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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2022.07.12
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カテゴリ:正岡子規
   煎餅かんで俳句を談す火鉢哉(明治33)
 
 明治16年10月、子規は神田の共立学校へ入学し、大学予備門をめざしました。この学校の同期に、秋山真之、南方熊楠、菊池謙二郎らがいます。
 翌年9月、子規は東京大学予備門予科(明治19年4月、第一高等中学校に改称)を受験します。試しに受けたところ、見事合格していました。予備門の同級生には、夏目漱石、南方熊楠、山田美妙、芳賀矢一ら、後に作家や学者として活躍する人物たちがいたのです。
 
 余が大学予備門の試験を受けたのは明治十七年の九月であったと思う。この時、余は共立学校(今の開成中学)の第二級でまだ受験の力はない、ことに英語の力が足らないのであったが、場馴れのために試験受けようじゃないかという同級生がたくさんあったので、もとより落第のつもりで戯れに受けてみた。用意などは露もしない。ところが科によると存外たやすいのがあったが、一番困ったのは果たして英語であった。活版摺の問題が配られたので恐る恐るそれを取って一見すると、五問ほどある英文の中で自分に読めるのはほとんどない。第一に知らない字が多いのだから考えようもこじつけようもない。この時、余の同級生は皆片隅の机に並んで座っていたが(これは初めより互いに気脈を通ずる約束があったためだ)余の隣の方から問題中のむつかしい字の訳を伝えて来てくれるので、それで少しは目鼻があいたような心持ちがして、いい加減に答えておいた。その時、ある字が分からぬので困っていると、隣の男はそれを『幇間』と教えてくれた。もっとも、隣の男も英語不案内の方で、二、三人隣の方から順々に伝えて来たのだ。……今になって考えてみるとそれは『法官』であったのであろう、それを口伝えに『ホーカン』というたのが『幇間』と間違うたので、法官と幇間の誤まりなどは非常の大滑稽であった。それから及落の掲示が出るという日になって……行ってみると意外のまた意外に及第していた。試験受けた同級生は五、六人あったが、及第したのは菊池仙湖(謙二郎)と余と二人であった。この時は、試験は屁のごとしだと思うた。……しかし余のもっとも困ったのは、英語の科でなくて数学の科であった。この時数学の先生は隈本(有尚)先生であって、数学の時間には英語よりほかの語は使われぬという規制であった。数学の説明を英語でやるくらいのことは格別むつかしいことでもないのであるが、余にはそれが非常にむつかしい。つまり数学と英語と二つの敵を一時に引き受けたからたまらない。とうとう学年試験の結果幾何学の点が足らないで落第した。(『墨汁一滴』6月14日)
 
 子規没後の明治44年、大博物学者となっていた南方熊楠のもとを、子規門人の河東碧梧桐が訪ねました。熊楠は、共立学校当時を思い出し、「当時、正岡は煎餅党、僕はビール党だった。もっとも、書生でビールを飲むなどの贅沢を知っておるものは少なかった。煎餅を囓ってはやれ詩を作る句を捻るのと言っていた。自然煎餅党とビール党の二派に分れて、正岡と僕が各々一方の大将をしていた(河東碧梧桐著『続三千里』)」と碧梧桐に語っています。「煎餅を囓ってはやれ詩を作る句を捻るのと言っていた。自然煎餅党とビール党の二派に分れて、正岡と僕が各々一方の大将をしていた」と語り、腹の底から出るような声でハッハッと笑ったというのです。
 
 当時正岡は煎餅党、僕はビール党だった。もっとも書生でビールを飲むなどの贅沢を知っておるものは少なかった。煎餅を齧ってはやれ詩を作るの句を捻るのと言っていた。自然煎餅党とビール党の二派に分れて、正岡と僕とは各々一方の大将顔をしていた。今の海軍大佐の秋山真之などは、始めは正岡党だったが、後には僕党に降参して来たことなどもある。イヤ正岡は勉強家だった。そうして僕等とは違っておとなしい美少年だったよ。面白いというても何だが、今に記憶に存しておるのは、清水何とかいう男の死んだ時だ、やはり君の国の男だ、正岡が葬式をしてやるというので僕等も会葬したが、どこの寺だったか、引導を渡して貰ってから、葬式の費用が足らぬというので、坊主に葬式料をまけて呉れと言ったことがあった、と腹のド底から出るような声でハッハッと笑う。(河東碧梧桐『続三千里』)
 
