土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

2022/08/01(月)19:00

漱石とアート124/夏目漱石08

夏目漱石(947)

 大正2年の秋、漱石は竹の水墨画を始めました。橋口五葉から北京の画布を送られたので、吉田蔵沢ばりの竹の絵を描こうとしたのでした。 10月5日、絵はがきのやり取りをしていた湯浅廉孫に「過日、橋口五葉宅にて北京より取寄せたる画セン紙数葉もらい受け候ため、急にそれへ竹がかいて見たくなり、三枚ほど墨にて黒く致候、その一葉は津田青楓という画家に、一葉は伊予の村上霽月という旧友に、残る一葉を大兄に差し上げることに致候。小包にて差し出し候問、御落手願候。素人の筆ゆえ妙なものにて竹とも芦とも分らず候えども、まずこれでも記念にして貰えないと今後いつ約束を履行するや自分にも分りかね候ゆえ、一先ず送り置候。他日もっと上手になったら旨いものと交換可致候」、10月9日に村上霽月に宛てて、「この間、橋口五葉から北京の紙というのを六七枚貰い、それへ気紛れに墨竹を三枚ほど描き申候。そのうちの一枚を遥かに大兄に献上致候問御、笑納被下度候。三枚のうち一枚は津田青楓ヘ、一枚は伊勢の神宮皇学館教授湯浅廉孫へ、残る一枚を君に差上候。まあ三幅対を分けたようなものに候。君に上げる理由は、君があの小さい絵に興味をもっていたからでもあるが、何ということなしに君なら愛玩してくれるだろうという気がするからである。竹は小包にてこの手紙より後れて着きます」と書いています。  10月15日の青楓への手紙には「あれからまた竹の画を絹に描いて人にやりました」、12月8日には青楓に宛てて「先日は失礼高芙蓉の画を見てから僕も一枚かきましたが駄目です。……私は生涯に一枚でいいから人が見て難有い心持のする絵を描いてみたい。山水でも動物でも花鳥でも構わない。ただ崇高で難有い気持のする奴をかいて死にたいと思います。文展に出る日本画のようなものはかけてもかきたくはありません」とあります。  漱石が蔵沢の画をなぜ知っているかというと、子規から絵の素晴らしさを教えてもらったためでした。明治34年6月7日の『病牀六尺』には、子規の病牀周りに「何年来置き古し見古した蓑、笠、伊達正宗の額、向島百花園晩秋の景の水画、雪の林の水画、酔桃館蔵沢の墨竹、何も書かぬ赤短冊など」が置かれていると記しています。   吉田蔵沢は、松山藩士でありながら余儀に墨絵を描き、南画、特に墨竹の画で知られています。漱石は、明治43年に修善寺の大患の回復祝いとして森円月から蔵沢の竹の画をもらっていたのです。森円月は、正岡子規の門人で、初期の松風会に属していました。松山中学から同志社を経て、アメリカのエール大学に留学し、明治30年から松山中学校で英語の教師となっています。のちに兵庫県柏原中学校に移り、大阪時事新報の記者や東洋協会の雑誌の編集をしていました。  蔵沢の竹の画は『思い出す事など』に「町井さんはやがて紅白の梅を二枝提げて帰って来た。白い方を蔵沢の竹の画の前に挿して、紅い方は太い竹筒の中に投げ込んだなり、袋戸の上に置いた。この間人から貰った支那水仙もくるくると曲って延びた葉の間から、白い香をしきりに放った。町井さんは、もうだいぶん病気がよくおなりだから、明日はきっと御雑煮が祝えるに違ないといって余を慰めた。(33)」とあります。 漱石は蔵沢の画のお礼として、東京にいる円月に「かねて御話しの蔵沢の竹一幅わざわざ小使に持たせ御届披見大驚喜の体、仮眠も急に醒め拍手踊躍致おり候。いずれ御目にかかり篤く御礼可申上候えども、不取敢御受取かたがた一札かくのごとくに候」という手紙を11月5日に送りました。 その日の日記には「〇森円月来る。疲労を言訳にして不会。一時間程して小使手紙を以て来る。蔵澤の墨竹の軸を添う。御見舞とも御土産とも致し進呈すとあり。早速床にかく」「〇病院へ入ったら好い花瓶と好い懸物が欲しいといっていたら、偶然にも森円月が蔵澤の竹をくれる。禎次が花瓶をくれるという報知をする。人間万事こう思う様に行けば難有いものである」と書き、11月12日には「蔵澤の竹を得てより露の庵」という句を詠んでいます。 翌年の1月30日には「蔵山と蔵沢の箱出来早速御届け下さいましてありがとう御座います、まだ外に両三個願いたいのですが、寸法もありますから今度御出の時にまた御面倒を願いたいと思います。紙は受取りました。そのうち何か書きましょう。霽月は清水老人から明月の書をもらつてくれました。私は代りに野田笛浦の書を送りました。明月はうまいものです。それを表装をしかえなければなりません。今度御目にかけたいと思います」という手紙を送っています。  漱石は、それからも何枚も竹の水墨画を描きました。 大正3年1月14日には、円月に「霽月にやった墨竹はその時はかなりの出来と思ったが、今はもう一遍見ないとなんともいえません。本人がいいと思って表装するなら格別それでなければそれには及びません。あなたに頼まれた達磨はあれぎりですが、外に色々かきました。私のあげてもいいと思うもののうちで思召に叶うものがあるなら達磨の代わりに上げてもよろしゅうございます」と手紙に書いています。

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