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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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カテゴリ:正岡子規
菓子箱をさし出したる火鉢哉(明治33) 
 
 明治33(1900)年11月30日、子規は伊藤左千夫と岡麓を自宅に招き、自宅の煖炉の据え付け祝いを催行しました。13日に行った据え付け工事への二人の労をねぎらうためでした。
 その前日、岡麓に子規から手紙が届きました。「明三十日、煖炉据付祝として左千夫君を招き候につき、夕飯くらいに御出掛下間敷や。末日故如何やとは存候えども試に申上候。甚だ失礼なれども青木堂の西洋菓子三四十許御買求御持参被下まじくや」と、西洋菓子購入を頼んできました。
 岡麓は、子規の注文に応えて帝国大学の脇にある青木堂に寄って洋菓子を買い求めました。麓は、東京生まれでしたが、洋菓子屋に寄るのは初めての経験でした。子規宅に洋菓子を届けると、子規は待ちかねたように箱を探りました。そして「シュークリームがないなあ」と独り言を呟いたのでした。子規は、昨年の同時期に、坂本四方太が届けてくれたシュークリームの味が忘れられなかったようなのです。四方太に「シューだとかフランスパンとか花火の音見たような名を聞きながら喰うたのもうれしかった(明治32年11月29日書簡)」というお礼を告げています。シュークリームが入ってないことに、少し残念な思いがした子規でした。
 その日の会が終わり、子規から麓のもとへ早速の手紙が届きました。
 
 啓。ただいま失敬致候。喰いすぎて寝られず候まま用事もなけれど一書差上申候。今夜貴兄の容体を伺うに甚だよろしからず、御病中を御出被下候事と御気の毒に存候。今後寒中は夜気にあたらぬよう御用心可被成候。かつまた気分を落ち着けて言語挙動とも可成静に被成候わねば、やりそこないなしともうされず候。
 
   熱あれば寝るべし
   息迫る時は静まるべし
   寒ければ米を焚くべし
   精神は活発なるべし
    但煩悶すべからず
   道楽は適宜なるべし
    但分別を失うべからず
 
 今夜の御馳走は如何にも辛い御馳走にて咽喉かわきて堪えられず、蜜柑ほしくてほしくてせん方なけれど、最早買いに行くべき店もなしとて内の者にもことわられ、不得已塩湯を呑み紅茶の出流れの渋きを砂糖なしに飲み、遂に冷水を飲み候えども、胸なお焼申候。今夜は蜜柑の思いにて眠れ申しまじく候。
 
  我庵や柚味噌売る店遠からず
   草庵の煖炉開きや納豆汁
   歌よみよ我俳諧の奈良茶飯
 右の句書て見れば季なし
   芭蕉忌や我俳諧のなら茶飯
 これでは今日の句にならず
 芭蕉忌はまだ三日先なり
   俳諧の奈良茶茶の湯の柚味噌哉
 左向に寝て書き候処腰が痛くてたまらぬようになり候故これでやめ申し候。(明治33年11月30日 岡麓宛書簡)
 今日食べた料理が塩辛いので喉が渇いたのでみかんが欲しいという願いを込めた手紙でした。麓は、次の届け物はみかんにしようと思ったのでしょうか。
 
 岡麓著『正岡子規』の中の「桜の枝」には、シュークリームの思い出が書かれています。
 
 ずっと後であるが、青木堂の西洋菓子を二十個ばかり買って来てくれとの葉がきであったので、(東京)大学脇の青木堂へよって買い求めた。すぐに持参すると先生は待ちかねたという按配でボール箱のふたをあけるなり、さがしてみられたが、あてにしたのがない。独言のようにつぶやいて「シウクリームがないなあ」と失望されたのだった。私はいかにもきまりがわるく、だまっていた。私は青木堂の店へ出かけたのもはじめてであったし、西洋菓子を買うのも、何という名のものがあるのを知らなかった。実際都そだちだのに洋菓子を食った事のなかったほど世間と離れて育って来たのである。「シウクリーム」をまぜてなどと気の利いた註文をしようにも食べた事がなかったのである。然し、先生はそうは思われないで、注意がとどかず、あてがいぶちをくって買って来たと思いこまれての不機嫌であった。この注意がとどく、とどかぬは大切であるが、そのもとは多くは無知に因る。洋菓子のしくじりは後日長塚節君に話して、二人でシウクリームを食った。それから以後は必ずみやげ物にはシウクリームを買って来てくれた。
 四方太が子規のもとにシュークリームを届けたのは、明治32年11月24日のことでした。子規は四方太へのお礼の手紙に「翌々日君は突然と僕の蒲団の上に顔出した。それも嬉しい。すると烟草の筥から西洋菓子が出た。最うれしかった。これが「うれし会」の一日置いて次の日であったのも面白い。それを持て来た人が木綿着物の文学士であったのも面白い。シユーだとかフランスパンとか花火の音見たような名を聞きながら喰うたのもうれしかった。これを柚饅会の迎え菓子とでも称えて、これで余波が尽きたとする。しかし僕の心ではまだ余波があってもいいようだ」
 西洋料理店などで、西洋菓子を食べることはありましたが、それが販売されるのは、明治10(1877)年、両国若松町にあった米津風月堂から始まりました。この年の8月から10月までの間、上野公園で「内国勧業博覧会」が開かれ、風月堂は鳳紋賞の栄冠を得ました。翌年夏にはアイスクリームを販売し、年末にチョコレート、明治13年(1880)には英国から輸入した機械でビスケットがつくられています。明治17(1884)年に、米津風月堂の米津松造の息子・米津恒次郎がアメリカに留学。恒次郎は3年のアメリカ修行ののち、ヨーロッパに渡ってロンドンやパリに学び、明治23(1890)年に帰国します。
 米津風月堂の品目は、明治25(1892)年の「東京朝日新聞」広告に「キャンデー、ボンボン、リキュール、シュークリーム、プロムケーキ、マカロン、ビスキュイ、アイスクリームなど(『近代日本食文化年表』)」と載っています。子規垂涎のシュークリームは、のちに各地にできる西洋菓子店でも入手可能になりました。吉田菊次郎著『西洋菓子彷徨始末』に、シュークリームが日本にいつ頃登場したかという考察があります。明治20年代半ば頃にシュークリームが登場し、明治29年には、米津風月堂かシュークリームとエクレアをつくっていたとあります。





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最終更新日  2022.05.13 19:00:07
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