土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

2022/07/11(月)19:00

漱石とアート117/夏目漱石01

夏目漱石(947)

 漱石が水彩画を描き始めたのは、ロンドンから帰国してしばらくしてからのことでした。漱石は、幼い頃から絵を眺めるのは好きでしたが、実際に絵を描いたことはないようです。子規から送られた絵に対して「拙である」と感想を述べています。  余は子規の描いた画をたった一枚持っている。亡友の記念(かたみ)だと思って長い間それを袋の中に入れてしまっておいた。年数の経つにつれて、ある時はまるで袋の所在を忘れて打ち過ぎることも多かった。近頃ふと思い出して、ああしておいては転宅の際などにどこへ散逸するかも知れないから、今のうちに表具屋へやって懸物にでも仕立てさせようという気が起った。渋紙の袋を引き出して塵をはたいて中を検べると、画は元のまま湿っぽく四折に畳んであった。画のほかに、無いと思った子規の手紙も幾通か出て来た。余はそのうちから子規が余に宛て寄こした最後のものと、それから年月の分らない短いものとを選び出して、その中間に例の画を挟んで、三つを一纏に表装させた。 画は一輪花瓶に挿した東菊で、図柄としては極きわめて単簡な者である。わきに「これは萎み掛かけた所と思い玉え。まずいのは病気の所為だと思い玉え。嘘だと思わば肱を突いて描いて見玉え」という註釈が加えてあるところをもって見ると、自分でもそう旨いとは考えていなかったのだろう。子規がこの画を描いた時は、余はもう東京にはいなかった。彼はこの画に、東菊活けて置きけり火の国に住みける君の帰り来るがねという一首の歌を添えて、熊本まで送って来たのである。 壁に懸けて眺めて見るといかにも淋しい感じがする。色は花と茎と葉と硝子ガラスの瓶とを合せてわずかに三色しか使ってない。花は開いたのが一輪に蕾が二つだけである。葉の数を勘定して見たら、すべてでやっと九枚あった。それに周囲が白いのと、表装の絹地が寒い藍なので、どう眺めても冷たい心持が襲って来てならない。 子規はこの簡単な草花を描くために、非常な努力を惜しまなかったように見える。わずか三茎の花に、少くとも五六時間の手間をかけて、どこからどこまで丹念に塗り上げている。これほどの骨折は、ただに病中の根気仕事としてよほどの決心を要するのみならず、いかにも無雑作に俳句や歌を作り上げる彼の性情からいっても、明かな矛盾である。思うに画ということに初心な彼は当時絵画における写生の必要を不折などから聞いて、それを一草一花の上にも実行しようと企てながら、彼が俳句の上ですでに悟入した同一方法を、この方面に向って適用する事を忘れたか、または適用する腕がなかったのであろう。 東菊によって代表された子規の画は、拙まずくてかつ真面目まじめである。才を呵かして直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸たると同時に、たちまち堅くなって、穂先の運行がねっとりすくんでしまったのかと思うと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵は旨いじゃありませんかといったことがある。余はその時、だってあれだけの単純な平凡な特色を出すのに、あのくらい時間と労力を費さなければならなかったかと思うと、何だか正岡の頭と手が、いらざる働きを余儀なくされた観があるところに、隠し切れない拙が溢れていると思うと答えた。馬鹿律義なものに厭味もきいた風もありようはない。そこに重厚な好所があるとすれば、子規の画はまさに働きのない愚直ものの旨さである。けれども一線一画の瞬間作用で、優に始末をつけられべき特長を、とっさに弁ずる手際がないために、やむをえず省略の捷径を棄てて、几帳面な塗抹主義を根気に実行したとすれば、拙の一字はどうしても免かれがたい。 子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉とらえ得た試しがない。また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえもたなかった。彼の歿後ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊のうちに、確かにこの一拙字を認めることのできたのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。ただ画がいかにも淋しい。でき得るならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償いとしたかった。(子規の画)  また、修善寺の大患から蘇り、すぐに書いた『思い出す事など』には、幼い頃の絵の思い出が綴られています。幼い頃から漱石は南画に惹かれていたようです。  小供のとき家に五六十幅の画があった。ある時は床の間の前で、ある時は蔵の中で、またある時は虫干の折に、余は交る交るそれを見た。そうして懸物の前に独りうずくまって、黙然と時を過すのを楽みとした。今でも玩具箱をひっくり返したように色彩の乱調な芝居を見るよりも、自分の気に入った画に対している方が遥かに心持が好い。 画のうちでは彩色を使った南画なんがが一番面白かった。惜しいことに余の家の蔵幅にはその南画が少なかった。子供のことだから画の巧拙などは無論分ろうはずはなかった。好き嫌いといったところで、構図の上に自分の気に入った天然の色と形が表われていればそれで嬉しかったのである。 鑑識上の修養を積む機会をもたなかった余の趣味は、その後別段に新らしい変化を受けないで生長した。したがって山水によって画を愛するの弊はあったろうが、名前によって画を論ずるのそしりも犯さずにすんだ。ちょうど画を前後して余の嗜好にのぼった詩と同じく、いかな大家の筆になったものでも、いかに時代を食ったものでも、自分の気に入らないものはいっこう顧みる義理を感じなかった。(余は漢詩の内容を三分して、いたくその一分を愛すると共に、大いに他の一分をけなしている。残る三分の一に対しては、好むべきか悪にくむべきかいずれとも意見を有していない。) ある時、青くて丸い山を向うに控えた、また的礫と春に照る梅を庭に植えた、また柴門の真前を流れる小河を、垣に沿うて緩くめぐらした、家を見て――無論画絹の上に――どうか生涯に一遍で好いからこんな所に住んで見たいと、傍にいる友人に語った。友人は余の真面目な顔をしけじけ眺めて、君こんな所に住むと、どのくらい不便なものだか知っているかとさも気の毒そうにいった。この友人は岩手のものであった。余はなるほどと始めて自分の迂濶をはずると共に、余の風流心に泥を塗った友人の実際的なのを悪んだ。 それは二十四五年も前のことであった。その二十四五年の間に、余もやむをえず岩手出身の友人のようにしだいに実際的になった。崖がけを降りて渓川へ水を汲みに行くよりも、台所へ水道を引く方が好くなった。けれども南画に似た心持は時々夢を襲った。ことに病気になって仰向に寝てからは、絶えず美くしい雲と空が胸に描かれた。 すると小宮君が歌麿の錦絵を葉書に刷ったのを送ってくれた。余はその色合の長い間に自ずと寂たくすみ方に見惚れて、眼を放さずそれを眺めていたが、ふと裏を返すと、私はこの画の中にあるような人間に生れたいとか何とか、当時の自分の情調とは似ても似つかぬことが書いてあったので、こんなやにっこい色男は大嫌いだ、おれは暖かな秋の色とその色の中から出る自然の香が好きだと答えてくれと傍のものに頼んだ。ところが今度は小宮君が自身で枕元へ坐って、自然も好いが人間の背景にある自然でなくっちゃとか何とか病人に向って古臭い説を吐きかけるので、余は小宮君を捕つらまえて御前は青二才だと罵った。――それくらい病中の余は自然を懐しく思っていた。(思い出す事など24)  ただ、ロンドン留学時代、漱石は美術館を頻繁に訪れて、絵画を楽しみ、デザイン雑誌「ステューディオ」を眺めて、絵を楽しんでいました。 漱石が、絵を描こうと思いたつのは、明治36年10月の頃からです。

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