|
カテゴリ:正岡子規
鬼の子のまだ頑是なし花石榴(明治26) 正岡子規は、『わが幼時の美観』という文を明治31(1898)年に書いています。 その中で、子規の幼い頃に起こった自宅の火事の思い出を記し、「われが三つの時、母はわれをつれて十町ばかり隔りたる実家に行きしが、一夜はそこに宿らんとてやや寐入りし頃、ほうほうと呼びて外を通る声身に入しみて夢覚さめたり。(ほうほうとは火事の時に呼ぶ声なり)すは火事よとて起き出でて見るに火の手は未申(ひつじさる)に当りて盛んに燃えのぼれり。我家の方角なれば、気遣しとてわれを負ひながら急ぎ帰りしが、我が住む横町へ曲らんとする瞬間、思ひがけなくも猛烈なる火は我家を焼きつつありと見るや母は足すくみて一歩も動かず。その時背に負はれたるわれは、風に吹き捲まく焔の偉大なる美に浮かれて、バイバイ(提灯のこと)バイバイと躍おどり上りて喜びたり、と母は語りたまひき」とあります。 子規は、幼い頃から赤い色が好きで、「七、八つの頃には人の詩稿に朱もて直しあるを見て朱の色のうつくしさに堪へず、われも早く年とりてああいうことをしたしと思いしこともあり、ある友が水盤というものの桃色なるを持ちしを見てはそのうつくしさにめでて、彼は善き家に生れたるよと幼心に羨みしこともありき」と、赤い色に魅入られていたと綴っています。 また、ふるさとの家には、「百年をも過ぎたらん桜の樹はびこりて庭半ばを掩いたり。花稀なる田舎には珍らしき大木なれば弥生の盛りには路行く人足をとどめて、かにかくと評しあえるを、われはひそかに聴きていと嬉しく思いぬ」という見事な桜があり、「桜の下に石榴あり。花石榴とて花はやや大きく八重にして実を結ばず。その下の垣根極めて暗き処に木瓜(ぼけ)一もとあり。一尺ばかりに生ひたれど日あたらねば花少く、ある年は二つ三つ咲く、ある年は咲かず。たまたま咲きたるはいとゆかしかりき。椿あり、つつじあり、白丁あり、サフランあり、黄水仙あり、手水鉢(ちょうずばち)の下に玉簪花(たまのかんざし)あり、庭の隅に瓦のほこらを祭りてゴサン竹の藪あり、その下にはアヤメ、シヤガなど咲きて土常に湿えり。書斎の前の蘭は自ら土手より掘り来りて植ゑしもの。厠(かわや)のうしろには山吹と石蕗(つわぶき)と相向へり。踏石の根にカタバミの咲きたるも心にとまりたり」と庭の木々と草花を描写しています。 下闇や力がましき花石榴(明治26) 花石榴久しう咲いて忘られし(明治28) これらの句は花石榴の写生ですが、子規の幼少期に住んだ屋敷町の家々や、子規庵の近くにある家々の庭には、石榴が植えられていたことでしょう。 はちわれて實をこぼしたる柘榴哉 (明治24) はちわれて實もこぼさゞる柘榴哉(明治33) 口あけて柘榴のたるゝ軒端哉(明治26) 石榴は「人の肉の味がする」といわれます。実が割れて、赤いたくさんの赤い種が姿を見せることから、人間の肉体の朽ちた様子が連想されたようですが、これには鬼子母神(きしもじん)が右手に石榴の枝や実をもち、ふところに子供を抱いている姿が強く影響しています。 鬼子母神は、安産・子育の神様とされています。インドでは訶梨帝母(かりていも)とよばれ、王舎城(おうしゃじょう)の夜叉神の娘で嫁して多くの子供を産見ました。その性質は暴虐で、近隣の幼児をとって食べてしまうので、人々から恐れられていました。お釈迦様は、訶梨帝母の過ちを改めさせようと、鬼子母神の末の子を隠してしまいました。嘆き悲しんでいる訶梨帝母に、お釈迦様は「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と戒めました。訶梨帝母は今までの過ちを悟ってお釈迦様に帰依して鬼子母神となり、人々に尊崇されるようになったといいます。 不吉なイメージのある石榴ですが、一つの実の中にたくさんの小さな実があることから、子孫繁栄をあらわす縁起のよい「吉祥果」ともいわれます。鬼子母神が石榴の枝を手に持つのは、子孫繁栄の願いが込められているといいます。また、心を入れ変えた鬼子母神は、子供を食う代りに石榴を食べるようになったともいわれます。そのことが、柘榴は「人の肉の味がする」といわれるようになったのでしょうか。 亡くなる年の明治35(1902)年、子規は石榴の句を読んでいます。今にも落ちてしまいそうな柘榴の実を、わが身に例えたものです。この石榴は「吉祥果」だったのでしょうか、それとも我が身が仏のもとに誘われようとしていることを暗喩したものなのでしょうか。 盆栽ノ柘榴實垂レテ落チントス(明治35)
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.07.04 19:00:07
コメント(0) | コメントを書く
[正岡子規] カテゴリの最新記事
|