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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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子規と漱石

2020.05.30
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カテゴリ:子規と漱石
 子規が「探幽の失敗」を書いてから25年後、子規の死から17年後……。大正2年12月12日、母校の第一高等学校で「模倣と独立」という講演を行いました。この講演で漱石は、人間の本性には「イミテーション」と「インディペンデント」があり、明治という時代を終えて、日本は西洋のモノマネに終始することなく、日本独自のものを目指すべきだと説きました。ただ、この中で「イミテーション」を完全に否定するのではなく、「イミテーション」と「インディペンデント」の「両方を持っていなければ、私は人間とはいられないと思う」とも語っています。また、「流行」も人の真似から始まるといい、人間は「人は模倣を喜ぶものだということ、それは自分の意志からです、圧迫ではないのです。好んで遣る、好んで模倣をするのです」と断じています。
 
 それでこのヒューマン・レースの代表者という方から考えて、人間という者はどんな特色、どんな性質を持っているか。第一私は人間全体を代表するその人間の特色として、第一に模倣ということを挙げたい。人は人の真似をするものである。私も人の真似をしてこれまで大きくなった。私の所の小さい子供なども非常に人の真似をする。一歳違いの男の兄弟があるが、兄貴が何かくれろといえば弟も何かくれろという。兄が要らないといえば弟も要らないという。兄が小便がしたいといえば弟も小便をしたいという。それは実にひどいものです。総て兄のいう通りをする。丁度その後から一歩一歩ついて歩いているようである。恐るべく驚くべく彼は模倣者である。
 近頃読んだ本でありませんがマンテガッツァの『フィジオロジー・エンド・エキスプレション』という本の中にイミテーションということについて例を沢山挙げてありましたが、私は今一々人間という者は真似をするものであるということの沢山な例を記憶しておりませんが、ここに二つ三つあります。例えば、一人の人が往来で洋傘を広げて見ようとすると、同行している隣りの女もきっと洋傘を広げるという。こういう風に一般にある程度まではそうです。往来で空を眺めていると二人立ち三人立つのは訳はなくやる。それで空に何かあるかというと、飛行船が飛んでいる訳でも何でもない。けれども飛行船が飛んでいるとか何とかいえば、大勢の群集が必ず空を仰いで見る。その時に何か空中に飛行船でも認めしむることが出来ないとも限らない。
 それほど人間という者は人の真似をするように出来ている情けないものであります。それでその、人の真似をするということは、子供の内から始まって、今いったような些末の事柄ばかりでない、道徳的にもあるいは芸術的にも、社会上においてもそうである。無論流行などは人の真似をする。われわれが極く子供の内は東京の者はこんな薩摩飛白などは決して着せません。田舎者でなければ着ないものでした。それを今の書生は大抵皆薩摩飛白を着る。安いからか知りませんが、皆着るようになった。それから一時白い羽織の紐の毛糸か何かの長いのをこう――結んで胸から背負って頸に掛けておった。あれも一人やるとああなるのであります。私たちの若い時は羽織の紋が一つしきゃないのを着て通人とか何とかいって喜んでいた。それが近頃は五つ紋をつけるようになった。それも大きなのが段々小さくなったようだが、近頃どの位になっているのか。私は羽織の紋が余り大きいから流行に後れぬように小さくした位それほど流行というものは人を圧迫して来る。圧迫するのじゃないが、流行にこっちから赴くのです。イミテーターとして人の真似をするのが人間の殆ど本能です。人の真似がしたくなるのです。こういう洋服でも二十年前の洋服は余り着られない。この間着ていた人を見たけれども可笑しいです。あまり見っともよいものではない。殊に女なんぞは、二十年前の女の写真なんぞは非常に可笑しい。本来の意味では可笑しいとは自分で思っていないけれども、つくづく見ると、やはり模倣ということに重きを置く結果、どうもその自分と異なった物、あるいは世間と異ったものは可笑しく見えるのであります。そういう風にそれを道徳上にも応用が出来ます。それから芸術上は無論のことですね。そんな例は沢山挙げてもよいけれども、時間がないから略して置きます。とにかく大変人は模倣を喜ぶものだということ、それは自分の意志からです、圧迫ではないのです。好んで遣る、好んで模倣をするのです。(模倣と独立)
 
 この講演で漱石はゴーギャンを例に引きました。ゴッホと親交を結び、のちにタヒチに渡って島民の生活を描いたあの人です。
 

 
 繰り返して申しますが、イミテーションは決して悪いとは私は思っておらない。どんなオリヂナルの人でも、人から切り離されて、自分から切り離して、自身で新しい道を行ける人は一人もありません。画かきの人の絵などについて言っても、そう新しい絵ばかり描けるものではない。ゴーガンという人は仏蘭西の人ですが、野蛮人の妙な絵を描きます。仏蘭西に生れたけれども野蛮地に這入って行って、あれだけの絵を描いたのも、前に仏蘭西におった時に色々の絵を見ているから、野蛮地に這入ってからあれだけの絵を描くことが出来たのである。いくらオリヂナルの人でも前に外の絵を見ておらなかったならば、あれだけのヒントを得ることは出来なかったと思う。ヒントを得るということとイミテートするということとは相違があるが、ヒントも一歩進めばイミテーションとなるのである。しかしイミテーションは啓発するようなものではないと私は考えている。(模倣と独立)
 
 ただ、漱石は明治22年当時の子規のように、模倣を軽蔑しているわけではありません。イミテートは啓発されるようなものであり、そこからインディペンデントなものを目指す必要があると説きます。たとえ「イミテーション」と「インディペンデント」が人間の本質であるとしても「真似ばかりしておらないで、自分から本式のオリヂナル、本式のインデペンデントになるべき時期はもう来てもよろしい。また来るべきはずである」と、若き観衆に期待をかけています。
 
