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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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正岡子規

2021.11.28
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カテゴリ:正岡子規
 子規と漱石が仲良くなるのは、明治22年初頭の頃でした。漱石の『正岡子規』には次のように書いています。
 
 また正岡はそれより前漢詩を遣っていた。それから一六風か何かの書体を書いていた。その頃僕も詩や漢文を遣っていたので、大に彼の一粲を博した。僕が彼に知られたのはこれが初めであった。ある時僕が房州に行った時の紀行文を漢文で書いてその中に下らない詩などを入れて置いた、それを見せたことがある。処が大将頼みもしないのに跋を書いてよこした。何でもその中に、英書を読む者は漢籍が出来ず、漢籍の出来るものは英書は読めん、我兄の如きは千万人中の一人なりとか何とか書いておった。ところがその大将の漢文たるや甚だまずいもので、新聞の論説の仮名を抜いたようなものであった。けれども詩になると彼は僕よりも沢山作っており、平仄も沢山知っている。僕のは整わんが、彼のは整っている。漢文は僕の方に自信があったが、詩は彼の方が旨かった。もっとも今から見たらまずい詩ではあろうが、先ずその時分の程度で纏ったものを作っておったらしい。たしか内藤さんと一緒に始終やっていたかと聞いている。
 彼は僕などより早熟で、いやに哲学などを振り廻すものだから、僕などは恐れを為していた。僕はそういう方に少しも発達せず、まるでわからん処へ持って来て、彼はハルトマンの哲学書か何かを持ち込み、大分振り廻していた。もっとも厚い独逸書で、外国にいる加藤恒忠氏に送って貰ったもので、ろくに読めもせぬものを頻りにひっくりかえしていた。幼稚な正岡がそれを振り廻すのに恐れを為していた程、こちらは愈々幼稚なものであった。
 妙に気位の高かった男で、僕なども一緒に矢張り気位の高い仲間であった。ところが今から考えると、両方共それ程えらいものでも無かった。といって徒らに吹き飛ばすわけでは無かった。当人は事実をいっているので、事実えらいと思っていたのだ。教員などは滅茶苦茶であった。同級生なども滅茶苦茶であった。
 非常に好き嫌いのあった人で、滅多に人と交際などはしなかった。僕だけどういうものか交際した。一つは僕の方がええ加減に合わしておったので、それも苦痛なら止めたのだが、苦痛でもなかったから、まあ出来ていた。こちらが無暗に自分を立てようとしたら迚も円滑な交際の出来る男ではなかった。例えば発句などを作れという。それを頭からけなしちゃいかない。けなしつつ作ればよいのだ。策略でするわけでも無いのだが、自然とそうなるのであった。つまり僕の方が人が善かったのだな。今正岡が元気でいたら、余程二人の関係は違うたろうと思う。もっともその他、半分は性質が似たところもあったし、また半分は趣味の合っていた処もあったろう。も一つは向うの我とこちらの我とが無茶苦茶に衝突もしなかったのでもあろう。忘れていたが、彼と僕と交際し始めたも一つの原因は、二人で寄席の話をした時、先生も大に寄席通を以て任じている。ところが僕も寄席のことを知っていたので、話すに足るとでも思ったのであろう。それから大に近よって来た。(夏目漱石 正岡子規)
 
 ただ、5月9日の夜、子規は突然喀血しました。翌日、医師の診察を受け、肺病と診断されています。子規は、さほど大病と思わなかったのか、その日の午後に九段で行われた会合に出席しています。ところがその日の午後11時に再び喀血したのです。
 
 このことを聞いた漱石は、5月13日に子規宛の手紙を送りました。
 
 今日は大勢罷出失礼仕候。しからばそのみぎり帰途山崎元修方へ立寄り、大兄御病症並びに療養方等委曲質問仕候処、同氏は在宅ながら取込有之由にて不得面会、乍不本意取次
を以て相尋ね申候処、存外の軽症にて別段入院等にも及ぶまじき由に御座候えども、風邪のために百病を引き起すと一般にて、喀血より肺労または結核の如き劇症に変ぜずとも申しがたく、只今は極めて大事の場合故出来るだけの御養生は専一と奉存候。小生の考えにては山崎の如き不注意不親切なる医師は断然廃し、幸い第一医院も近傍に有之候えば一応
同院に申込み、医師の診断を受け入院の御用意有之たく、さすれば看護療養万事行き届き十日にて全快する処は五日にて本復致す道理かと存候。かつ少しにても肺患に罹る「プロバビリチー」ある以上は二豎の膏肓に入らざる前に英断決行有之たく、生あれば死あるは古来の定則に候えども、喜生悲死もまた自然の情に御座候。春夏四時の循環は誰れも知る事ながら、夏は熱を感じ冬は寒を覚ゆるもまた人間の免かるる能わざる処に御座候えば、小にしては御母堂のため、大にしては国家のため自愛せられん事こそ望ましく存候。雨ふらざるに牖戸を綢繆すとは古人の名言に候えば、平生の客気を一掃して御分別有之たく、この段願上候。
 
  to live is the sole end of man!
     五月十三日
   帰ろふと泣かずに笑へ時鳥
   聞かふとて誰も待たぬに時鳥
                     金之助
 正岡大人 梧右
 
 いずれ二、三日中に御見舞申上べく、また本日米山、龍口の両名も山崎方へ同行しくれたり。
 僕の家兄も今日吐血して病床にあり。かく時鳥が多くてはさすか風流の某も閉口の外なし。呵々。(夏目漱石 明治22年5月13日 子規宛書簡)
 
