子規と食べものの句86/好きなもの
行く秋を大めし食ふ男かな(明治27) 正岡子規の食べものの好みについて書いた文章があります。 書かれた時期ははっきりしませんが、病牀六尺時代の少し前のことを振り返っています。 新しいものうまく、煮たて焼たてうまし 醤油よりは塩、山葵(わさび)より薑(はじかみ) さしみはまくぐろ、したしものはほうれん草、つまはていれぎ(オオタネツケバナ) 赤飯(強飯わろし)栗飯筍飯茶飯雑炊鮓皆よし 菓物は鬱を散らす 飯堅ければ百味みな味を減ず 酔ぞめの茶漬、廓帰りの湯豆腐 日本料理の御馳走に飯なきは日本の悪弊、眼中に下戸をおかぬもの お酌は芸者に如かず、お給仕はお三どんにしかず 茶は二杯、酒は三杯、味噌汁は一杯 いり豆は多々益々弁す、話の伽によろし 意訳してみますと、以下のようなものでしょうか。まるで、「マイ・フェア・レディ」の「マイ・フェイバリット・シングス」か佐良直美の「私の好きなもの」のようです。 煮立て焼きたて、何でもつくりたてが美味しい。醤油よりは塩、ワサビよりもショウガ、マグロの刺身、ほうれん草のおひたし、ていれぎ(清流に自生するクレソンのような草)のツマ、柔らかめの赤飯、栗飯、筍飯、茶飯、雑炊、寿司、みんな大好き。果物は憂鬱な気分を発散させてくれる。堅いご飯は、壁手のものを不味く感じさせる。酔ってからの茶漬け、遊び帰りの湯豆腐もいい。 日本料理の悪いところは、ご馳走になると飯が少ない。お酒を飲まない者のことを考えない。お酌は芸者、お給仕はおさんどんにしてもらう方がいい。お茶は二杯、酒は(お猪口に)三杯、味噌汁は一杯。煎った豆はやめられない止まらない、退屈な話を和らげてくれる。 こういうリズムのある文を子規は得意にしていて、『墨汁一滴』の明治34年3月15日掲載の文章もいいので、ここに紹介します。 散歩の楽(たのしみ)、旅行の楽、能楽演劇を見る楽、寄席に行く楽、見せ物興行物を見る楽、展覧会を見る楽、花見月見雪見等に行く楽、細君を携へて湯治に行く楽、紅燈酒美人の膝を枕にする楽、目黒の茶屋に俳句会を催して栗飯の腹を鼓する楽、道灌山に武蔵野の広きを眺めて崖端の茶店に柿をかじる楽。歩行の自由、坐臥の自由、寐返りの自由、足を伸す自由、人を訪ふ自由、集会に臨む自由、厠に行く自由、書籍を捜索する自由、癇癪の起りし時腹いせに外へ出て行く自由、ヤレ火事ヤレ地震という時に早速飛び出す自由。 ――総ての楽、総ての自由はことごとく余の身より奪い去られて僅かに残る一つの楽と一つの自由、即ち飲食の楽と執筆の自由なり。しかも今や局部の疼痛劇しくして執筆の自由は殆ど奪ばれ、腸胃漸く衰弱して飲食の楽またその過半を奪はれぬ。アア何を楽に残る月日を送るべきか。 残された「飲食の楽」と「執筆の自由」を頼みに、子規は残された日々を生き続けました。その生命力を支えたのは「飲食の楽」でした。