 今の日本の現在の有様から見て、どっちに重きを置くべきかというと、インデペンデントという方に重きを置いて、その覚悟をもってわれわれは進んで行くべきものではないかと思う。われわれ日本人民は人真似をする国民として自ずから許している。また事実そうなっている。昔は支那の真似ばかりしておったものが、今は西洋の真似ばかりしているという有様である。それは何故かというと、西洋の方は日本より少し先へ進んでいるから、一般に真似をされているのである。丁度あなた方のような若い人が、偉い人と思って敬意を持っている人の前に出ると、自分もその人のようになりたいと思う――かどうか知らんが、もしそう思うと仮定すれば、先輩が今まで踏んで来た径路を自分も一通り遣やらなければここに達せられないような気がする如く、日本が西洋の前に出るとここに達するにはあれだけの径路を真似て来なければならない、こういう心が起るものではないかと思う。また事実そうである。しかし考えるとそう真似ばかりしておらないで、自分から本式のオリヂナル、本式のインデペンデントになるべき時期はもう来てもよろしい。また来るべきはずである。
……自分でそれほどのオリヂナリテーを持っていながら、自分のオリヂナリテーを知らずに、あくまでもどうも西洋は偉い偉いといわなくても、もう少しインデペンデントになって、西洋をやっつけるまでには行かないまでも、少しはイミテーションをそうしないようにしたい。芸術上ばかりではない。私は文芸に関係が深いからとかく文芸の方から例を引くが、その他においても決して追っ着かないものはない。金の問題では追っ着かないか知らぬが、頭の問題ではそんなものではないと思っている。あなた方も大学を御遣りになって、そうしてますますインデペンデントに御遣りになって、新しい方の、本当の新しい人にならなければいけない。蒸返しの新しいものではない。そういうものではいけない。
 要するにどっちの方が大切であろうかというと、両方が大切である、どっちも大切である。人間には裏と表がある。私は私をここに現わしていると同時に人間を現わしている。それが人間である。両面を持っていなければ私は人間とはいわれないと思う。唯どっちが今重いかというと、人と一緒になって人の後に喰っ付いて行く人よりも、自分から何かしたい、こういう方が今の日本の状況からいえば大切であろうと思うのであります。(模倣と独立)






最終更新日  2020.05.30 19:00:07
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2019.07.16
カテゴリ:子規と漱石
   小娘の花の使の文箱かな  子規(明治28)
   麥蒔や色の黒キは娘なり  子規(明治28)
   愚陀仏は主人の名なり冬籠  漱石(明治28)
 
 漱石は、明治28年5月、二番町にあった上野義方に寓居し、「愚陀仏庵」と名付けました。子規は病気療養のため、松山に帰郷し、漱石のところに厄介になることを決めました。
「愚陀仏庵」は、現在の大街道の西、二番町と三番町をつなぐ横丁にあって、現在はパーキングになっています。
 
 高浜虚子の『漱石氏と私』には「明治二十九(本当は28)年の夏に子規居士が従軍中咯血をして神戸、須磨と転々療養をした揚句松山に帰省したのはその年の秋であった。その叔父君にあたる大原氏の家に泊ったのは一、二日のことで直ぐ二番町の横町にある漱石氏の寓居に引き移った。これより前、漱石氏は一番町の裁判所裏の古道具屋を引き払って、この二番町の横町に新らしい家を見出したのであった。そこは上野という人の持家であって、その頃四十位の一人の未亡人が若い娘さんと共に裏座敷を人に貸して素人下宿を営んでいるのであった。裏座敷というのは六畳か八畳かの座敷が二階と下に一間ずつある位の家であって、漱石氏はその二間を一人で占領していたのであるが、子規居士が来ると決まってから自分は二階の方に引き移り、下は子規居士に明け渡したのであった」と書かれています。
 柳原極堂の『友人子規』には、さらに詳しく「上野の家は今もなお昔のまま現存しておる(=昭和18年当時)。二番町と三番町とをつなぐ横町が四本ある。そのもっとも東の横町を二番町の本通から三番町の方へ曲って少し行くと、東側に更科蕎麦と看板をかけた蕎麦屋がある。そのすぐ北隣で西向きに繻子窓格子戸造りの軒端の低い相当古びた平家がある。それが当時の上野の家で、今は持ち主が変わっている。その蕎麦屋は前には無かったもので、漱石時代には大島梅屋という松風会員がそこに住んでいた。その梅屋は昭和八年物故した。何から誤伝されたか知らぬが、漱石時代の上野の家は今は蕎麦屋になっている、子規漱石二文豪同居の遺跡は、その蕎麦屋の奥に在るのだというような風説が一時立って、態々蕎麦屋へ尋ねて来た旅人などがあったと間いたが、怪しからんことだ」と、松風会員の梅屋が流したと考えられる風説に文句をしたためています。
 また「上野義方という人は旧松山藩の士族で当時六十幾歳七十にもなっていたろうか、背のスラリとした色つやの良い上品な老人で、頭は紡麗に剃り落していた。松山の富豪「米九」の支記人を勤めておるのだと聞いていた。その配偶の老嫗と中年の婦人とその婦人の子でお君さんと呼ばるる白い十四五歳の娘と都合四人家内で、炊事など家内の世話はもっぱらその中年婦人が任じていたように見うけた。主人義方は隠居で長男の某が別に家を持っているというようなことも間いたが、その人は一度も見たように思わぬ。右の中年婦人は義方の長女で、どこかへ嫁していたのが離縁になったか、夫に死なれたかして親里に戻っているのだという説もあったが、その真偽は知らぬ。これら上野家についての話は多く梅屋辺から伝わるものらしかった」と書かれています。
 
