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カテゴリ:正岡子規
山姥の力餅賣る薄かな(明治25) 明治23年7月1日、子規は故郷の藤野古白に会うため、五度目の帰省をしました。三並良、小川尚義とともに新橋を出発すると、勝田明庵(主計)、天岸一順も同車していたのです。清水の江尻に着いたのは正午の頃。人力車に、この辺りで一番いい旅館を尋ねると「大ひさしや」だといわれます。雨も降りはじめたので、一行はここに泊まることに決めました。 2日は、人力車で三保の松原を訪ねましたが雨模様です。正午の汽車にのって大垣に着き、市内第一の旅館といわれる「玉亭」に泊まります。 3日も大雨でした。尚義が「養老の滝が引っ張っているように思う」といいます。子規は「養老の滝から糸をお前の身体につけ、しゃくっておるのに違いない(しゃくるとは糸を手で断続的に引く意の伊予弁)」と応えました。結局、養老の滝の観光を諦めますが、「しゃくられ」の語感と言葉の意味を捨てきれず、子規は紀行に『しゃくられの記』の題名をつけました。 子規らは、豪雨になってはいけないと思い、大阪までの切符を買って、車中で桃、パン、枇杷などを食べながら、関ヶ原を経て草津に至ります。草津駅に止まったとき、「姥が餅」を買いました。「直径五分(約1.5センチ)くらいの円型の餅で、上にあんがついています。その上に三角錐体とでもいうような形の白砂糖のかたまりのようなものが載せてある菓子なのですが、子規は気に入利ませんでした。 「姥が餅」は草津の名物で、上に白あんをのせた指頭大のあん餅です。文化11(1814)年に刊行された『近江名所図会』には、織田信長に滅ぼされた佐々木義賢(六角承禎)の子孫が近江の郷代官のようなことをしていましたが、ある問題が起きて罪を受けて殺されることになります。3歳になる息子を「この子をかくし育ててくれ」と姥(乳母)に託したところ、姥は餅を売って生計を立てました。その甲斐あって、姥は小さな店を開くことができ、姥がつくった餅なので「姥が餅」と呼ぶようになりました。こしあんの上の白あんは、乳房を表現しているといいます。 おかげ参りで賑ったお伊勢参りでの、桑名から山田までの参宮街道は別名「餅街道」といわれました。道中名物としても数々の餅が残っていますが、その中でも「姥が餅」はは飛び抜けた知名度を誇りました。広重、北斎の浮世絵にも描かれています。
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最終更新日
2022.06.09 19:00:06
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