 この手紙では、子規の病気の様子がはっきりとしないため、漱石の心配している様子が見て取れます。
 漱石は兄の直矩を吐血したことを伝え、結核に怯えていたことを示しています。






最終更新日  2021.11.28 19:00:06
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2021.11.24
カテゴリ:正岡子規
 子規は晩年になると、「滋養論」とともに牛乳を飲むことをみんなに提唱しました。晩年の子規を綴った赤木格堂の『子規夜話』には、京都の天田愚庵に薦められた経緯と牛乳の価値を語る子規の姿が描写されています。愚庵は明治32年に上京して子規を訪ねていますので、その頃のことでしょうか。
 
 子供の時から坊主に育ったものには、随分偽者が多いようだが、中道、何か大いに感じて頭を剃った坊さんには尊敬すべきものがある。桃山の愚庵などはその一人だ。愚庵が戒を守るのは、それこそ真剣に正直に守りきるのだ。いつか見舞に来てくれて僕にしきりと牛乳を勧めて、「ぜひ牛乳を飲め。医者よりも薬よりも牛乳くらい体に利くものはない」と無闇に牛乳万能を説くから、何してかと思ってよく訊いてみると、和尚が病気の時分に人の勧めで牛乳を飲んだら、それで回復したというのだ。平生戒めを守って魚肉を遠ざけ、全くの粗食に甘んじていたから殊に牛乳の利き目が強かったのであろう。しかも一日幾合あて飲まれたかと聞くと、毎日一升ずつ飲んだという。あの体格だからそれ位は無理でもなかるまいが、平生粗食していて、にわかに一升あてもやれば、そりゃ随分利いたろう。その経験を僕へ応用しようというんだから面白いじゃないか。(赤木格堂 子規夜話)
 
 愚庵は、明治33年、明治天皇の御陵地選定のために京都を訪れた内務大臣・品川弥二郎を案内して、伏見桃山へ誘います。御陵地は伏見に決まったのですが、愚庵も温暖な気候の桃山がすっかり気に入りました。そこで、産寧坂の庵を売却して龍雲寺の近くの土地を手に入れ、庵を建てました。
 完成の喜びに、愚庵は「桃山結庵歌」19首を詠んでいます。
 
   打日指京のうちをことしげみ伏水の里に我は来にけり
   三吉野の吉野若杉丸太杉柱にきりてつくる此庵
   天地に祝ひて作る我庵の棟上の日を雨な降りそね
   我庵は誰が来て作る西浜の江崎の子等が米てぞ作れる
   遠山は葛城の山志直の山生駒の山のいただきも見ゆ
   青丹よし奈良の都の春日野の春日の山も霞みてぞ見ゆ
 
 ただ、愚庵の健康が優れません。
 明治34年5月5日、愚庵は「遺物贈与之事は悉元策の勝手たるべし。但し従来寄付者の姓名知れおるものにて、珍本奇書あるいは大切の品々は、該寄付者へ迎付するを好しとす。我が買得たる品物は尽く元策の所有とすべし」と遺書をしたためます。
 ただ、不思議なことにこれ以降、愚庵は小康を保ちます。子規は『仰臥漫録』の同年9月5日に「青崖と愚庵芭蕉と蘇鉄哉」という句を記しています。この月に青崖が愚庵のところにしばらく滞在することがわかったからでしょう。
 明治35年、36年と、愚庵は各地に出かけています。明治35年は陸羯南とともに伊勢へ、明治36年は道後温泉で新年を迎えます。そして、5月には上京し相撲観戦を楽しんでいます。死期が近いと悟った愚庵は、無理をしてでも各地を旅したのでした。
 
 明治37年の元日に「童謡二十首」が新聞「日本」に載りますが、その夜に発熱します。死を覚悟した愚庵は、14日夕刻、遺言状を書くと翌日から薬餌の全てを断ち、看病や見舞いの人に一々手を握って別れの挨拶をしました。16日には法弟に身を拭ききよめさせ、麻の法衣をまといます。17日の午前11時過ぎには法弟を促して読経をさせ、それが終わろうとする時にあの世へと旅立ちました。






最終更新日  2021.11.24 19:00:06
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2021.11.23
カテゴリ:正岡子規
「そういう自然派なら、文学のほうでも結構でしょう。原口さん、絵のほうでも自然派がありますか」と野々宮さんが聞いた。
「あるとも。恐るべきクールベエというやつがいる。ヴェリテヴレイ。なんでも事実でなければ承知しない。しかしそう猖獗を極めているものじゃない。ただ一派として存在を認められるだけさ。またそうでなくっちゃ困るからね。小説だって同じことだろう、ねえ君。やっぱりモローや、シャバンヌのようなのもいるはずだろうじゃないか」
「いるはずだ」と隣の小説家が答えた。(三四郎 9)
 
 クールベエとは、フランスの画家ギュスターヴ・クールベのことです。写実主義運動を率いて19世紀フランス絵画の革新者として大きな影響を与えました。
 クールベは、宗教的な主題や伝統的な絵画を否定し、自分が実際に現実で見たものだけを描きました。
 当時の絵画は古代の神々や殉教者、英雄などを理想化された姿で描いたものでしたが、クールベは市井の人々を描いて「歴史画」と称しました。そのため、クールベは酷評されたのでした。
 1855年にパリ万国博覧会が開催された時、クールベは代表作とされる『画家のアトリエ』と『オルナンの埋葬』を出品しますが、落選してしまいます。そこでクールベは博覧会場のすぐ近くに小屋を建て、これらの作品を公開しました。この作品展は、世界初の「個展」だといわれています。
 