 続けて、極堂は「子規が上野に漱石と同居して後約一ヶ月もして上野家に、も一人寄宿者が殖えた。十二三歳の少女で松山高等小学の生徒だということであった。義方の二女が松山の士族宮本某に嫁し、その一家は今西條町近くの某鉱山にいるが、その娘は学校の都合で松山に居残り、祖父の家に寄宿しているのである。夏休中を父母の所に遊んで今松山に帰ってきたのであるということも、梅屋から聞かされたと覚えている。折々は伯母とともに子規の室に来て俳席を眺めたりしていた。前から見てい娘は色の白いボッテリとした愛らしい顔で、今度来た娘は色の小黒いキッと引締まって見るからに利発そうな顔だ、などと松風会員が品評などしていたのを覚えている。時には白がとか黒がとか異名をもって、両人の噂をするのも聞いたことがあった。而してその少女こそ今日のホトトギス派女流俳人・久保より江夫人であることを近頃になって予は承知したのであった」と書いています。
 
 久保より江は、明治17年9月17日生まれ。子規、漱石と出会ったのは明治28年の秋で、当時11歳でした。父親の宮本某は西条の鉱山に勤めていたといいますから、西条市市之川地区にあった市之川鉱山(現在閉山)に勤めていたのでしょう。市之川鉱山は輝安鉱(アンチモン)を産出し、世界最大級の結晶も見つかっています。明治15年から昭和30年にかけて、国内アンチモン鉱の半分を算出したといいますから、鉱山技師として働いていた父親は、あまり家族をかまうことができなかったのでしょう。アンチモンは、活字金や砲弾の硬度を高めるために使われました。
 より江は明治32年に上京し、府立第二高等女学校に学んで卒業しました。のち福島県二本松の医学博士・久保猪之吉に嫁いでいます。久保は、耳鼻咽喉科の医師以外にも歌人として知られ、子規門下の長塚節とも親交がありました。猪之吉が明治40年に九州大学教授となって福岡に赴任します。福岡には松根東洋城との悲恋で知られる伊藤白蓮が住んでおり、ふたりはたちまち親しくなました。大正7年ころ、本格的に句作をはじめ、高浜虚子に師事してホトトギス同人となりました。
 

