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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2022.08.02
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カテゴリ:正岡子規
   惡句百首病中の秋の名殘かな(明治29)
   三千の俳句を閲し柿二つ(明治30)
   句を閲すラムプの下や柿二つ(明治32)
 
 晩年の子規は、投稿された俳句を閲覧し、選句するのを日課としていました。病状が重くなると、そうした俳句を見るのも難しくなり、次第に俳句の投稿が枕元に貯まるようになりました。それを見かねた子規の母・八重は、「藤村」と焼印の押されたカステラの空き箱に入れました。
 その様子を、高浜虚子は小説『柿二つ』に描写し、河東碧梧桐は『回想の子規』でそのことに触れています。
 
 こうやっていると小さい一本の筆が重くなる。筆が重くなるというよりも腕が重くなるのである。痩せた自分の腕が重くなるのである。そういう時には投げるように畳の上にその筆を持った右の手を落す。と同時にまた草稿を持った左の手をも蒲団の上に落す。
 草稿というのは新聞の文苑に出す俳句の投書である。少し怠っていると、来るに従って投げ込んで置く一つの投書函が忽ち一杯になる。それが一杯になると、あたかも桶にたまった一杯の水が添水(そうず)を動かすように、この病主人を動かしてその選抜に取りかからしめるのである。
 一昨年の暮まではまだ時々は社に出勤することも出来たし、そうでなくっても机に凭れて仕事するくらいのことには差支えなかったのである。自然俳句の投書も、来るに従って見、見るに従って選句を原稿紙に書留めて置くくらいのことをそれ程労苦とは思わなかったのであるが、昨年になってから腰部の疼痛がだんだん激しくなって来て、固より出勤は思いもよらず、家に在って仕事をするのも大方は寝床の上にあって、まだ蒲団の上に机を置いてそれに凭れるくらいのことは出来ないことはないにしても、どちらかといえば仰臥していることを一番楽に感ずるようになったのである。
「こんなに散らかっていてはしようがない」
 と言つて老いた母親が大きなカステイラの空箱を持出して来て、それに俳句の投稿を纏めて入れたのはその頃からであった。その空箱にはふじむらと烙印(やきいん)がしてあった。病主人は情無いような腹立たしいようないらいらした心持をじっと抑えながら、初めて枕頭に置かれたその箱を空眼をつかって見た。
 見渡したところ一つとして貧し気でない什器は無いのであるが、このカステイラの空箱も決して病主人の眼を楽しましめるものではなかった。その上自分の体のだんだん自由を欠いて来ることが事毎につけて情無かった。俳句の投稿を散らかさないために纏めて一つの箱に入れて置くということには異存の唱えようがないのであったが、唯それが自分の意思から出たので無く、また自分の手でなされたのでも無く、他人の手で容易に取り運ばれていつの間にか取り澄まして枕頭に置かれているということがじりじりと癇癪に障った。彼は何も言わずに唯じっとその箱を見詰めていた。ふじむらという変体仮名の烙印と暫く睨めっくらをしていた。鉛のような冷たい鈍重な心持ちが頭を擡げてきてそのいらいらした癇癪と席を取替えるまで。
 それ以来、このふじむら氏は長く投書函の役目を勤めて今日に来っているのである。それも初めの間は少し投書がたまると、すぐ選句に取りかかるのであったが、それがだんだんと延び延びになって来て、今年の春頃からは一杯になるのを合図にして選句に取りかかる例になった。(高浜虚子 柿二つ)
 
 年の暮と新年は新聞の厄月、雲州蜜柑は昔からの通り相場。アト四日、大晦日までの分は、まアどうやら埋め合わせるだけの原稿が出来たので、ホッと一息ついた処だった。今日は案外筆が進む。ついでに、新年の分も一、二回、墨をすり終わって、例の支那筆の小全豪を手にしたが、カタリと音をさせて投げ出した。
 チラッと彩られた光線の閃きが、机の左手の下の方を掠めて過ぎた、そんな気がしたのだ。そこには、いつでも枕元に置いてある、カステラの空箱があった。二円内外のカステラの入っていたらしい、かなり大きな箱なんだ。レッテルもまだそのままにしてある。カステラは空なんだが、その中には、諸方から来る俳稿が入れてある。開封で来るのが多いので、封紙を取った中身だけを、来たとも何とも言わず、家人が入れて置くのだ。もう中身は大分溜まって、餡が食み出そうに、蓋が少しずっている程だ。(河東碧梧桐 回想の子規 徹夜)
 
 「ふじむら」というと、本郷の「藤村」がまず頭に浮かびます。
『東京百事便』には「藤村 本郷4丁目」として「練り羊羹をもって有名なり。そのほか大徳寺は茶人の好むものにて田舎饅頭は一般下戸の喜ぶ菓子なり」とあります。「藤むら」は、もともと加賀の菓子舗でした。加賀百万石の前田利家は、豊臣秀吉が催した茶会で供された羊羹に括目し、金沢の地で羊羹を創るよう、金戸屋の忠左衛門に命令しました。忠左衛門は、40年にわたる苦心の末、三代藩主・利常の時代にようやく独自の羊羹を完成させます。その時に利常から「濃紫の藤にたとえんか、菖蒲の紫にいわんか、この色のこの香、味あわくして格調高く、藤むらさきの色またみやびなり」との絶賛を受け、金戸屋は藩の御用菓子司となりました。
 宝暦4年(1754年)、加賀十代藩主・重教の江戸出府に従い、金戸屋は江戸の加賀藩下屋敷の赤門(現東京大学の赤門)近くに店を構えました。その際、羊羹の色に因んで「藤村」と名乗り、店の屋号を「藤むら」としたのでした。
 現在では、「藤むら」は店を閉めてしまいました。東京新聞編『東京の老舗』の中に「ようかんをはじめ和菓子ひとすじに精進し、おいしいものをお客様へということである。これを「藤むら」の正道と思い商売に励む当主昌弘さんの信条は、スモール・イズ・ビューティフル。単に小さいことに価値があるのではなく、それが美しく輝いていることに価値がある。商いを大きくせずに、大量に作らず、ていねいに手作りするからこそ価値があり、人を幸せにする味が生まれるという」とあります。とすれば「ふじむらと烙印(やきいん)がしてあった」というカステラの空き箱は、果たして「藤むら」のものでしょうか?
 
 明治33(1900)年5月9日、子規の病床に原千代女(千代子)がカステラを土産に訪ねてきました。千代女は鋳金家の原安民の妻で、病床の子規を訪ねて来たのです。子規は、そのときの様子を
  原千代子キノフ来リテクサグサノ話キゝタリカステラ喰ヒツツ 子規
 という短歌にしたためています。
 千代女の実家は神戸元町の貿易商「大島屋」で、筋向かいに今も続く神戸風月堂がありました。神戸風月堂は、東京の風月堂に弟子入りしていた初代吉川市三が明治三十(一八九七)年に創業している。子規の家に持参したカステラは神戸風月堂のもので、おそらく千代女が帰省の際に求めたものだろう。帰省の旅のできごとや神戸の様子などで話は多いに盛り上がったことが子規の短歌から想像されます。
 子規がカステラを食べるのは、これが初めてではありません。記録を辿ると明治28年5月27日、神戸病院で牛乳、スープとともに食べています。残念ながら、子規が神戸病院にいた頃、神戸風月堂はまだ誕生していないため、千代女持参のカステラはそのときのものではありません。しかし、神戸への懐かしい思い出をも、そのカステラは届けることができたことでしょう。





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最終更新日  2022.08.02 19:00:07
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