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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2022.07.02
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カテゴリ:夏目漱石
 漱石の日常シリーズ4冊目になる『ハイカラ漱石』が、7月1日からAmazonで発売となりました。
 漱石のおしゃれに関する一冊です。
 まえがきをブログに掲載しますので、興味のある方は是非ご購入を。
 目次は​こちら​です。
 
漱石は正真正銘のハイカラ
「ハイカラ」の元々の意味は、「高襟」のことです。欧米から帰ってきた政治家や官吏が、揃いも揃って丈の高い襟のシャツを着ていたことから、西洋文化にかぶれた欧米帰りの人を指すようになりました。「ハイカラ」という言葉の中には「キザ」や「生意気」「半可通」「主体性がない」といった意味を含んでいます。
「ハイカラ」を使いだしたのは毎日新聞の石川半山でしたが、一般に浸透するまでには至りませんでした。この言葉が一気にブレイクするのは、明治33(1900)年8月10日、築地のメトロポールホテルで歴史家・政治家であった竹越与三郎の洋行送別会が催された際、来客の外交官・小松緑が「ハイカラ」と洋行帰りの人々を嘲笑するけれど、揶揄している半山自身もまたハイカラーを着用しているではないかと演説で笑いを取りました。そのことを新聞各社がこぞって取り上げたために「ハイカラ」が知れ渡り、一般の人たちも使い出すようになったのです。
 また「軽佻浮薄」の面を強調するために、形だけで中身のない「灰殼|」という字をあてた記事も登場しています。
 
 ロンドンに来た日本人たちの軽薄さを漱石も感じていました。明治34(1901)年1月5日の日記には「みだりに洋行生の話を信ずべからず。彼らはおのれの聞きたること、見たることをuniversal case(普通のこと)として人に話す。あにはからん。その多くはみなparticular case(個別のこと)なり、また多き中には法螺を吹きて、いやに西洋通がる連中多し。彼等は洋服の嗜好流行も分らぬくせに、己れの服が他の服より高きゆえ、時好に投じて品質最も良好なりと思えり。洋服屋にだまされたりとはかつて思わず。かくの如きものを着て得々として他の日本人を冷笑しつつあり。愚かなることおびただし」と、物見遊山で欧米にやってきた人々を非難しています。
 
 二年間の惨憺たるロンドン生活の思い出を携えて帰国した漱石は、ロンドン仕込みの「高襟」を着こなしていました。第一高等学校と東京大学文科大学の講師として教壇に立つ漱石は、小宮豊隆の『休息している漱石』によれば「ひどくハイカラで、諸先生の中に異彩を放っていたようである。今日流布している写真の先生は、髭を短く刈り込んでいるが、当時の先生は、カイゼル髭ほど極端なものではなかったとしても、房房と生えた真黒な髭の両端をぴんと刎ね上げ、ひどく気取った風采をしていた」と懐述しています。
 門人の森田草平もまた『続夏目漱石』の「三座談の巧さと江戸っ子」のなかで「先生は{英吉利を嫌っていられたけれども、倫敦仕込みだけに、何といっても洋服はちゃんと身に合った、きちんとしたものばかり着ていられた。とにかく、洋服については大分注文が難しかったらしい。これは倫敦仕込みというよりは、先生の江戸っ子気質がそれを要求したものとみておいてよかろう」と記しました。
 
「ハイカラ」が流行語となった頃には、否定的な意味合いが強かったのですが、次第に「おしゃれ」「進歩的」「優美」「流行の先端」といった肯定的な意味に変じていきました。漱石作品にも、そのことが顕著に表れています。
 
