で人が集まらず、子規は「句つくりに今日来ぬ人は牛島の花の茶店に餅くひ居らん」の歌を詠んでいます(明星 病牀十日)。会には、鳴球、三子、一五坊、塵外、秋竹、紅緑、子規、廉郎、紫人、耕村、潮音、芹村、道三、快山、虹原、勾玉らが集まり、碧梧桐と虚子は参加していません。(子規選書 子規の一生) この時に赤福を持参されたとすれば、明治33年3月24日の「日本」新聞に「餅買ひにやりけり春の伊勢旅籠」の句が掲載されたあとのことになります。日本派の勾玉とすれば、「日本」に赤福にまつわる句が掲載されていたので、土産に「赤福」というのは頷ける話です。 また、高浜虚子の句「旅は春赤福餅の門に立つ」は、昭和9年6月に詠まれ、『玉藻』に掲載されています。(定本高濱虚子全集第1巻460P・毎日新聞社)
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最終更新日
2022.05.07 19:00:07
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