 
 より江は、子規と漱石の思い出を『二番町の家』で綴り、親交のあった虚子は『漱石氏と私』でより江の手紙を紹介しています。
 
 数年前の春、久々で帰松した時、酒井黙禅さんたちと二番町の横丁を通って見た。それは子規先生、漱石先生のかりの宿として有名になった私の祖父の上野の家が、現在では蕎変屋とかになっているという風説があったために、実際どの家が昔のほんとの上野か、たしかた所を見定めて欲しいという御希望もあったし、私としても幼ない時住み馴れた家をよそながらでも見たいと思ったからであった。
 それに今一つ同行の主人にとっても、この横丁は因縁がないでもなかった。
 いつか松山の話が出た時に「自分も昔行ったことがある。中学時代(福島県の安積中学)特にお世話になった先生が松山中学に転任されていたので行って見たんだ」という。短い滞在ではあったし、古いことだし、どの町だったかは主人の記憶に残っていないが、その先生が犬塚又兵先生だと聞いて驚いた。犬塚先生ならば同じ町内で、上野よりも三番町によった同じ側に住んでいられ、立派な白髭の持王でお習字の先生でよくお見受けしていた。そうすると、主人が泊めていただいたのもこの横丁のお家だろうと思われる。第一高等中学校の学生時代とばかりで、明治何年だったかをハッキリ思い出せないのが残念だが、丁度その日が日蝕に当り、犬塚先生と盟に水を汲んで見守っていたのだという。
 とにかく昔は静かな屋敷町で石川という大きな門構えのお家の横あたり、竹藪つづきで恐ろしい位だったのに、この頃は大街道に抜けられる意気な小路が出来たり、なかなかにぎやかな街となったらしく、従って「上野の隠居家変じて蕎麦屋となる」というような噂もたったのであろう。
 しかし幸にそれは単に風説に過ぎなかった。思ったよりも軒のひくい上野の家は依然として櫺子窓、格子戸造り、ひっそりとしたものであった。黙禅さんが案内を乞われると、婦人が出て応待されたが、今は母家と離れ座敷と全く別になっており、離れの方の持王は時々見えるばかりで、大抵はしめ切ってある。今日も留守とのこと、その上入口も全く別で鍵のかかっている左の門がそうだという。
 その左の門というのはもちろん建て替ったのではあろうが、昔の不浄口の所で便所汲取以外には使わなかった。母家とは昔から壁で境され、下水の小溝が片側にある細長いじめじめした通路が物骰につき当たって庭に出られるようになっていた。
 今後旧跡見物の人たちがこの細道を子規先生や漱石先生の朝夕の通い路だったかと、在りし日を懐しまれる恐れがあるからハッキリ断っておく。両先生や多くの俳人は皆、この母家の格子戸を出入りされたので、暗い土間、井戸端の御影石を踏んで小庭に出てめかくしの垣根をくぐって離れの沓脱に到着、雨の日などは傘をたたんだりさしたりお気の毒であった。このことは極堂先生はじめ御記憶にあるであろう。
 今後の保存会では、この母家と離れとがどう取扱われるか知らないが、この格子戸から奥への通路以外、母家は先生がたに無関係である。漱石写真帖には「二六、松山の宿の表八畳の間」として上野の母家の座敷が出ており「子規居士松山に帰省して寄寓せしよりともに裏二階に移りしという」とあるが、この写真の部屋は漱石先生に何の関係もない。先生は、最初から離れに引越して来られたので、はじめは下座敷だったのを、子規先生同居の時二階にお移りになったのである。この写真の部屋は上野の客間兼祖父の部屋兼私たちの寝室で、私にとっては忘れられないものである。
 ついでだから書き添えておくが、あの写真帖の「三〇、松山市二番町の宿階下、ここに子規居士寄寓して約二ヶ月を送る。門下を集めてしきりに句作に耽りしという」とある写真の部屋はどうも次の間らしい。かんじんの子規先生の病室は、左の方の障子一枚見えてる方ではないかという気がする。その内一度実地を見たいと思う。
 あの離れは祖父が母家を買い入れ、港町から引移って後に新築したもので、材木の切れはしを大工にもらって積木をしたり、襖のカマチのクイチガイの切れはしを小人形の椅子にして嬉しがったりした。そんな記憶があるところから推すと、明治二十一年か二年頃出来たのであろう。祖父はここに隠居するつもりで建てたのだが、跡継の出来がわるくて隠居ができず、先生がたにお貸したため、却ていつまでも保存されることになった。祖父も地下でさぞよろこんでいよう。もしもこれが上野の所有のままであったならと考えるにつけ、私はあの柔和な品のいい祖父が、晩年あまり幸福でなかったことを悲しむ。
 祖父は三十一年にあの家で亡くなったが、その後不幸つづきで、まもなく売ってしまい、二番町の代家のなかの一つに引越し、そこで淋しく永眠したのである。両先生のお世話を手一つに、その上祖父母の世話からわがままな私のことまで女中相手にかいがいしく働いていた伯母は、それより以前に家を出てしまい、祖母の最期にも居合さなかった。
 先生がたのいらっしゃった明治二十八年といえば私は十一歳、丁度日清戦争の頃で、三つ組のオ下ゲをチャンチャン坊主とからかわれ通しであった。
 その当時両親は東予の鉱山に行っていたが、私は学校を替るのがいやで祖父の家に預けられていた。子規先生が離れにお見えになった頃は夏休みで、父母の手許へ遊びに行っており、九月はじめに帰松してはじめて病人のお客様がふえたことを知った。私の帰ってきた日、暑気あたりだといって祖母は一番風通しのいい中の間に寝ていた。物珍しい鉱山の様子を私が話して聞かすと祖母は嬉しそうに起き直って、あとを促した。何もない山の中、せめておみやげにといって母がことづけたのは、山の裾を流れるカモ河(=加茂川)の焼鮎であった。たぶん両先生のお膳にもその晩あたり載ったのであろう。
 伯母のうしろにひきそうて、はじめて子規先生のお部屋へ行った時、一番先目についたのは支那からでもお持ちになったのであろう、真紅な長い枕であった。
 まだ子供だった私、先生がたについてのことはあまり思い出せない。しかし短時日ではあったけれど、ずいぶんかわいがっていただいたものだと、有難く思う。照葉狂言がすきだというのでいつも連れて行って下すった。句会の末座にかしこまった夜もあった。離れにえらい先生がいらっしゃるというので、学校でも肩身が広かった。校長先生はじめたくさんの先生が句会に来られた。学校の帰りなど教員室の窓から手紙を托されたり、「きょうは用事があって行かれんというておくれ」などとことづけられたりするのが内心得意だった。
 今でもめに残っているのは子規先生の外出姿、ヘルメットにネルの着流し、ややよごれた白縮緬のヘコ帯を痩せて段のない腰に落ちそうに巻いていられた。(久保より江 二番町の家)
 
