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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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カテゴリ:正岡子規
   花咲くや彼岸へいそぐ渡し守(明治23)
 
 明治34年9月24日の『仰臥漫録』には、餅のお土産が続いた事が記されています。
 
 朝、歌原大叔母御来らる。お土産、餅菓子。
 陸より自製の社丹餅をもらう。こなたよりは菓子屋に誂えし社丹餅をやる。菓子屋に誂えるは宜しからぬことなり。されど衛生的にいわば、病人のうちで拵たるより、誂える方宜しきか。何にせよ、牡丹餅をやりて牡丹餅をもらう。彼岸のとりやりは馬鹿なこと也。
   お萩くばる彼岸の使行き逢ひぬ
   梨腹も牡丹餅腹も彼岸かな
   餅の名や秋の彼岸は萩にこそ
高橋より幸便に信州の氷餅を贈り来る。(仰臥漫録 明治34年9月24日)
 
 この日の朝は、歌原家より餅菓子が届きました。歌原家は大原観山の妻・重の実家で、子規の再従兄の三並良の生家です。柳原極堂の『友人子規』には「観山の室すなわち八重の聖母は名をしげといい、これも藩の漢学者歌原松陽の女にて、松陽は寒山が少年時代の師である」と書かれています。大叔父に当たる歌原良七は、高浜虚子の父・池内信夫とともに松山藩の能楽の保存につとめ、東京に住みましたが明治26年に没しています。歌原蒼苔は、次男の誠の長男・恒で、上京して明治義会中学校・一高に学び、のちに一高を中退しました。蒼苔は、藤野古白に俳句を学び、子規から、「蒼苔も昨年中に著しく進歩す。その句奇抜なるものまたは実景を写して新鮮なるもの多し」と評されています。
 蒼苔は、のちに松山中学校に奉職し、日露戦争に派兵したのち朝鮮に移住、農園経営を行いながらも大邱府立図書館主任をつとめています。
 
 隣の陸家からおはぎ(牡丹餅)をもらい、そのお返しに正岡家が菓子屋で誂えたおはぎを返しています。こうした、おはぎのやり取りは、小豆に対する信仰によるもので、小豆には魔・厄災を除く働きがあるとして、お彼岸などに食べられてきました。西方浄土を願うからこそ、おはぎを食べ、親しい家同士でおはぎのやり取りをして、互いの家の無病息災を願いました。子規はこのことを「彼岸のとりやりは馬鹿なこと也」と断じています。26日にも「午後家庭団集会を開く。隣家よりもらいしおはぎを食う」とあり、もらったおはぎを一家で食べたものと考えられます。
 この日、信州の「氷餅」が送られてきました。
「氷餅」は「凍み餅」ともいい、安曇野・松本・諏訪あたりの名物です。冬の間、水をかけた餅を外につるして凍らせ、水分がなくなるまで乾燥させたもので、春の始め頃から食べられるようです。9月では、とっくに氷餅の時期は過ぎているのですが、珍しいからと送られてきたようです。
 この「氷餅」は、そのままお茶うけとしても食べられますが、お湯で戻したドロッとした餅に砂糖やハチミチで甘さを加えて、おやつ感覚で食べます。また、水に戻した餅を油で揚げたり、葛湯のように煮溶かしたりもします。元禄年間、アルプスからの寒風が吹き下ろす大町に住んでいた伊藤某が偶然考え出したものといい、いわゆる「凍み大根」や「凍み豆腐」と同じく、信州の自然を利用して材料を保存させる目的でつくられたものです。まるでフリーズドライの先駆けのようです。
 子規は、「氷餅」の味をどのように感じたのでしょうか。





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最終更新日  2022.06.03 19:00:09
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