 1789年のフランス革命から30年後に誕生したクールベでしたが、人民の権利と平等を目指すために、貧しい農民や労働者の姿、美化されていない女性のヌードなどの写実表現を実践しています。この運動に賛同した画家にミレーやドーミエがいます。
 また、クールベは1871年のパリ・コミューンの際にヴァンドーム広場のコラムの解体に関与したため、6ヶ月間投獄されています。釈放後は、スイスへ移り、死ぬまでそこで過ごしました。この時代は、1848年にマルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』が刊行されるなど、社会主義やより急進的な共産主義が誕生しており、貧困や社会的不平等についての意識が先鋭化した時代でもありました。クールベは社会活動家ともなっていたのです。
 
『三四郎』の原口氏は「自然派」と称していますが、初の個展である「レアリスム宣言」において、「自分は生きた芸術をつくりたいのだ」といっており、「写実派」としたほうがいいのかもしれません。
 左翼的な芸術家として捉えられ、作品を通じて大胆な社会的声明を発する社会芸術家として位置づけされ、近代絵画の創始者のひとりとしみなされることもあります。






最終更新日  2021.11.23 19:00:04
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カテゴリ:正岡子規
 明治31年3月26日、子規は再び愚庵に和歌の極意について聞いています。子規の場合、自分の方向は定めているのですが、それでも人に意見を聞こうとします。
 子規は「雅語と俗語の差と、それをわかに生かすことができるかという点」「三代集(「古今和歌集」「後撰和歌集」「拾遺和歌集」)を謗ることについて」の2点について愚庵に尋ねています。
 これは、「日本」に掲載した「歌詠みに与うる書」への反響が子規の想像以上に大きかったことを示しています。
 
 御手紙拝誦仕候。その後御快方之由奉賀候。この両三日大分暖かに覚え候。御地も同しことと存候。
 歌のことにつき御教誨を被り難有存候。
 梅か香云々のこと歌に詠まれぬというにあらず。もちろん趣味深きように他の配合物を択んでよまば梅が香の歌千も万も面白きもの出来可申候えども、従来の歌の如く梅が香を闇とか月とかいう位のことばかりを配合して同じようなこと詠み候を誹りたるまでに候。
 雅語と俗語のことに付きては、もとより俗語を善しとするには無之、雅語の可なる場合には雅語を用い、俗語の可なる場合には俗語を用いんと申すものに有之候。雅語を用いたりとて歌が雅になるとも限り申さざるべく(今のいわゆる歌よみの如き雅語を用いて随分俗な歌を作り申候)俗語を用いたりとて必ずしも歌が俗になるものにても無きかと存候。お姫様のぬらくらとして善いも悪いも芋の煮えたも知らで、おばさんよりは乞食の子のかいがいしく親に仕えたらんこそとうとけれと被思候。雅俗は形の上にもあれど心の上の雅俗が一層注意すべきことかと存候。御書面中にある俗語の例など、私は面白く覚え候。
   ベラボーメくそをくらへと君はいへど
      (コン畜生にわれあらなくに)試みにつけ申し候
 という歌を短冊に書きても「心あてに折らはや折らむ初霜のおきまとはせる白菊の花」などいう歌を短冊に書きたる程には見苦しからずと存候。ベラボーメの歌の方が調が高しと存候。またベラボーメの歌趣向とてもなけれど躬恒の歌の趣向のいやみ多きには勝ると存候。これを喩え候わんに躬恒の歌は金殿玉楼の中に住む貴人のいい加減な法螺を吹きて気取りたるが如くベラボーメの歌は市井の小児の善も知らず悪も知らず天真爛漫のままに振舞うが如し。私は後の方が心持よく覚え申候。
 漢語につきても同様のことに候。漢語ならでは言えぬことはもちろん、国語にも漢語にもあることにてもことさらに国語を捨てて漢語を取る方が面白き場合、しばしば有之かに存候。例えばふかみくさといわずして牡丹と詠む方が善き場合など、私はしばしば実験いたし候。八大龍王にてもこれを「八つの龍のおおきみ」(七の賢き人の例に傲いて)といい得べしとするもなお八大龍王という方がまされるかと存候。「阿耨多羅三藐三菩提の仏たち」の歌にても、これが漢語や国語に訳し得らるるものとするもなお仏語を用うる方
がまさり居候と存候。日本語などに訳し候はば、恐らくは興味索然といたし候わんか故に、私の存じ侯は漢語でも梵語でも用いて善き場合には用うるが善しと存候。
 三代集を誹ることにつきの御叱り恐入候。とにかく何百年の間たて物とせられたる古今集や貫之や躬恒やをひっつかまえて味噌の糞のと申候こと、私の身の上より申さばもとよりあるまじきしわざと存候えども、今の歌人の余り意気地なさに腹が立ち候ままかかることにも及ぴ申候。しかし貫之以下の歌につきては如何御考え被成候や、歌として見候わば趣味ある歌(一二を除きては)少くと存候。既に万葉の歌を善しとする上は、古今集以下の歌は善しとは思われぬ訳と存候。(実朝卿のは特別に候)
 私どもがくだらぬ歌などつくり候えども、これが歌の唯一の恨と存候には無之候。もとより一体として存ずれば善きものに有之候。古来の歌の想を破壊すぺしなどと申し候も、畢竟古今以来今日に至るまでの弊風をいうものにして、万葉の歌の想を破壊せんとするものには無之候。万葉調は大に興すべきものと存候。
 もののふの八十氏川の歌につきては他日新聞にて弁明するつもりなれとも、あの歌を左程誹りたるものにては無之、ふと思いつき候こと有之候まま引合に出し候えども、八田の歌などと並べしは悪かりしと存居候。あの歌は善き歌として異論無之候。
 素人が歌や詩を評せしを例にあげて御誠め被下候はチトなさけなく存候。もとより私等歌の学問を深くしたる訳にもあらねば、間違は澤山可有之候えども、間違ったことは分り次第漸次に相改め可申、とにかくどこまでもやるつもりに有之候。局外者が一寸試みたるデモ評とは精神において異り可申候。今度のことにても一朝一夕の出来心には無之、数年来の計画、機を得て一時に被したるものに候。今まで歌のことというといつも先輩と意見を異にしために愚見を十分に吐露するを得ずして終り候。
 
