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カテゴリ:夏目漱石
いつかの展覧会に青木という人が海の底に立っている背の高い女を画いた。代助は多くの出品のうちで、あれだけが好い気持に出来ていると思った。つまり、自分もああいう沈んだ落ち付いた情調におりたかったからである。(それから5) 青木繁は、漱石がもっとも高く評価した洋画家です。 『それから』の新聞連載が始まったのは明治42年6月27日からです。「海の底に立っている背の高い女」の描かれた絵は、青木繁の「わだつみのいろこの宮」のことで、明治40年の東京府勧業博覧会に出品されたものです。漱石はこの博覧会を『虞美人草』に登場させていますから、目に触れたことはあるはずですが、このころの日記や手紙には青木繁のことは何も記されてはいません。 「わだつみのいろこの宮」は、この博覧会で三等賞末席となりますが、この絵、いやこの博覧会の評価に対して多くの芸術家が不満を持ち、そのことが新聞を賑わしました。 青木繁は、久留米市に生まれ、明治33年、17歳のときに画家を目指して上京。翌年には東京美術学校西洋画科選科に入学しました。繁は、在学中に「黄泉比良坂」などを白馬会展に出品し、白馬賞を受賞したことで脚光を浴びます。明治38年7月に東京美術学校を卒業した繁は、同年の白馬会展に「海の幸」を出品し、大きな話題を呼んでいます。しかし、繁は明治44年に、28歳の若さで亡くなりました。 明治45年3月17日、漱石は津田青楓への手紙で「青木君の絵を久し振に見ました。あの人は天才と思います。あの室の中に立って自から故人を惜いと思う気が致しました」と書いています。 この日の出来事は『文展と芸術』に記されています。 自分はかつて故青木氏の遺作展覽会を見に行ったことがある。その時自分は場の中央に立つて一種変な心持になった。そうしてその心持は自分を取り囲む氏の画面から自と出る霊妙なる空気のせいだと知った。自分は氏の描いた海底の女と男の下に佇んだ。自分はその絵を欲しいとも何とも思わなかった。けれどもそれを仰ぎ見た時、いくら下から仰ぎ見ても恥ずかしくないという自覚があった。こんなものを仰ぎ見ては、自分の人格に関わるという気はちっとも起らなかった。自分はその後いわゆる大家の手になったもので、これと同じ程度の品位をもつべき筈の画題に三四度出合った。けれども自分は決してそれを仰ぎ見る気にならなかった。青木氏はこれらの大家よりも技倆の点においては劣っているかも知れない。ある人は自分に、彼はまだ画を仕上げる力がないとさえ告げた。それですら彼の製作は纏まった一種の気分を漲らして自分を襲ったのである。して見ると手腕以外に画についていうべきことはたくさんあるのだろうと思う。ただ鈍感な自分にして果してそれをい得るかが問題なだけである。(文展と芸術 10)
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最終更新日
2022.05.10 19:00:06
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