 博多には珍しい雪がお正月からふり続いております。きのうからそのために電話も電燈もだめ、電車は一時とまるという騒ぎです。松山は如何ですか。けさちょっと新聞で下関までおいでの事を承知いたしましたので急に手紙がさし上げたくなりました。それに二月号の『ホトトギス』を昨日拝見したものですから。その上一月号の時も申上げたかったことをうっちゃっていますから。
 一月号の「兄(けい)」では私上野の祖父を思い出して一生懸命に拝見いたしました。祖父は以前は何もかも祖母任せの鷹揚な人だったと思いますが、祖母を先だて総領息子を亡くして、その上あの伯母に家出をされ、従姉に(あなたが私と一しょに考えていらっしった)学資を送るようになってからは、実に細かく暮していたようです。そして自分はしんの出た帯などをしめても月々の学資はちゃんちゃんと送っていましたが、その従姉は祖父のしにめにもあわないで、そしてあとになって少しばかりの(祖父がそんなにまでして手をつけなかった)財産を外の親類と争うたりしました。ようやく裁判にだけはならずにすんだようでしたが、そのお金もすぐ使い果して今伯母も従姉も行方不明です。
 おはずかしいことを申上げました。いつもお作を拝見しては親類中の御親しみ深い御様子を心から羨しく思っていたものですから、ついついぐちがこぼれました。おゆるし下さいまし。
 あの一番町から上って行くお家に夏目先生がいらっしゃったことは私にとってはつ耳です。私は上野のはなれにいつから御移りになったのか何にも覚えておりません。ただ文学士というえらい肩書の中学校の先生が離れにいらっしゃるということを子供心に自慢に思っていただけです。先生はたしか一年近くあの離れに御住居なすったのですのに、どういう訳か私のあたまには夏から秋まで同居なすった正岡先生の方がはっきりうつっています。――松山のかただという親しみもしらずしらずあったのでしょうが――夏目先生のことはただかわいがっていただいたようだ位しきゃ思い出せません。照葉狂言にも度々おともしましたが、それもやっぱり正岡先生の方はおめし物から帽子まで覚えていますのに(うす色のネルに白縮緬のへこ帯、ヘルメット帽)夏目先生の方ははっきりしないんです。ただ一度伯母が袷と羽織を見たててさし上げたのは覚えています。それと一度夜二階へお邪魔をしていて、眠くなって母家へ帰ろうとしますと、廊下におばけが出るよとおどかされた事とです。それからも一つはお嫁さん探しを覚えています。先生はたぶん戯談(じょうだん)でおっしゃったのでしょうが祖母や伯母は一生懸命になって探していたようです。そのうち東京でおきまりになったのが今の奥様なんでしょう。私は伯母がそっと見せてくれた高島田にお振袖のお見合のお写真をはじめて千駄木のお邸で奥様におめにかかった時思い出しました。
 実は千駄木へはじめて御伺いした時は玄関払いを覚悟していたのです。十年も前に松山で、というような口上でおめにかかれるかどうかとおずおずしていたのですが、すぐあって下すって大きくなったねといって下すった時は嬉しくてたまりませんでした。そして私の姓が変った事をおききになって、まあよかった、美術家でなくっても文学趣味のあるお医者さんだからとおっしゃったのにはびっくりいたしました。先生は私が子供の時学校で志望をきかれた時の返事を伯母が笑い話にでもしたのをちゃんと覚えていらっしったものと見えます。松山を御出立の前夜湊町の向井へおともして買っていただいた呉春と応挙と常信の画譜は今でも持っておりますが、あのお離れではじめて知った雑誌の名が『帝国文学』で、貸していただいて読んだ本が『保元平治物語』と『お伽草紙』です。
 興にのって大変ながく書きました。おいそがしい所へすみません。あの二番町の家は今どうなったことでしょう。長塚さんもいつかこちらへお帰りに前を通ってみたとおっしゃっていました。あの離れはたしか私たちがひっこしてから、祖父の隠居所にといって建てたもののようです。襖のたて合せのまんなかの木ぎれをもらっておひな様のこしかけにしたのを覚えています。
 ほんとにくだらない事ばかりおゆるしを願います。松山にはどれ位御逗留かも存じません。この手紙どこでごらん下さるでしょう。
 寒さの折からおからだをお大切に願います。
よりえ
 
 この手紙をよこした人は本誌の読者が近づきであるところの「中の川」「嫁ぬすみ」の作者である久保よりえ夫人である。この夫人はこの上野未亡人の姪に当る人である。ある時早稲田南町の漱石氏の宅を訪問した時に席上にある一婦人は久保猪之吉博士の令閨(れいけい)として紹介された。そうしてそれが当年漱石氏の下宿していた上野未亡人の姪に当る人だと説明された時に、私は未亡人の膝元にちらついていた新蝶々の娘さんを思い出してその人かと思ったのであったがそれは違っていた。文中に在る従姉とあるのがその人であった。このよりえ夫人の手紙は未亡人のその後をよく物語っている。あの家は今は上野氏の手を離れて他人の有となっているということである。(高浜虚子 漱石氏と私)
 
 照葉狂言の泉助三郎一座は鏡花の「照葉狂言」と一緒になって私の記憶をいつまでも鮮かなままでおく。助三郎の妻の淋しいおもざし、小房、薫、松山で生れた松江などとりどりになつかしい。そして一度はあの遠い古町の小屋まで連れて行っていただいたのに、折あしく休場で空しく堀端を引返した。その時先生の右手には私が縋(すが)っていたが、左には中学校の校長だった横地地理学士の上のお嬢さんが手をひかれていらっしった。私より一つ二つ年下であったろう、かわいいかたであった。
 松山時代の先生を偲べば従って正岡先生も思い出さずにはいられない。夏休みを父母の許で送って九月のはじめに、また二番町の家へ帰った私は離れに別の客を見た。御病人だということでいつも床が敷かれて緋の長い枕が置いてあった。学校の先生や大勢のかたが毎日見えた。学校の帰りなど教員室の窓から校長さんが首を出してよりさんと呼ばれるので、何か叱られるのかとおづおづ引きかへすと「きょうはせわしゅうて行けぬ(今日は忙しくて句会に行くことができない)と正岡さんにいうておくれ」などとおことづけを承ったりした。句座のすみにちいさく畏って短冊に覚束ない筆を動かした夜もあった。お従弟にあたる大原の坊ちゃんが薬瓶を一日おき位に届けに見えた。その秋、学校で展買会があるというので、正式の学芸品以外に何か出品しなければならないはめになった私はありったけの智慧をしぼり出して、正岡先生の俳句を刺繍することにきめた。刺繍を習ったこともないくせに随分大胆な企をしたものだと今思うと恥しいようである。何かの表紙をしきうつしにした紅業と流れの上に快く
   行く秋のながめなりけりたつた川  子規
 と書いて下さったのを俄かじたての枠にはったあたり前の絹糸をわいて縫いはじめた。そういうことのすきな伯母が大抵手伝ってくれた。
 その刺繍のできあがらないうちに正岡先生は急に御上京になった。学校から帰った私に伯母は(正岡先生が)御出立の前もわざわざこちらの座敷まで見にいらっしって「わりあいによく出米た。できあがりを見ないで立つのが残念だとよりさんにいってくれ」とおっしゃったときかせてくれた。
 私は虚子先生にもその時分御めにかかったことがあるように思う。「高浜さんはまだお若いような」と伯母が祖母に話しているのを聞いたことがある。(久保より江 嫁ぬすみ 夏目先生のおもいで)