それ故この度ははじめより羯南翁に請いて歌論及ぴ拙作掲き承諾を得申候次第に候。しかし掲載後も翁よりは常に注意を受け居候。
 湖村子先夜来り漢語の事につき話有之、その説に「五畝の宅」とか「御歌を吟すれば」とかいう位は可なれども余り沢山用いては困るとのことに候。その外いろいろ話あり候。夜の二時に及ぴ候ことも有之候。
 右御返事かたがた相認候。失礼の処は御海容被下度候。実は御返事出すことも如何すべきと存居候いしかども黙々に附するは礼にあらずと存、また御返事出す上は心に不服なるを隠して表面いい加減に申置候も良心に咎むるところあり、終に思う存分申述候まま、いよいよ失礼の言多かるべくと存候。衷情御察可被下候。謹言。(愚庵宛書簡 明治31年3月26日)






最終更新日  2021.11.23 12:38:57
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2021.11.20
カテゴリ:正岡子規
 俳句革新運動に成功した子規は、次に和歌革新に取り組みます。明治26年の『文学八つあたり』、明治28年の『棒三昧』などで、和歌の衰退ぶりや万葉集の素晴らしさを語っていた子規は、明治31年2月12日から『歌よみに与ふる書』を「日本」に連載します。
 子規はこの中で『古今和歌集』と紀貫之を批判し、『万葉集』を高く評価した。俳句革新で芭蕉批判を展開した事例に習い、歌人の聖典である『古今和歌集』と歌聖・紀貫之を全否定し、新しい価値観を提示しました。
 子規の論に対する反発は俳句の比ではありませんでした。「日本」社内でも、子規の論にやりすぎだと反対の声が上がり、掲載の中止も考えられたのです。また、短歌革新を掲げた与謝野鉄幹からも子規は攻撃されています。
 
 ただ、この考え方は、愚庵の和歌から導かれたものでした。前項に記した愚庵に送った和歌をきっかけとして、子規は大いなる変革を遂げたという子規研究者もいます。
 
 この時期、子規は愚庵に手紙を送りました。
 
 拝啓仕候。余寒ことの外烈敷候処御起居如何候や。承れば少と御いたわり之由、この余寒には誰も誰もやられ候ようにて、私なぞも今年は存外健康にてひそかに誇り居候処、終に血痰を見申候。しかしそれは二三日にてやみ、まずまずよろしき方に御座候。
 この頃歌をはじめ候処、余り急激なりとて陸翁はじめ皆とに叱られ候えども、やりかけたものなら死ぬるまでやる決心に御座候。昨夜も湖村子来訪、歌の話に夜の二時頃まで更かし申候。同子も漢語が多過ぎると申て忠告いたしくれ候。前月末頃は歌のために苺夜二時三時に及び、あるいは徹夜など致し候。この頃のよわりも多少はそれにも原因致候いけんと存候。
 もっとも愚見は漢語を用いざれば歌にならずなど申には無之、万葉調などは大に好む所に御座候。人は誤解致居候。
 別冊新俳句進呈致候。これは巻尾に愚庵十二勝の俳句を記し置たれば、御一覧に供うるばかりに御坐候。以上。(明治31年3月18日天田愚庵宛書簡)
 
 この手紙を読んだためでしょうか、愚庵が羯南に送った手紙には「この頃、正岡寄書歌論すこぶる得意の様子ゆえ、我不服の廉両三件申遣候。彼の論新紙上掲る以上は、老兄にも御同意と奉察候えども、余り言過ぎてはいわゆる口業をつくるものにして、その徳を損すること多からんを恐るる也。貫之、躬恒の歌と彼百中十首と比べ候えば、論ずる迄までもなきことかと存候。しかし今の世中には如何か不存候ども、過ぎたるは及ばざる如く、かえって従来博し得たる彼れか盛名を累(わざわい)することになりはせぬかと心配致候。現在の人を論するさえ易きことなれば、古人を論するは死人に口なし。反駁の恐れもなくすこぶる安心のものなるべけれども、君子はいささかか慎みたきものと存候。御意見承度候(天田愚庵 明治31年3月24日陸羯南宛書簡)」と書き、一方的に古今集を非難することは、かえって子規の名声を傷つけることになりはせぬかと愚庵は心配しています。
 