『吾輩は猫である』では「ハイカラの首実検(3)」「いいえ、ただ婦人会だから傍聴に来たの。本当にハイカラね。どうも驚ろいちまうわ。(10)」「あすこの娘がハイカラで生意気だから艶書を送ったんです。(10)」「元をただせば金田令嬢のハイカラと生意気から起ったことだ。(10)」。『坊っちゃん』では「君子を陥しいれたりするハイカラ野郎(9)」「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴(9)」と、皮肉と軽蔑の要素が含まれています。
 ところが漱石の朝日新聞入社第一作の『虞美人草』になると「藤尾さんのようなハイカラの傍へ持って行くとすぐ軽蔑されてしまう。(11)」「そんなハイカラな形姿をして、大きな紙屑籠なんぞを提げてるから妙なんだよ。(14)」「外交官の妻君にはああいうハイカラでないと将来困るからといったのさ。(16)」。『それから』では「浪人とは誰にも受け取れないくらい、ハイカラに取り繕ろっていた。(8)」「平岡さんは思ったよりハイカラですな。あの服装なりじゃ、少し宅の方が御粗末過ぎる様です(8)」。『彼岸過迄』では「今頃{流行|はや}るハイカラな言葉をすぐ忘れちまって困るが……*(報告7)」「千代子というハイカラな有毒の材料が与えられたのを憐れに眺めた。(須永の話30)」。『行人』には「『ハイカラよ』お重の澄ました顔には得意の色が見えた。(塵労11)」、「兄さんの話は西洋人の別荘や、ハイカラな楽器とは、全く縁の遠いものでした。(塵労50)」。『こころ』では「玉突だのアイスクリームだのというハイカラなもの……(先生と私1)」、「私はその時分からハイカラで手数のかかる編上を穿いて……(先生と遺書26)」。『道草』では「見てご覧なさい、きっと嬉しがってよ。延子さんはハイカラだって。(48)」、『明暗』では「唐物屋の店先に飾ってあるハイカラな{襟飾|ネクタイ}を見た時……(155)」と、どんどん「ハイカラ」がプラスのイメージに変化しているところを見ることができます。
 
 漱石は、明治39(1906)年の「断片」に次のように書きました。
 
 服装などに好みのある人がかえって「ハイカラ」に見えずして、そっちにあまり興味なき人がかえってハイカラに見えることあり。これはこんな訳である。前者はいかに凝ったなりをしてもそれをよく着こなしている。後者はさほどに品物を選ばざるにも関わらず、己れが着けたものをこなしておらん。だから一方は自然に見えて、一方は不自然に陥る。言を換えていえば、前者は厳密なる嗜好の試験に及第せるもののみならず、あつめて身につけているにもかかわらずその選択の際の苦心や、愉快や、自慢に拘泥しておらん。あたかも裸体でいると一般の心持ちでいる。しかるに他はさほどにやかましく衣装道具を詮議立てをせぬくせにどこへ行っても、いつまでも己れの服装に拘泥しておる。百姓が大礼服をつけたようなものである。
 して見るとハイカラという語はちょっと考えると服装だけできまるようであるが一歩進んで考えるとこれは当人の気の持ちよう。心の態度である。
 
 漱石のおしゃれは自然体を貫き、自己本位を実現するために必要なものなのかもしれません。
 
漱石のおしゃれな家系
 漱石門人の小宮豊隆は『休息している漱石』で「生れた家が、痩せても枯れても、名主という、相当派手な暮しをしていた家であったということ、そうして親類には遊女屋があり、姉さんだの兄さんだのの住んでいた世界が、そういう空気の濃厚に漂っている世界だったということ、そういうことが見えない因果の糸となって、ここに尾をひいているせいもあるかも知れない」と漱石のおしゃれについて書いています。
 
 漱石の家は名主でしたので、江戸時代には羽振りのいい暮らしができました。漱石は姉たちの芝居見物の話を聞き、まるで夢の中のような出来事だと感じていたのです。
 しかし、漱石が塩原家に養子に出された翌年に名主制度は廃止となり、父の小兵衛直克は府庁や警視庁に職を求めて転々とし、しかも詐欺師に騙されて家の財産をなくしてしまいます。漱石が養子先から夏目家に戻った頃、夏目家の屋台骨はすでに傾きつつあったのでした。
 
 母・千枝の次姉・久は、内藤新宿の遊女屋「伊豆橋」を養子の夫ともに営んでいました。「伊豆橋」は、内藤新宿でも一・二を争う旅籠屋、つまり遊女屋でした。また、長姉の佐和が嫁いだのは「伊豆橋」の跡を継いだ福田家で、しかも、漱石の養父・塩原昌之助が管理していたこともあるという、ややこしい関係です。
 そのため、漱石の兄たちは遊女のいる家に遊びに行く機会は四六時中にありました。
 漱石の次男・伸六の『父・夏目漱石』によれば、神楽坂にあった次姉・房の嫁いだ高田庄吉の家の筋向かいの芸者屋が「**ご神灯を軒先にぶらさげた東家」で、姉の家にのべつ出入りしていた次兄の栄之助は「竹格子の窓の内側から、向いの東家へ出入りする芸者達を呼びとめたり、からかったりして、遊んでいたのだという(父の家族と道楽の血)」と書かれています。
 この「東屋」は、『硝子戸の中』にも出てきます。
 