最終更新日  2019.07.16 19:00:07
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2019.01.26
カテゴリ:子規と漱石
   東菊活いけて置きけり火の国に住みける君の帰り来るがね
 
 晩年の子規は、絵に夢中になりました。
 明治32(1899)年、子規は中村不折にもらった使い残りの絵の具を用い、机の上に活けてある秋海棠を写生しました。その絵がみんなから誉められたため、子規は気分を良くして次々に絵を描くようになります。翌年3月10日「ホトトギス」に掲載された『画』には「僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまう」ととまであり、子規の熱中ぶりが伝わってきます。
 
○十年ほど前に、僕は日本画崇拝者で西洋画排斥者であった。その頃、為山(=下村)君と邦画洋画優劣論をやったが、僕はなかなか負けたつもりではなかった。最後に、為山君が日本画の丸い波は海の波でないということを説明し、次に日本画の横顔と西洋画の横顔とを並べ画いてその差違を説明せられた。さすがに強情な僕も全く素人であるだけに、この実地論を聞いて半ば驚き、半ば感心した。ことに日本画の横顔には正面から見たような目が画いてあるのだといわれて、非常に驚いた。けれども形似は絵の巧拙に拘かかわらぬという論でもって、その驚きを打ち消してしもうた。その後、不折君とともに『小日本』におるようになって毎日位顔を合すので、顔を合すと例の画論を始めていた。この時も僕は日本画崇拝であったから、いうことが皆衝突する。僕が富士山は善い山だろうというと、不折君は俗な山だという。松の木は善い木であろうというと、それは俗な木だという。達磨は雅であろうというと、達磨は俗だという。日本の甲冑は美術的であろうというと、西洋の甲冑の方が美術的だという、一々衝突するから、同じ人間の感情がそれほど違うものかと、余り不思議に思ってつくづくと考えた。そのうち、ふと俳句と比較して見てから大に悟る所があった。俳句に富士山を入れると俗な句になりやすい、俳句に松の句もあるけれど、松の句には俗なのが多くて、かえって冬木立の句に雅なのが多い、達磨なんかは俳句に入れると非常に厭味が出来る、これ位のことは前から知っていたのであるけれど、それを画の上に推おし及ぼすことが出来なんだのである。俳句を知らぬ人が富士の句を見ると非常に嬉しがるのと、我々が富士の画を見ると何かなしに喜ぶのと、同じことであるということが分って、始めて眼が明いたような心持であった。けれどもまだ日本画崇拝は変らないので、日本画をけなして西洋画をほめられると、何だか癪に障ってならぬ。そこで日本と西洋との比較を止めて、日本画中の比較評論、西洋画中の比較評論というように別々に話してもろうた。そうすると一日一日と何やら分って行くような気がして、十ヶ月ほどの後には少したしかになったかと思うた。その時、虚心平気に考えて見ると、始めて日本画の短所と西洋画の長所とを知ることが出来た。とうとう為山君や不折君に降参した。その後は西洋画を排斥する人に逢うと、癇癪に障るので大に議論を始める。ついには昔為山君から教えられた通り、日本画の横顔と西洋画の横顔とを画いて「これ見給え、日本画の横顔にはこんな目が画いてある、実際、君、こんな目があるものじゃない」などと大得意にしゃべっておる。その気加減には自分ながら驚く。
○僕は子供の時から手先が不器用であったから、画は好きでありながらそれを画くことは出来なかった。普通に子供の画く大将絵も画けなかった。この頃になって彩色の妙味を悟ったので、彩色絵を画いて見たい、と戯れにいったら、不折君が早速絵具を持って来てくれたのは去年の夏であったろう。けれどもそれも棚にあげたままで忘れていた。秋になって病気もやや薄うすらぐ、今日は心持が善いという日、ふと机の上に活けてある秋海棠を見ていると、何となく絵心が浮んで来たので、急に絵の具を出させて判紙展べて、いきなり秋海棠を写生した。葉の色などには最も窮したが、始めて絵の具を使ったのが嬉しいので、その絵を黙語先生や不折君に見せると非常にほめられた。この大きな葉の色が面白い、なんていうので、窮した処までほめられるような訳で、僕は嬉しくてたまらん。そこでつくづくと考えて見るに、僕のような全く画を知らん者が始めて秋海棠を画いて、それが秋海棠と見えるは写生のお蔭である。虎を画いて成らず、狗に類すなどというのは写生をしないからである。写生でさえやれば、何でも画けぬことはないはずだ、というので忽ち大天狗になって、今度は、自分の左の手に柿を握っている処を写生した。柿は親指と人さし指との間から見えている処で、これを画きあげるのは非常の苦辛であった。そこへ虚子が来たからこの画を得意で見せると、虚子はしきりに見ていたが分らぬ様子である。「それは手に柿を握っておるのだ」と説明して聞かすと、虚子は始めて合点した顔附で「それで分ったが、さっきから馬の肛門のようだと思うて見ていたのだ」というた。
○僕の国に坊主町という淋しい町があって、そこに浅井先生という漢学の先生があった。その先生の処へ本読みに行く一人の子供の十余りなるがあったが、いつでもその家を出がけに、そこの中庭へ庭一ぱいの大きな裸男を画いて置くのが常であった。それとも知らずそのうちの人が外へ出ようとすると、中庭に大男が大物を抱いておる画があるので、度々驚かされる。今日もまた例の画がかいてあったと、そのうちの人が笑いながら話すのを僕が聞いたのも度々であった。その時の幼い滑稽絵師が、今の為山君である。
○僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまう。(正岡子規 画)
 最晩年の子規は写生を日課としました。明治35年5月から草花、6月には果物を描き始め、8月になると玩具を描写しています。
 この年の8月7日の『病牀六尺』には、「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生していると、造化の秘密が段々分かって来るような気がする」とあり、8月9日には「ある絵の具とある絵の具を合わせて草花を画く、それでもまだ思うような色が出ないとまた他の絵の具をなすってみる。同じ赤い色でも少しずつの色の違いで趣が違って来る。いろいろに工夫して少しくすんだ赤とか、少し黄色味を帯びた赤とかいうものを出す」と記されています。
 子規は、明治32年10月頃に描いた東菊の画を漱石に贈りました。漱石は『子規の画』で「子規の画は拙くてかつ真面目」と記します。「余は子規の描いた画をたった一枚持っている。亡友の記念(かたみ)だと思って長い間それを袋の中に入れてしまっておいた」で始まる漱石の文は、子規への複雑な思いに満ちています。スラスラと頭から出てくる俳句とは異なり、不自由な体で、病人としては嫌になるほどの時間をかけてあまり上手くない絵を描く子規を、漱石は愛おしく思っているのです。ただ、その絵が拙であるほど、病人で子規の苦労がしのばれるのに、愚直に絵を描く子規。
 厳しいとも思われる漱石の評は、子規の辛さを思いやる逆説に満ちています。
 