 仰せの如く、近来和歌は一向に振い申さず候。正直に申し候えば、万葉以来、実朝以来一向に振い申さず候。実朝という人は三十にも足らで、いざこれからというところにてあえなき最期を遂げられ、誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かしておいたなら、どんなに名歌をたくさん残したかも知れ申さず候。……『古今集』の長歌などは箸にも棒にもかからず候えども、箇様な長歌は古今集時代にも後世にもあまり流行らざりしこそ、もっけの幸いと存ぜられ候なれ。されば後世にても長歌を詠む者には直に万葉を師とする者多く、従ってかなりの作を見受け申し候。今日とても長歌を好んで作る者は短歌に比すれば、多少手際よくでき申し候。(歌よみに与ふる書)
 
 貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集にこれあり候。その貫之や『古今集』を崇拝するは誠に気の知れぬことなどと申すものの、実はかく申す生も数年前までは『古今集』崇拝の一人にて候いしかば、今日世人が『古今集』を崇拝する気味合いは能く存じ申し候。崇拝している間は、誠に歌というものは優美にて『古今集』はことにその粋を抜きたる者とのみ存じ候いしも、三年の恋一朝にさめて見れば、あんな意気地のない女に今までばかされておったことかと、くやしくも腹立たしく相なり候……それでも強いて『古今集』をほめていわば、つまらぬ歌ながら万葉以外に一風を成したるところは取得にて、いかなる者にても初めての者は珍しく覚え申し候。(再び歌よみに与ふる書)






最終更新日  2021.11.20 19:00:07
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2021.11.18
カテゴリ:正岡子規
 明治30年5月18日、子規の柿好きを知る愚庵は「園中の柿秋になり候ば一筺差上可申と今より待居候」という手紙を送りました。
 10月10日、愚庵は庵に仮寓していた桂湖村に頼んで、「釣鐘」という名の大きな柿15個とマツタケを届けてきます。子規は早速3個食べ、その夜に10個を食べました。
 当時、子規は小説『曼珠沙華』を書いていて忙しく、愚庵への礼状を出すのが遅れていました。
 10月28日に「多年の思い今日に果たし候」という愚庵への礼状を出すと、その翌朝に湖村が子規を訪ねてきます。湖村へのハガキには6首の短歌が記され、そのなかに「正岡はまさきくてあるか柿の実のあまきともいわずしぶきともいわず」と詠まれています。
 
 〈愚庵は心配している。しかも、礼状はまだ愚庵のもとに届いてない〉
 そう考えた子規は、再び詫びの手紙を送ります。「柿の実のあまきもありぬかきのみの渋きもありぬしぶきぞうまき」という短歌は、愚庵のハガキの歌への返歌でした。
 翌年の柿の季節には、当時大阪朝日新聞京都支社の記者をしていた寒川鼠骨の提案で、愚庵の柿を枝ごと折り、夜汽車に飛び乗って東京の子規の家までそれを届けます。
 今回の子規は、前回の愚を繰り返さないよう、愚庵宛ての礼状をすぐさま送っています。
 しかし、柿を届けた鼠骨に、思わぬことが起こります。日頃から鼠骨を快く思っていなかった同僚が、仕事の途中で上京した鼠骨を非難したのです。たまたま京都に来ていた陸羯南に相談して、鼠骨は辞表を会社に提出します。
 愚庵の釣鐘柿には、厄介ごとの種が潜んでいるようにも思えます。
 
 拝啓御起居如何に御座候哉。先日は湖村氏帰京の節、佳菓御恵投にあずかり奉萬謝候。多年の思い今日に果し申候。
 右御礼旁 敬白
  十月二十八日   常規
 
 愚庵輝師 御もと
   御佛に供へあまりの柿十五
   柿熟す愚庵に猿も弟子もなし
     釣鐘といふ柿の名もをかしく聞捨かたくて
   つりかねの蔕のところが渋かりき
  出たらめ御叱正可被下候(愚庵宛書簡 明治30年10月28日)
 
 昨夜手紙認めおわり候処、今朝湖村氏来訪御端書拝誦。御歌いずれもおもしろく拝誦仕候。失礼ながらこの頃の御和歌春頃のにくらべて一きわ目だちて覚え申候。おのれもうらやましくて何をかなと思い候えども、言葉知らねばすべもなし。さればとてこのまま黙止て過んも中々に心なきわざなめりと俳諧歌とでも狂歌とでもいうべきもの二つ三つ出放題にうなり出し候。御笑い草ともなりなんにはうれしかるべく。あなかしこ。
   十月二十九日      つねのり
   愚庵禅師 御もと
   みほとけにそなへし柿のあまりつらん我にそたひし十あまりいつつ
   柿の実のあまきもありぬかきのみの渋きもありぬしふきそうまき
   籠にもりて柿おくり来ぬふるさとの高尾の山は紅葉そめけん
   世の人はさかしらをすと酒のみぬあれは柿くひて猿にかも似る
   おろかちふ庵のあるしかあれにたひし柿のうまさのわすらえなくに
   あまりうまさに文書くことそわすれつる心あるごとな思ひ吾師
 発句よみの狂歌いかが見給うらむ(愚庵宛書簡 明治30年10月29日)






最終更新日  2021.11.18 19:00:08
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2021.11.16
カテゴリ:正岡子規
 明治27年から体調を崩していた愚庵は、翌年、療養先の須磨で新年を迎えます。ようやく退院して、清水に戻った愚庵は、庵から見える風景十二景を選び、「愚庵十二勝」として発表します。そして、日本新聞紙上で様々な人に声がけして、同志を募りました。和歌だけではなく、漢詩や絵などの参加も呼びかけています。
 中村不折は、「古銭擬愚庵十二勝」という古銭にちなむデザインを出しました。
 愚庵のところに押しかけて、親しくなっていた朝日新聞社の寒川鼠骨が、その年の暮れに子規の病を知らせてきました。12月9日、愚庵は子規のところに見舞状を送ります。
 