 私はその東家をよく覚えていた。従兄の宅のつい向いなので、両方のものが出入りのたびに、顔を合わせさえすれば挨拶をし合うぐらいの間柄であったから。
 その頃従兄の家には、私の二番目の兄がごろごろしていた。この兄は大の放蕩もので、よく宅の懸物や刀剣類を盗み出しては、それを二束三文に売り飛ばすという悪い癖があった。彼が何で従兄の家に転がり込んでいたのか、その時の私には解らなかったけれども、今考えると、あるいはそうした乱暴を働いた結果、しばらく家を追い出されていたかもしれないと思う。その兄のほかに、まだ庄さんという、これも私の母方の従兄に当る男が、そこいらにぶらぶらしていた。(硝子戸の中17)
 
 この「東屋」は、「伊豆橋」の跡を継いだ福田家が所有していた家でした。
 まさに夏目家は、こうした遊郭の世界に深く入り込んでいて、漱石もまたこうした雰囲気を肌で感じていたのです。
 
 おしゃれや絵画は、幼い頃から本物に触れるということが大切だといわれます。同様に粋の世界も肌で感じていないと、本当のところはわかりません。漱石は、こうした家庭環境であったため、着物の粋な着こなしを知らず知らずのうちに覚え、次第におしゃれになっていったのでしょう。
 
コンプレックスはおしゃれの原動力
 漱石は、「アバタ」と「低身長」という二つのコンプレックスを抱えていました。
 明治3(1870)年4月24日、明治政府は種痘の全国実施を定めました。その翌年(荒正人の『漱石研究年表』ではこの年)に種痘を受け、それが原因で漱石の顔にはアバタが残ってしまいます。
『吾輩は猫である』には「主人はこの功徳を施こすために顔一面に疱瘡を種え付けたのではない。これでも実は種え疱瘡をしたのである。不幸にして腕に種えたと思ったのが、いつの間にか顔へ伝染していたのである。その頃は子供のことで今のように色気もなにもなかったものだから、痒い痒いといいながら無暗に顔中引き掻いたのだそうだ。ちょうど噴火山が破裂してラヴァが顔の上を流れたようなもので、親が生んでくれた顔を台なしにしてしまった。(9)」とあり、『道草』には「彼はそこで疱瘡をした。大きくなって聞くと、種痘が元で、本疱瘡を誘い出したのだとかいう話であった。彼は暗い櫺子のうちで転げ廻った。惣身の肉を所嫌わず掻きむしって泣き叫んだ。(39)」と記されています。
 
 猫は、苦沙弥先生のアバタを気にする仕草を見て「主人は見性自覚の方便としてかように鏡を相手にいろいろな仕草を演じているのかも知れない。すべて人間の研究というものは自己を研究するのである。天地といい山川といい日月といい{星辰|せいしん}というも皆自己の異名に過ぎぬ。自己を措いて他に研究すべき事項は誰人にも見出し得ぬ訳だ。もし人間が自己以外に飛び出すことが出来たら、飛び出す途端に自己はなくなってしまう。しかも自己の研究は自己以外に誰もしてくれる者はない。(9)」と語り、鏡を覗くのは同時に自己愛の表現でもあると診断しています。
もうひとつのコンプレックスは低身長
 漱石の身長は、松山中学から熊本第五高等学校への赴任の際に、広島県の宮島にある旅館「岩惣」の宿帳に記された身長「五尺三寸」という記述から159センチ(157センチとも)といわれています。ただ、この時に一緒に泊まった高浜虚子も同じく「五尺三寸」と書かれ、筆跡も一緒。つまり、宿屋の誰かが代筆したものかもしれません。
 また、明治22年3月9日に第一高等中学校で実施された体格検査では、漱石の身長は1・587メートル、体重13・950貫で、キロに直すと52・31キロとなります。ベルツによると、この「五尺三寸」というのは当時の日本人成人の平均身長でした。
 
