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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2022.06.21
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カテゴリ:夏目漱石
 うしろには畳一枚ほどの大きな絵がある。その絵は肖像画である。そうしていちめんに黒い。着物も帽子も背景から区別のできないほど光線を受けていないなかに、顔ばかり白い。顔はやせて、頬の肉が落ちている。
「模写ですね」と野々宮さんが原口さんに言った。原口は今しきりに美禰子に何か話している。――もう閉会である。来観者もだいぶ減った。開会の初めには毎日事務所へ来ていたが、このごろはめったに顔を出さない。きょうはひさしぶりに、こっちへ用があって、野々宮さんを引っ張って来たところだ。うまく出っくわしたものだ。この会をしまうと、すぐ来年の準備にかからなければならないから、非常に忙しい。いつもは花の時分に開くのだが、来年は少し会員のつごうで早くするつもりだから、ちょうど会を二つ続けて開くと同じことになる。必死の勉強をやらなければならない。それまでにぜひ美禰子の肖像をかきあげてしまうつもりである。迷惑だろうが大晦日でもかかしてくれ。
「その代りここん所へかけるつもりです」
 原口さんはこの時はじめて、黒い絵の方を向いた。野々宮さんはそのあいだぽかんとして同じ絵をながめていた。
「どうです。ベラスケスは。もっとも模写ですがね。しかもあまり上できではない」と原口がはじめて説明する。野々宮さんはなんにも言う必要がなくなった。
「どなたがお写しになったの」と女が聞いた。
「三井です。三井はもっとうまいんですがね。この絵はあまり感服できない」と一、二歩さがって見た。「どうも、原画が技巧の極点に達した人のものだから、うまくいかないね」(三四郎 8)
 
『三四郎に登場するこの絵は、和田英作が模写したベラスケスのマリアナ公女だといわれています。
 確かに「もっとうまいんですがね。この絵はあまり感服できない」といえる出来栄えです。
 
 漱石はあまり和田英作の作風が好きではないようで、『文展と芸術』では「石黒男爵肖像」「H夫人肖像」を俎上に置き、ナスの絵とか、義理で描いたようだと酷評しています。英作は、ヨーロッパから36年に帰国すると、東京美術私学校の教授となり、のちに校長となっています。
 
 先ず一番に和田君の描いた石黒男爵の肖像について所感を述べたい。決して悪口をいう積でなく、ただ感じた通りを自白すると、男爵の顏は色の悪い唐茄子に似ている。もっとも男爵の顔を横から見れば多少唐茄子らしい所があるのかも知れないから、これは画家の罪とばかりはいえない。しかし男爵の顏が粉を吹いているに至っては、いよいよ唐茄子らしくなるとならないとに論なく、和田君の責任である。いからざれば光線の責任であるが、どうもこうではないらしい。和田君はH夫人というのをもう一枚描いている。これも男爵同様はなはだ不快な色をしている。もっとも窓掛や何かに遮ぎられた暗い室内のことだから光線が心持よく通わないのかも知れない、が光線が暗いのでなくって、H夫人の顔が生れ付暗いように塗ってあるから気の毒である。その上この夫人はいやだけれども義理に肖像を描かしている風がある。でなければ和田君の方で、いやだけれども義理に肖像を描いてやった趣がある。自分は何方か知らないが、隣りにマンドリンを持ってきている山下君の女を見た時、猶々そういう感じを強くしたのである。山下君の女は愉快にそうして自然に寐ている。眼をねむっている癖に潑溂と動いている。生き生きとした活力を顏にも手にも身体にも蓄わえたまま、静かに横たわっている。自分は彼女の耳の傍ヘ口を付けて、彼女の名をささやいてみたい。しかし眼を開いてこっちを向いているH夫人にはかえって挨拶する勇気が出ない。(文展と芸術 10)
 
 漱石は、美術界との接点も早くからあったようです。ただ和田英作との手紙のやり取りは見当たらず、明治42年4月21日の日記の中の来信に「漫遊画集展覧会の展覧会」というのがあり、矢崎千代二の名前と発起人として黒田、和田、岡田の名前が並んでいます。黒田は黒田清輝、和田は和田英作、岡田は岡田三郎助ではないかと思います。
 
 矢崎千代二は東京美術学校を卒業していて、明治37年からセントルイス万博事務局員として渡米し、アメリアで腕を磨いてからヨーロッパのパリ、ベルギー、ドイツ、オランダ、ロンドンを歴訪して明治42年に帰国しています。欧米で書きためた絵を見ていただこうという試みだったようです。
 千代二は、大正時代になってから油絵からパステル画に筆を持ち替え、世界中を写生して回りました。日本人でパステル画を書き始めた先駆者です。





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最終更新日  2022.06.21 19:00:05
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