 熊楠は、予備門進級試験の落第を機に中退し、アメリカに渡ってミシガン州農業大学に合格しましたが、大学には行かず、動植物の観察と読書にいそしみます。やがて、新発見の緑藻を科学雑誌『ネイチャー』に発表。アメリカではサーカス団、イギリスでは大英博物館で東洋図書目録編纂係として働きますが、大英博物館で日本人への人種差別を受け暴力事件を起こしてクビになり、明治33(1900)年に日本に帰ってきたのです。
 子規は、煎餅を愛していました。碧梧桐は、『子規を語る』で、次のように書いています。
「それはそうと、きょうはお土産を持って来た」と、うしろに手を廻して、三人の中へ出したのは、見覚えの岡野の紙袋だった。岡野の一番の大袋で、いつか茶話会か何かの時に、私が使いに往って抱えて帰ったそれと同じ袋だった。袋は三人鼎坐の中に、不釣合に大きな尻を据えていた。
「煎餅というやつは、話しながら食ってるとなんぼでも際限のないもんじゃナ、イイエそうぞナ。きょうは財布の底をはたいて来たんだが、何だか袋ばかり大きいようじゃナ」
 子規は弁解するような口吻で、袋の胴中をパリパリ二つに裂いた。今まで立っていた袋が、ガラガラ音を立てつつ横倒しになった」
 
 晩年の子規著『明治卅三年十月十五日記事』には「紅茶を命ず。煎餅二三枚をかじり、紅茶をコップに半杯ずつ二杯飲む。昼飯と夕飯との間に、菓物を喰うか或は茶を啜り菓子を喰うかするは常の事なり」「母は忽然襖をあけて、煎餅でもやらうか、という」と記されていて、煎餅を常に食べていたことがわかります。
 また、喀血後でも「○そういう家族気分の書生に、何らの接待も不用であったのだが、きっと茶をくまれる。茶菓子を出される。茶菓子は大抵岡野の煎餅だった。丸い豆入り、細長い芭蕉の葉の形をした、それらだった。いつもかわらない煎餅、というような気もするのだった。この煎餅も、お客様が一つつまむ前に、病人の手の出るのを例とした」と書いています。
 このことから、子規が常食していたのは岡野の煎餅であることがわかります。平出鏗二郎著『東京風俗志』には、東京の代表的な菓子として「下谷岡野(栄泉)の最中」、汁粉屋として「根岸の岡野」が挙げられているのです。
 
 明治34(1902)年9月上旬の『仰臥漫録』に限っても、3日は昼に煎餅三枚、4日は間食に塩煎餅3枚、7日は朝と間食に塩煎餅3枚ずつ、10日の間食で煎餅4、5枚と記録されています。
 碧梧桐らの記憶によると、子規が食べていたのは「豆入り、細長い芭蕉の葉の形(『子規を語る』)」をした「岡野」の煎餅です。平出鏗二郎著『東京風俗志』には、東京の代表的な菓子として「下谷岡野(岡埜栄泉堂)の最中」、汁粉屋として「根岸の岡野」が挙げられています
 
 明治30年刊行の金平春夢著『東京新繁盛記』に「岡野」として下谷区坂本町の住所で「この家は上等が視野のうち屈指のものにて、その名は汎く都下の人に知られたり。名代は最中にして、かつまた一万以上の多数なる饅頭も容易に引き受け、少しもその請負時間を間違えざるはこの家に限るという世評なり。またこの家は親類間の交際和熟して一致団結ともに一家の利を計るという。浅草駒形町、本郷森川町、下谷広小路、神田旅籠町にその支店あり」と書かれ、薬研堀にある支店の「岡埜栄泉堂」が紹介されています。おそらく子規は、本郷の支店を利用したと考えられるのですが、この時代、岡野にとって煎餅は本業の和菓子の余技であり、京橋の「松崎」が煎餅専門の菓子舗として知られていました。
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最終更新日  2022.07.12 19:00:08
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