 漱石が自分の身長が低いと自覚するのはロンドン留学時代です。『倫敦消息』には「向うへ出て見ると逢う奴も逢う奴もみんないやに背が高い。おまけに愛嬌のない顔ばかりだ。こんな国ではちっと人間の背に税をかけたら、少しは倹約した小さな動物ができるだろうなどと考えるが、それはいわゆる負け惜しみの減らず口という奴で、公平なところが向うの方がどうしても立派だ。何となく自分が肩身の狭い心持ちがする。向うから人間並はずれた低い奴が来た。来たと思ってすれ違って見ると自分より二寸ばかり高い。こんどは向うから妙な顔色をした一寸法師が来たなと思うと、これすなわち{乃公|だいこう}自身の影が姿見に写ったのである。やむをえず苦笑いをすると向うでも苦笑いをする。これは理の当然だ」と書かれています。
 漱石は、当時の英国人の平均身長より10センチほど低かったため、嫌というほどの劣等感と、東洋人としての差別と疎外感を味わいました。これが漱石に潜んでいた「神経衰弱」の進行につながります。
 
 小宮豊隆は『知られざる漱石』の「漱石先生の顔」で「先生は中肉とはいえても中背とはいえなかった。むしろ小男といってよかった」と書いています。ただ、「漱石神社の神主」といわれるほど、漱石を崇拝していますから、実際は小男でありながらも漱石が巨大な存在であることを強調しています。
 門人の森田草平は『続夏目漱石』の「三座談の巧さと江戸っ子」で「私が先生のお供をして、安藤坂の坂上から右へ折れ、何邸前のだらだら坂を降って行って、今度は急な坂をまさに金富町へ出ようとした、その小さい坂の途中のことである。私は先生の後について、先生を見下ろすようにして歩いていたのだが、その時も先生の洋服がしっくり身に合っているのが眼に着いた。しかし、どうも頭の割に肩幅が狭い。やっぱり日本人だなと思った。こんなことは滅多に気がつかない{質|たち}だから、私は少々得意になって『先生の洋服姿も立派だが、どうも頭の割に肩幅が狭過ぎるようだ』と申上げたら、いきなり『余計なことをいうな』と叱られた」というのです。
 
 草平の言葉に、潜んでいるコンプレックスを刺激されたためなのか、漱石は「そんなことはいわれんでも知っている!」と、怒りの声を投げつけました。
 かくして、漱石は自らのコンプレックスを解消する手段として、おしゃれな洋服に自らを包み込んで、ハイカラを追求することに決めたようです。
 
本書の構成
 本書は、漱石のハイカラであった事実を、エピソードや作品を通じてご紹介していきます。
 第一章は「ハイカラ漱石の洋服」と題して、洋服にまつわるエピソードを取り上げます。第二章は「ハイカラ漱石の身だしなみ」と題して、漱石のおしゃれにまつわる身だしなみや服飾品の歴史を語ります。第三章は「漱石のハイカラものがたり」として、漱石の珍しいおしゃれグッズの数々をご紹介します。第四章は「漱石作品とハイカラ」と題して、漱石の小説に登場するおしゃれアイテムを提示していきます。第五章は「漱石の通ったハイカラ店」として、漱石が通ったり、小説に登場させた店をご案内します。
 本書は、これらの研究により、ハイカラな衣服に隠された漱石の真実が、浮かび上がってくることを狙っています。
 
 今までに書いてきた『西洋料理好き漱石』『湯けむり漱石』『スイーツ系漱石』に続く本書『ハイカラ漱石』は、漱石の身近な生活と作品、さまざまなエピソードで漱石の人間性を掘り下げていく「漱石の日常」シリーズの一冊です。次は、漱石と伝統の味や店との関係を掘り下げた『江戸っ子漱石と伝統の味』に続きます。これらの本で、漱石の日常における意外なエピソードとうんちくをお楽しみください。
 
 なお、本書に引用した漱石をはじめとする作品は、俳句を除く一部を除いて常用漢字や新仮名遣い、句読点などを加えて読みやすくしています。また、JISX0208の第1・第2水準以外の漢字が使えませんので、やむなく別の漢字を使っているものもあります。漱石ファンの方々にはこの点をご了承いただければと存じます。










最終更新日  2022.07.02 00:23:51
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