 
 余は子規の描いた画をたった一枚持っている。亡友の記念(かたみ)だと思って長い間それを袋の中に入れてしまっておいた。年数の経つに伴れて、ある時はまるで袋の所在を忘れて打ち過ぎることも多かった。近頃ふと思い出して、ああしておいては転宅の際などにどこへ散逸するかも知れないから、今のうちに表具屋へやって懸物にでも仕立てさせようという気が起った。渋紙の袋を引き出して塵を払いて中を検べると、画は元のまま湿っぽく四折に畳んであった。画のほかに、無いと思った子規の手紙も幾通か出て来た。余はそのうちから子規が余に宛てて寄こした最後のものと、それから年月の分らない短いものとを選び出して、その中間に例の画を挟んで、三つを一纏に表装させた。
 画は一輪花瓶に挿した東菊で、図柄としては極めて単簡なものである。傍に「これは萎み掛かけた所と思い玉え。下手いのは病気のせいだと思い玉え。嘘だと思わば肱を突いて描いて見玉え」という註釈が加えてあるところをもって見ると、自分でもそう旨いとは考えていなかったのだろう。子規がこの画を描いた時は、余はもう東京にはいなかった。彼はこの画に、東菊活いけて置きけり火の国に住みける君の帰り来るがねという一首の歌を添えて、熊本まで送って来たのである。
 壁に懸けて眺めて見るといかにも淋しい感じがする。色は花と茎と葉と硝子ガラスの瓶とを合せてわずかに三色しか使ってない。花は開いたのが一輪に蕾が二つだけである。葉の数を勘定して見たら、すべてでやっと九枚あった。それに周囲が白いのと、表装の絹地が寒い藍なので、どう眺めても冷たい心持が襲って来てならない。
 子規はこの簡単な草花を描くために、非常な努力を惜しまなかったように見える。わずか三茎の花に、少くとも五六時間の手間をかけて、どこからどこまで丹念に塗り上げている。これほどの骨折は、ただに病中の根気仕事としてよほどの決心を要するのみならず、いかにも無雑作に俳句や歌を作り上げる彼の性情からいっても、明かな矛盾である。思うに画ということに初心な彼は、当時絵画における写生の必要を不折などから聞いて、それを一草一花の上にも実行しようと企てながら、彼が俳句の上ですでに悟入した同一方法を、この方面に向って適用することを忘れたか、または適用する腕がなかったのであろう。
 東菊によって代表された子規の画は、拙くてかつ真面目である。才を呵して直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、たちまち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦んでしまったのかと思うと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵は旨いじゃありませんかといったことがある。余はその時、だってあれだけの単純な平凡な特色を出すのに、あのくらい時間と労力を費さなければならなかったかと思うと、何だか正岡の頭と手が、いらざる働きを余儀なくされた観があるところに、隠し切れない拙が溢れていると思うと答えた。馬鹿律義なものに厭味も利いた風もありようはない。そこに重厚な好所があるとすれば、子規の画はまさに働きのない愚直ものの旨さである。けれども一線一画の瞬間作用で、優に始末をつけられべき特長を、とっさに弁ずる手際がないために、やむをえず省略の捷径を棄てて、几帳面な塗抹主義を根気に実行したとすれば、拙の一字はどうしても免れがたい。
 子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉え得た試がない。また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえもたなかった。彼の歿後ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊のうちに、確かにこの一拙字を認めることのできたのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。ただ画がいかにも淋しい。でき得るならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償いとしたかった。(夏目漱石 子規の画)






最終更新日  2019.01.26 18:51:22
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2018.04.26
カテゴリ:子規と漱石

 
   病牀に夏橙を分ちけり(明治33)
 
