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垣を成す桑の木老いて実の多き(明治30) 子規の晩年、門人の長塚節より桑の実が子規のもとへ送られてきました。ほとんどが潰れてダメになっていました。子規は、次に送る時には、ブリキ缶に入れ、少し隙間を持たすように助言しています。しかし、子規は鬼籍に入ったため、次の年に桑の実が届くことはありませんでした。 拝啓 桑の実今朝到着 皆潰れてだめに相成候 しかし久しぶりにて少々味ひ申候 御厚意多謝 此種の物を郵送するには枝葉のまゝにて「ブリキカン」に詰めるを第一と致候 或は蕎麦抔まぜるもよろしかるべく候 多少の間隙なくては潰れ可申候(明治35年6月24 長塚節宛書簡) 節は、子規のもとにさまざまなものを送りました。子規の薫陶を受けた節は、和歌の研究と作歌にはげみ、子規没後も写生主義を継承した和歌をつくりました。写生文を発展させた小説『土』は、「東京朝日新聞」に連載され、多くの評価を得ています。 漱石も『土』の序文で、「長塚君の書き方は何処迄も沈着である。その人物は皆有の儘である。話の筋は全く自然である。余が『土』を『朝日』に載せ始めた時、北の方のSという人がわざわざ書を余のもとに寄せて、長塚君が旅行して彼と面会した折の議論を報じたことがある。長塚君は余の『朝日』に書いた『満韓ところどころ』というものをSの所で一回読んで、漱石という男は人を馬鹿にしているといって大いに憤慨したそうである。漱石に限らず一体『朝日新聞』の記者の書き振りは皆人を馬鹿にしておるといって罵ったそうである。なるほど真面目に老成した、ほとんど厳粛という文字をもって形容してしかるべき『土』を書いた、長塚君としてはもっとものことである。『満韓ところどころ』などが君の気色を害したのはさもあるべきだと思う。しかし君から軽佻の疑を受けた余にも、真面目な『土』を読む眼はあるのである。だからこの序を書くのである」と書きました。 漱石は、「余は元来が安価な人間であるから、大抵の人のものを見ると、すぐ感心したがる癖があるが、この『土』においても全くそうであった。先まず何よりも先に、これは到底余に書けるものでないと思った。次に今の文壇で長塚君を除いたら誰が書けるだろうと物色して見た。するとやはり誰にも書けそうにないという結論に達した」と褒めています。漱石はのちに「長塚君とわたしを結びつけたものは『ホトトギス』に出た君(くん)の佐渡の紀行文であった。わたしはそれを見ておもしろいと思ったので長編小説の寄稿を頼んだ」と書いています。
節が頼まれたことを意気に感じ、精魂を傾けて書いたのが、彼の代表作となった「土」でした。
最終更新日
2022.05.19 19:00:07
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