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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2022.06.22
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カテゴリ:正岡子規
   枇杷の實の僅に青き氷柱哉(明治31)
 黄色く色づいた枇杷の実が、スーパーや八百屋などに並ぶ季節になりました。枇杷は、古くから日本で栽培されていた果実で、温暖な気候のもとに育ちます。ただ、「枇杷を植えると貧乏になる」とか「枇杷を屋敷に植えると病人が絶えない」ともいう俚諺があり、あまり縁起のいい食べものではありません。かつては庭に植えることを避けられた果樹でしたが、これは枇杷が湿地を好むこと、すぐに枝を広げて日当たりを悪くすることから、こういわれたのでした。
 
 この枇杷を病床の子規に届けたのが、のちに「少年小説」の分野で圧倒的な支持を誇るようになる佐藤紅緑でした。明治29(1896)年6月24日、紅緑は、河東碧梧桐と一緒に子規庵を訪ね、枇杷を持参したのです。紅緑は、「子規を喜ばせる第一の妙薬は佳句を多くつくって先生の閲覧を乞うこと」だといいます。この時は、子規への暇乞いのため、俳句は持って行かなかったのでしょう。枇杷を手土産に子規を訪れると、ほとんどの枇杷を子規が平らげてしまいました。
 
 その時黒門町の八百屋で初めて枇杷を見た。二人の嚢(ふくろ=財布)を傾けると漸く二十銭あった。それで枇杷を買って持って行くと先生は珍らしい珍らしいと言って大方一人で食べてしまった。
   枇杷の実を食うて別るゝ今日もあり 碧梧桐
 この短册は不思議に今も僕の手許に残っている。一度碧梧桐君に見せたい。(佐藤紅緑著『糸瓜棚の下で』)
 
 紅緑は、明治7(1974)年、に青森・弘前に生まれました。父親の弥六は、幕末に福沢諭吉の塾で学び、帰郷して産業振興に尽くし、いち早くリンゴ栽培などを手がけた人物です。紅緑は、弘前中学校を4年で中退し、明治26(1893)年に上京して遠縁にあたる郷里の大先輩の陸羯南(くがかつなん)を尋ねて、書生となりました。翌年、陸の日本新聞社に入り、七歳年上の子規と机を並べることになりました。また、紅緑というペンネームをつけたのも子規で、字の下手さからいつも子規に叱られていました。
 紅緑は高浜虚子・碧梧桐・石井露月と並んで、子規門下の四天王とまでいわれます。明治28年に病気のために帰郷しますが、やがて病も癒えて、翌年に東北日報社の主筆として活躍。明治33(1900)年には上京して報知新聞社に入り、のちに文筆生活を始めたのでした。
 紅緑は、糟糠の妻・はるを捨て、女優のシナと一緒になったことで、世間の批判を浴び、多感な息子たちの多くは不良となって、不幸な死を遂げてしまいます。しかし、残されたハチローは詩人、佐藤愛子は直木賞作家となりましたが、紅緑は不良息子たちが残した負債を、払い続けなければなりませんでした。
 
 紅緑がしたためた日本新聞時代の子規を見てみましょう。
 
 余の上京したのは明治26年の春で羯南先生の玄関番を勤めておったのである。ところが余は当時は空想にかられて文学というものの、趣味には注意もせねば研究したこともない……誰か親切に教えてくれる人はなかろうかと相談するとこの向かいに正岡という社(日本新聞社)に勤めている人がある、その人に願えばよかろう、ということであった。それは幸いだと喜んでみたが、さてその正岡という人は奥州の方を旅行中でいつ帰るかわからぬというのでそのままになってしまった。しかし肺病で血を吐いて自ら子規と号したこと、書はなかなか上手に書けること、社の方では何をさしても立派に書くことなどわかった。それから秋の夕暮れの頃である。書生部屋に灯をつけようと思っていたら、玄関に案内を乞うものがいる。薄暗い中に立っていたのは肩の幅が広く四角で丈はあまり高くない顔は白く平ったい方の人間である。余の案内も待たずのこのこ中に入ろうとしている。この家に来る客の中で案内なしに入るのは、青崖氏たった一人であるのに今またこんなへんてこな人が一人殖えたと驚いて、名前を聞いたら、正岡ですとハッキリ答えた。ちょうど向かいの住人、余が教えを乞うべき人とは急に気がつかなかった。……
 
 当時の正岡君はどうであったかというに、極めて無頓着な粗暴な、構わぬ方で四十懐手でその懐には買卜者のごとく古書やら反古やらを食(は)みだしたままに詰め込んでいる。紫色の毛糸の襟巻き、この襟巻のかけようは一種不思議で、このために襟が寒からぬようにするには今少しく頸(くび)に密着せねばならぬ、しかもむしろ汚らしい誇りじみた襟巻で、単に両肩にくねらしたというに止まるのである。それに兵児帯が緩いかして始終腹が見ゆるばかりにぐだぐだとしている。それに踵(かかと)がぶっつかるほどの大きなまな板下駄を引き摺るようにガラアリガラアリと歩行いている。編集局で何か書いている時には、左の手で肩にヤゾウ(懐手をして握りこぶしを作り、肩をつき上げるようにした恰好)をこしらえて右の方を机に凭せるようにしている。ちょっと筆が絶ゆる時には顔を斜めに左の方を向いて考えている。大食にはなかなかの剛の者で、君の原稿用紙の存するところに必ず焼芋、蜜柑、菓子を見るのである。(佐藤紅緑著『子規翁』)





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最終更新日  2022.06.22 19:00:06
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