 近来御無沙汰仕候。鼠骨生昨日来候。君の消息を伝うるに病追々進むと十分自愛し給え。我愚作あり。
 
   まだ死ぬな雪の中にも梅の花
   独して急ぐ旅かは雪のそら
   こたつして君和韻せよ十二勝
   浄林の釜に我を独でしぐらすな
 
 句になるものありや否や、もし万一死期近きにありと思わば、片身と思い、十二勝を和してくれ給え。
 千万自玉
   十二月九日  愚庵
  子規宗匠搨下
   見舞ひして我先立つも知れず雪の路
 
 この愚庵の見舞い状に応え、子規は俳句の仲間たちと「愚庵十二勝」に唱和します。
 この内容を12月24日の「日本」『松蘿玉液』に載せました。
 
〇愚庵十二勝というを択びて詩を作らる。王維の悌(おもかげ)をとどめておもしろし。この詩一たび出でて唱和の作山の如く庵主の徳を慕う者多し。この頃庵主書を寄せていう老少不定なり、子が病また重きを加うと。願わくは十二勝を和してわがための紀念(かたみ)とせよ。あるいは知らず我かえって子に先だって逝くを。云々。わが病やや間あり。この書を見て覚えず徴笑を漏らしぬ。すなわち害を返していう、われ詩を善くせず。推敲日を移さばあるいは終に高嘱に負(そむ)かん。因りて同人とともに俳句十二首を作りもって責を塞ぐ。ただ俳句は詩に比して暴露に傾くの嫌いあり。しかれども暴露かえってこれ禅家の真面目なりと信ず。伏して厳斧を請う。
 
     帰雲巌
   秋落葉石冷えて雲帰るべく    碧梧桐
   午頃にしぐれし岩の夕日かな   虚子
   吹きたまる岩の窪みの霰かな   把栗
   雲消えて花ふる春の夕かな    子規
     霊石洞
   石を為す鍾乳の露滴るよ     碧梧桐
   雪を丸めて仏を造る雪の朝    虚子
   仏の灯清水にうつる洞午なり   把栗
   春風や眼も鼻も無き石仏     子規
     梅花𧮾
   白梅は紅梅に劣る厠かな     碧梧桐
   散る梅の掃かれずにある窪みかな 虚子
   暁の山に月出づ梅の花      把栗
   活けんとす梅こぼれけり維摩経  子規
     紅杏林
   君心ありて伐り捨てざりし杏かな 碧梧桐
   鴉ありて白李の種を盗みけん   虚子
   鳥啼くや杏の花に日三竿     把栗
   霊聖女来らず杏腐り落つ     子規
     清風関
   更衣出べくとして我約ありし   碧梧桐
   敲けども/\水鶏許されず    虚子
   竹林に昼の月見る涼しさよ    把栗
   涼風や愚庵の門は破れたり    子規
     碧梧井
   桐にしてかぶさる井戸の青葉かな 碧梧桐
   桐を栽ゑて古びし井戸を新らしむ 虚子
   山の井の底に沈める一葉かな   把栗
   桐掩ふ庭の清水に塵もなし    子規
     棗子逕
   長い棗円い棗も熟しけり     碧梧桐
   熟したる棗の下に径を為す    虚子
   鉄鉢に棗盛りたる僧奇なり    把栗
   行脚より帰れば棗熟したり    子規
     採菊籬
   菊一籠ここに愚庵十二勝を成す  碧梧桐
   鋏誤つて白菊を切る黄菊かな   虚子
   昼鎖す間に菊花の乱れ咲く    把栗
   霊山の麓に白し菊の花      子規
     錦風崕
   僧僧を送り出でて紅葉夕日なり  碧梧桐
   崖の上に鳴かざる鹿の馴れて来る 虚子
   崖を削つて道つくるべく蔦紅葉  把栗
   紅葉散りて夕日すくなし苔の道  子規
     霽月壇
   物干に月一痕の夜半かな     碧梧桐
   犢鼻褌を干す物干の月見かな   虚子
   松はしぐれ月山角に出でんとす  把栗
   鳴けば月あらはるる山の上    子規
     欄柯石
   寒夜一棋石盤をうつて嗚る    碧梧桐
   石の上に春帝の駕の朽ちてあり  虚子
   閑古鳥僧石に詩を題し去る    把栗
   野狐死して尾花枯れたり石一つ  子規
     古松塢
   松に蔦風吹き荒れて塚ならざる  碧梧桐
   草枯れて松緑なる御法かな    虚子
   蛇の衣のかかる木末や雲の峰   把栗
   冬枯や日<庭前の松樹子     子規(松蘿玉液 明治29年12月24日)






最終更新日  2021.11.16 19:00:05
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2021.11.14
カテゴリ:正岡子規
 明治25年11月、子規が母と妹を東京に引き取るために神戸まで出向いた折、京都に立ち寄り、その月の12日に清水寺近くにあった産寧坂の愚庵宅を訪ねるのですが留守で会えず、15日に寺町で買い求めた柚味噌を土産に愚庵へ向かいました。
 陸羯南と愚庵は親交があったため、そのつてを活かして尋ねることができたようです。
 この出会いは、「日本」に連載されていた「松蘿玉液」の明治29年12月23日に書かれています。「松蘿玉液」は4月23日から日を挟んで連載され、10月22日に中絶となり、12月23日から始まっています。京都の紅葉の話で始まり、嵐山を書いて、愚庵の話に転じます。
 
