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カテゴリ:正岡子規
岡の茶屋に駄菓子くふ日や昼霞(明治30) 明治28(1895)年12月9日、子規は高浜虚子を道灌山の茶店に誘いました。 ヘルメット帽をかぶり、不機嫌そうな子規が「少し学問ができるかな」と聞くと、虚子は「足は学問をする気はない」と答えました。すると、子規は「お前を自分の後継者として強うることは今日限り止める」と怒りました。虚子は続けて「自分の性行を曲げることは私にはできない」と答えたといいます。 この年の7月24日、従軍で喀血した子規の看病を終え、須磨療養所を後にする高浜虚子に、子規は「幸いに自分は一命を取りとめたが、しかし今後幾年生きる命かそれは自分にも判らん。……そこでお前は迷惑か知らぬけれど、自分はお前を後継者と心に極めておる(『子規居士と余』)」と語りました。 子規は、虚子を後継者とするため、学問をするよう諭していたのでした。子規の「学問ができるかな」という言葉は、虚子に後継者としての準備はできているかと尋ねるものだったのです。 虚子は、須磨で突然言われた子規の後継者任命に重い負担と窮屈さを感じていました。虚子は「居士の親近者であることが、決して後継者としての唯一の資格ではなかったのである。現に今日に於てこれを見ても居士の後継者は天下に充満しているのである(『子規居士と余』)」と書いていますが、生真面目な虚子は後継者になることを重く捉えすぎていました。子規の申し出を断った時、「同時に束縛されておった縄が一時に弛んで五体が天地と一緒に広がったような心持がした」と書いています。 子規が最期の息を引き取ったときに母親の八重がいいました。「升は一番清さんが好きであった。清さんには一方ならんお世話になった」という言葉のように、子規が頑張って築いた俳句の道を、信頼できる虚子が後世に繋げてくれるだけでいいという意味だったのではないでしょうか。 道灌山の茶店の婆が出した大豆を飴で固めたような駄菓子を、子規は虚子に「おたべや」と勧め、自分もひとつ口に入れたといいます。自らがつくった俳句を継承することは、駄菓子のようなものかもしれないが、食べてみなければわからないだろうという、そんな子規の暗喩を感じます。 駄菓子は、高級菓子に対比する言葉で、一文菓子ともいいました。雑穀や水飴、ぎょうせん(麦芽)飴の類いを使った豆菓子や煎り菓子など、庶民に愛された菓子でした。 明治32(1899)年、子規は人力車で道灌山を訪ねます。道灌山からの平野を一望し、「上りて見れば平野一望黄雲十里このながめ廿八年このかた始めてなり(『道灌山』)」と感想をもらしています。そして、胞衣神社の前の茶店に憩い、柿を食べました。 虚子との別れで駄菓子を買った駄菓子屋は、昔より荒れはてていました。「この坂は悪き坂なり赤土に足すべらせそ我をこかしそ」という歌を詠みましたが、それは後継者を失った思い出を詠んでいたのかもしれません。 道灌山は、日暮里にある高台で、太田道灌が築いた城とも、鎌倉時代の豪族・関道閑の屋敷があったともいいます。江戸時代には、薬草の採集地や、虫の音の名所としても知られていました。西に富士山、東に筑波山が眺められたこの高台は、現在、開成学園のグラウンドになっています。
最終更新日
2022.05.21 19:00:06
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