2503462 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

プロフィール

aどいなか

aどいなか

カレンダー

バックナンバー

2024.04
2024.03
2024.02
2024.01
2023.12

カテゴリ

日記/記事の投稿

コメント新着

ぷまたろう@ Re:子規と木曽路の花漬け(09/29) 風流仏に出でくる花漬は花を塩漬けにした…
aki@ Re:2023年1月1日から再開。(12/21) この様な書込大変失礼致します。日本も当…
LuciaPoppファン@ Re:子規と門人の闇汁(12/04) はじめまして。 単なる誤記かと拝察します…
高田宏@ Re:漱石と大阪ホテルの草野丈吉(04/19) はじめまして。 大学で大阪のホテル史を研…
高田宏@ Re:漱石の生涯107:漱石家の書生の大食漢(12/19) 土井中様 初めまして。私は大学でホテル…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2022.05.30
XML
カテゴリ:正岡子規
   うつくしきが中に菱餅絵蝋燭(明治30)
 
 子規は、明治31年12月発刊の「ホトトギス」に掲載した『わが幼児の美観』で、ひな祭り、七夕を「一年のうちにてもっとも楽しく嬉しき遊びなりき」と挙げ、「昔より女らしき遊びを好みたるなり」と懐かしんでいます。
 
 七、八つの頃には人の詩稿に朱もて直しあるを見て朱の色のうつくしさに堪へず、われも早く年とりてああいうことをしたしと思いしこともあり。ある友が水盤というものの桃色なるを持ちしを見ては、そのうつくしさにめでて、彼は善き家に生れたるよと幼心に羨みしこともありき。こればかり焼け残りたりという内裏雛一対、紙雛一対、見にくく大きなる婢子(ほうこ)様一つを赤き毛氈の上に飾りて三日を祝う時、五色の色紙を短冊に切り、芋の露を硯に磨りて庭先に七夕を祭る時、これらは一年のうちにてもっとも楽しく嬉しき遊びなりき。いもうとのすなる餅花とて正月には柳の枝に手毬つけて飾るなり、それさえもいと嬉しく自ら針を取りて手毬をかがりしことさえあり。昔より女らしき遊びを好みたるなり。(わが幼児の美観)
  
 3月3日は、ひな祭り、桃の節句ですが、愛媛では4月3日に行われます。
 江戸幕府は式日として「五節供」を定めました。1月7日の七草の節供、3月3日の桃の節供、5月5日の菖蒲の節供、7月7日の七夕の節供、9月9日の菊の節句がそれにあたります。これら、節句の行事は、もともとは宮中の儀式でしたが、室町時代になると武家に広がり、江戸時代になると庶民の間にひな祭りが広まります。桃の木は、悪魔を打ち払う神聖な木とされます。桃のパワーは、孫悟空の桃のエピソードや、日本神話で黄泉の国で悪鬼を退散させるのに桃を使ったり、桃太郎など、生命のシンボルとして伝えられてきました。
 ひな祭りは、古代中国で行われていた3月の最初の巳の日に川に入ってけがれを落とす「上巳節(じょうしせつ)」という行事を基にしています。これは、奈良時代・平安時代に行われていた、3月3日の「曲水の宴」「ひひな遊び」に形を変えました。「曲水の宴」とは、曲がりくねった流水のほとりに座り、酒のはいった杯を水に浮かべ、杯が通り過ぎないうちに歌を詠まなければならないというものです。このときに桃の花を添えて白酒を飲んだともいいます。「ひひな遊び」とは、貴族の幼女に人形や調度を飾る遊びです。併せて、桃の節句の時期に野外に出かけて草をつむ「河原遊び」や海草を採る「磯遊び」などが行われました。このときに、人形を川に流すこともありました。これが「流しびな」となり、子どものけがれを人形に移して流すという信仰から来ています。ひな祭りは、もともとは紙の人形でしたが、江戸時代の女帝・後桜町天皇(1762~70)のころから装飾性を帯び、きらびやかになっていきました。
「ひな人形を節句が過ぎたらしまわないといけない。そうしないと、婚期が遅れる」とよくいわれます。3月3日にひな人形を贈る風習が始まったのは室町時代で、人形を枕元においてけがれを移し、翌日、寺に奉納しました。つまり、ひな人形をけがれたままにしてしまわないと、けがれが残ってしまいますよという伝承なのです。
 ひな祭りの食べものとして食べられるのは「菱餅」です。「菱餅」が登場するのは江戸時代になってからで、それ以前にはよもぎ餅が使われていました。また、貝料理が使われるのは、「磯遊び」の名残もあるのですが、二枚貝であるハマグリや赤貝は、他の貝とでは合わないことから貞操の象徴でもありました。
 
 愛媛では、ひな祭りの時に食べられるのは「醤油餅」や「りんまん」です。ただ、どちらも今ではひな祭りにこだわらず食べられています。
「醤油餅」は、松山初代藩主である松平定行の父・定勝が、慶長年間(596~1615)のひな祭りの日に、子孫繁栄を願って五色の餅をつくらせ、家臣に分け与えたのがはじまりといいます。ユズの「黄」、ノリの「青」、しょうゆの「茶」、ショウガの「桃」、砂糖の「白」の五色でしたが、そのなかで醤油をつかう餅が人気となり、「醤油餅」と呼ばれるようになりました。
 上新粉に砂糖、醤油、ショウガ汁をあわせて湯でこね、耳たぶほどの柔らかさにして蒸すと、醤油のほのかな香りとかすかなショウガの旨味がコシのある餅によく似合います。大洲地方では、その形から「墨形」ともいい、江戸時代の料理書『古今名物御前菓子秘伝抄』には、「墨形」として「うるち米の粉に白砂糖を入れ、味噌溜り(醤油)に熱く煮た水を加えて固くこねる。平らに伸ばし、中に胡桃を刻んで巻き込み、蒸籠で蒸し、煮立てておいた溜りにひたして色をつけてからまた蒸す」と「しょうゆ餅」と同様の製法が記されています。店によっては、餡のはいったものもあります。
「りんまん」とは、上新粉でつくった餡入り餅の上に赤、黄、緑の米粒を飾ったもので、「醤油餅」と同様にひな祭の菓子です。
 松山には、徳川中期に松山に住んでいたという朝鮮の林さんが広めたという伝承が残っています。確かに、加藤嘉明が松山を治めた時代には、文禄・慶長の乱で捕虜となった朝鮮人を唐人町に住まわせていました。しかし、この伝承には疑問が残ります。
「りんまん」に似た祝い菓子に松江地方の「ひな餅」があります。これは、米粉の生地で餡を包み、赤、黄、緑の色を加えて亀や蝶、花の形に蒸しあげたもので、五色の彩りもよく似ています。この色は、陰陽五行に関係する祝い菓子なのです。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2022.05.30 19:00:09
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.