〇愚庵は東山清水のほとりに在り。ある夜虚子を携えて門を叩きしに庵主折節内にいたまいてねんごろにもてなさる。庵は方丈に過ぎず、片隅に仏壇を設け片側に二畳をしきりて炉を切りたり。廬は絶壁に椅りたれば、窓の下直ちに谷に臨み谷を隔て、霊山手に取るが如し。窓は東に向って開き、机は山に対して安んず。主客三人僅かに膝を容るに過ぎざれど境、静かに人、俗を離れたればただこの世の外の心地して気高き香いの室内に満ちたるを覚ゆ。三人炉を囲んで話興に入る時、茶を煎て一服を分たる。携え来りし柚味噌を出だせば庵主手を拍って善哉と呼ぶ。
 
   老僧や掌に柚味噌の味噌を点す
 
 庵主炉上の釜を指して曰く、こは浄林の作にして一箇の名物なるをある人の喜捨によりしものなりと。言わるるままにつくづくみれば菊桐の紋一つ二つ鋳出すなるが、いたく年古りたりとおばしくゆかしき様なり。つたなき俳句などものすれば短冊にしたためてよと強いらるるいなみも得ず、庵主能書なれば代りにその筆跡を得て帰りぬ。それより後汽車にて京都を乗り過ぐることあれど俗縁にまつわられて得驚かさず。この春庵主東遊のついで我が庵をさえおとづれたまいて高き鼻長き眉、羅漢をうつしたらんが如き秀でたる容顔は昔にも変らじと見しものから、東山の廬は常に吾が夢をはなれず。月の朝、しぐるる夕、ものにつけて思い出づるは彼の釜になん。
 
   凩の浄林の釜恙なきや(松蘿玉液 明治29年12月23日)
 「松蘿玉液」の句は、新しく詠んだもので、25年の訪問の際は次の句でした。
   愚庵
   紅葉ちる和尚の留守のゐろりかな
   鉄眼師によす
   凩や自在に釜のきしる音
   訪愚庵
   浄林のに昔をしぐれけり
 
当時の日記には、十一月十二日に「訪愚庵禅師干霊山下」、十五日に「虚子来。共訪鉄眼和尚。閑談干夜深」と記されています。
 
 また、「松蘿玉液」には、12月30日に柚味噌のことが書かれ、「柚味噌としいえば京都のこと先ず思わるるぞかし」と記しています。
 
〇ある夜
 病やや癒えて痛もほぼやみたるものから頭脳なやましく安く寝られず。夢ともなくうつつともなくしきりに「青梅を打てばかつ散る青葉かな」「出女の青梅をかつ木履かな」という句を口の中に繰り返す。繰り返してはいよよ安からず覚えて終にはいつとなく全くのうつつに返りそれより何故とは知らず考は柚味噌に移りぬ。病み臥してこのかた発句など思ひもつかざりしが柚味噌を思いいでてより柚味噌の句つくらまほしくて眠らんとすれど目さえて眠られず。終に二十首ばかりを得たり。やがてしらしらと夜明けければ虚子を呼び起してその句を記さしむ。その中に
 
   われ病んで京の柚味噌の喰ひたかり
   柚味噌買ふて吉田の里に帰りけり
   柚の木冗(きこつ)として京極に柚味噌出づ
   柚味噌の蓋釜の蓋程に切り抜けり
   柚味噌尽きて更に梅干を愛すかな
   昨夜星落ち今朝柚味噌到る
 柚味噌としいえば京都のこと先ず思わるるぞかし。(松蘿玉液 明治29年12月30日)
 
 愚庵は子規庵を訪れたこともありました。
 明治26年の夏、子規が『はてしらずの記』のために奥羽へ行こうとする前、瘧(おこり)に悩まされていた頃です。『はてしらずの記』のはじめに「ある日鉄眼禅師のわが病牀をおとずれて、今より北海行脚にと志すなりと語らる、に、羨ましさは限りなけれども羽抜鳥の雲井を慕う心地して」と書き、「涼しさやわれは禅師を夢に見ん」の句を詠んでいます。






最終更新日  2021.11.14 19:00:08
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2021.11.12
カテゴリ:正岡子規
 天田愚庵はユニークな人物です。
 安政元年、磐城平藩士・甘田平太夫の5男として生まれました。本名は五郎で、幼名は久五郎と言います。
 明治元年、戊辰戦争において磐城国も戦場となったため、数えで15歳の身ながら戦場に身を置きます。しかし、落城したので仙台に敗走。戦乱のために、疎開していた父母と妹が行方不明になりました。
  
 久五郎は、帰藩して許され、藩校・佑賢堂に学びます。明治4年には上京してニコライ神学校に学ぶと、ひょんなことから小池詳敬と知り合って山岡鉄舟の門に入り、国学を学んで小池詳敬とともに東海道・中国・九州を歴訪しました。佐賀の乱の際には、反乱分子と間違われて投獄されたこともあります。獄中では、いいこともありました。万葉歌人の丸山作楽と知り合い、短歌と国学を学んだことです。この学びは、以後の久五郎の人生を決定づけました。
 明治10年、恩人であった小池詳敬が死去すると、その遺された6人を京都の親戚に送り届け、帰路には行方不明になった父母と妹父母妹を探しながら北陸方面を巡って東京に戻ります。当時の司法学生で、のちに「日本」新聞代表になる陸羯南や子規の叔父・加藤拓川と知り合ったのはこの頃でした。
 明治11年、山岡鉄舟の紹介で清水次郎長に預けられます。翌年には、父母と妹を探すために写真師・江崎礼二の門に入り、旅回りの写真師となって小田原で写真店を開業しました。しかし、父母と妹の手がかりはありません。清水次郎長から養子とならないかとの声がかかり、山本五郎と名を改めました。
 明治17年には、次郎長一家誕生から荒神山の喧嘩までの話を本にまとめた「東海遊侠伝」を刊行。この内容は、のちに浪曲となって浸透し、清水次郎長の名は全国響くようになりました。久五郎がこの「東海遊侠伝」を書いたのは、当時次郎長は「賭博犯処分規則」により静岡県警察本所に逮捕されていたため、その用語の気持ちもあったの手はないかといわれています。この甲斐あってか、次郎長は明治翌年に刑期の満了を待たずに仮釈放となっています。
  
 清水次郎長の富士山裾野の開墾事業をすすめますが事業は思わしくなく、閉鎖されてしまいました。その責任を取って清水次郎長の養子を辞し、天田の姓に戻します。鉄舟の世話で有栖川宮に奉職したのち、明治19年には、大阪内外新報社に入社し、山岡鉄舟の紹介で京都林丘寺に参禅。翌年に出家し、鉄眼と名乗りました。
 鉄舟が他界して4年、京都清水産寧坂に草庵が完成したため、そこに住まいを移し、庵を「愚庵」と名付け、自らも「愚庵」と号しました。






最終更新日  2021.11.12 19:00:07
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2021.11.10
カテゴリ:正岡子規
 帰国した羯南は、旅の疲れからか体調が優れず、7月頃から床に臥せるようになり、12月からは湯河原温泉で療養しています。帰京するのは2月でしたが、25日には鎌倉長谷で静養しています。「日本」では、近衛篤麿に融通してもらった借金が近衛家のものか、「日本」のものかの問題が起こりました。しかし、この問題はなかなか片付かず、明治39年になって、羯南は「日本」を伊藤欽亮に売却することを決めました。
 6月23日号には伊藤欽亮の名前で、「余は『日本』の最も重んずべき新聞紙なるを知り、這次これを継承し、来る七月一日以後は余の全力を挙げてその経営に従事せんとす。今後の『日本』は斯業に老熟せる従来の社中を中枢とし、新に社員を加えて大にその発展を試みんとす。将来の紙上は政治、文学、経済、軍事を首め社界百般のことを網羅して、漸次欧米の有力なる新聞紙に追随せんことを期す」との文章を掲げました。
 
 譲渡の際、伊藤欽亮は経営のみにあたり、言論報道は今まで通り三宅雪嶺や古島一雄らが担当するという約束でした。しかし、伊藤と三宅らとの間に対立が生じ、この年の12月4日、三宅雪嶺、古島一雄、長谷川萬次郎、千葉亀雄ら22名の社員はいっせいに退社してしまいます。三宅雪嶺ら一部社員は、政教社において再び羯南と合流し、明治40年1月1日から雑誌『日本及日本人j を発刊することになりました。
 
 しかし、羯南の病状は悪化していきました。明治40年1月、鎌倉極楽寺村に新築した別荘に移って静養につとめたのですが、4月頃には神経痛や発熱という状態になり、7月24日の加藤拓川に宛てた手紙で、「患者たる老生の自覚につきては余命長くはあらじと感じ申候」と死を覚悟しています。この月末に大喀血を繰り返し、9月2日に51歳で永眠しました。9月3日の「東京朝日新聞」は、「陸実氏逝去」と題して、「肺結核にて久しく鎌倉の別荘に療養中なりし前日本新聞主筆陸実氏は、先月初旬喀血し、臨来容体面白からず、親戚知友の痛心一方ならざりしが、幸いにその後少しずつ快き方に向い、この分ならば、先ず当分はと思われしに、一昨夜来病勢俄かに革まり、終に昨日午後二時五十分をもって、濫然逝去せり。悼哉。氏は青森県弘前の人、行年四十九歳」と報じました。
 9月5日、谷中全生庵での葬儀には、司法省法学校以来の友人である原敬をはじめ、犬養毅、徳富蘇峰、杉浦重剛など500余名が会葬。墓は、染井墓園にあります。
 
 柴田宵曲の『子規居士の周囲』の陸羯南の項の最後は、次の言葉で結ばれています。
 
 鳴雪翁はかつて「知己といえば居士終身の恩人は陸翔南氏であろう」といい、「先ず日本新聞に招聘して、未だ居士が若年であったにも拘らず特にそれを優待し、また新聞の第一面を割て俳風表出の地を与えられたことなどは誰も知る所であるが、その他居士が家計に注意し、それを隣家に引き寄せて親戚も及ばぬ世話をなし、なかんずく日清戦争従軍前
後の配慮、また発病後の療養に至るまで非常なる保護を加え、十数年の久しき間いつも間接直接に庇蔭を与えられていたのである。これは吾々同人は長く心に銘記し、私には親友居士の大恩人とし、公には斯道興隆の援助者として大いにこれを謝せねばならぬ」と述べられた。これは正にその通りで、何等蛇足の加うべきものが無い。もし知已とか、恩人とかいう以外に、もっと羯南翁の風神を躍動せしむるような言葉があったらと思うが、ついに発見し得ぬのを遺憾とする。(柴田宵曲 子規居士の周囲 陸羯南)






最終更新日  2021.11.10 19:00:08
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