 明治33(1900)年6月20日、子規は漱石に宛てた手紙に熊本の夏橙を送ってきたお礼を記しました。「夏橙壱函只今山川氏から受取ありがたく御礼申上候。御留学のこと新聞にて拝見。いづれ近日御上京のことと心待に待おり候。先日中は時候の勢か、からだ尋常ならず独りもがきおり候処、昨日熱退きその代わり、昼夜疲労の体にてうつらうつらと為すこともなく臥りおり候。『ホトトギス』の方は二ヶ月余全く関係せず、気の毒に存候えども、この頃は昔日の勇気なく、とてもあれもこれもなど申事は出来ず、歌よむ位が大勉強の処に御坐候。小生たとい五年十年生きのびたりとも、霊魂は最早半死のさまなれば全滅も遠からずと推量被致候。『年を経て君し帰らば山陰のわがおくつきに草むしをらん』。風もらぬ釘つけ箱に入れて来し夏だいだいはくさりてありけり(みなにあらず)」とあり、密閉に近い状態で送ったため、子規のもとに届いたときには夏橙がほとんど腐っていたというのです。
 そのあとに「小生たとい五年十年生きのびたりとも霊魂は最早半死のさまなれば全滅も遠からずと推量被致候」とあり、自分の命があとわずかしかないことを子規は悟っていたようです。腐っていた夏橙に我身を重ねたのでしょうか。子規は漱石の手紙に「年を経て君し帰らば山陰のわがおくつきに草むしをらん」という、イギリスに留学する漱石が子規と再び巡り会えるかどうかわからないという内容の短歌を添えています。
 
 この手紙の前の6月中旬に、子規は漱石に東菊の絵を送りました。「これは萎みかけた処と思いたまえ。画がまずいのは病人だからと思いたまえ。嘘だと思わば肱ついて描いて見たまえ」と書き、「あづま菊いけて置きけり火の国に住みける君の帰り来るかね」という和歌を添えました。
 晩年の子規は、絵に夢中になりました。明治32年(1899)、中村不折が進呈した使い残りの絵の具を用い、机の上に活けてある秋海棠を写生しました。その絵が誉められたため、子規は次々に絵を描くようになります。明治33年の『画』には「僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまう」とあり、子規の熱中ぶりが伝わってきます。
 
 僕は子供の時から手先が不器用であったから、画は好きでありながらそれを画くことは出来なかった。普通に子供の画く大将絵も画けなかった。この頃になって彩色の妙味を悟ったので、彩色絵を画いて見たい、と戯れにいったら、不折君が早速絵具を持って来てくれたのは去年の夏であったろう。けれどもそれも棚にあげたままで忘れていた。秋になって病気もやや薄らぐ、今日は心持ちがよいという日、ふと机の上に活けてある秋海棠を見ていると、何となく絵心が浮かんできたので、急に絵の具を出させて判紙展べて、いきなり秋海棠を写生した。葉の色などには最も窮したが、初めて絵の具を使ったのが嬉しいので、その絵を黙語先生や不折君に見せると非常にほめられた。この大きな葉の色が面白い、なんていうので、窮したところまでほめられるような訳で僕は嬉しくてたまらん。そこでつくづくと考えてみるに、僕のような全く画を知らん者が初めて秋海棠を画いてそれが秋海棠と見えるは写生のお陰である。虎を画いて成らず狗に類すなどというのは写生をしないからである。写生でさえやれば何でも画けぬことはないはずだ、というので忽ち大天狗になって、今度は、自分の左の手に柿を握っている処を写生した。柿は親指と人さし指との間から見えている処で、これを画きあげるのは非常の苦辛であった。そこへ虚子が来たからこの画を得意で見せると、虚子は頻りに見て居たが分らぬ様子である。「それは手に柿を握っているのだ」と説明して聞かすと、虚子は始めて合点がてんした顔附で「それで分ったが、さっきから馬の肛門のようだと思うて見ていたのだ」というた。
……
 僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまう。(画)
 

 
 最晩年の子規は写生を日課としました。5月から草花、6月には果物を描き始め、8月になると玩具を描写しています。
 『病牀六尺』では、34年8月7日に「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生していると、造化の秘密が段々分かって来るような気がする」とあり、8月9日には「ある絵の具とある絵の具を合わせて草花を画く、それでもまだ思うような色が出ないとまた他の絵の具をなすってみる。同じ赤い色でも少しずつの色の違いで趣が違って来る。いろいろに工夫して少しくすんだ赤とか、少し黄色味を帯びた赤とかいうものを出す」と記されています。
 夏目漱石は『子規の画』で「子規の画は拙くて且真面目」と記しました。続く「平凡な特色を出すのに、あの位時間と努力を費やさなければならなかった」の文は、子規への複雑な思いに満ちています。この評は、子規の辛さを思いやる漱石の逆説なのかもしれません。
 
 余は子規の描いた画をたった一枚持っている。亡友の記念(かたみ)だと思って長い間それを袋の中に入れてしまっておいた。年数の経つに伴れて、ある時はまるで袋の所在を忘れて打ち過ぎることも多かった。近頃ふと思い出して、ああしておいては転宅の際などにどこへ散逸するかも知れないから、今のうちに表具屋へやって懸物にでも仕立てさせようという気が起った。渋紙の袋を引き出して塵を払たいて中を検べると、画は元のまま湿っぽく四折に畳んであった。画のほかに、無いと思った子規の手紙も幾通か出て来た。余はそのうちから子規が余に宛てて寄こした最後のものと、それから年月の分らない短いものとを選び出して、その中間に例の画を挟んで、三つを一纏に表装させた。
 画は一輪花瓶に挿さした東菊で、図柄としては極めて単簡な者である。傍に「これは萎み掛けた所と思い玉え。下手いのは病気の所為だと思い玉え。嘘だと思わば肱を突いて描いて見玉え」という註釈が加えてあるところをもって見ると、自分でもそう旨いとは考えていなかったのだろう。子規がこの画を描いた時は、余はもう東京にはいなかった。彼はこの画に、東菊活けて置きけり火の国に住みける君の帰り来るがねという一首の歌を添えて、熊本まで送って来たのである。
 壁に懸けて眺めて見るといかにも淋しい感じがする。色は花と茎と葉と硝子の瓶とを合せてわずかに三色しか使ってない。花は開いたのが一輪に蕾が二つだけである。葉の数を勘定して見たら、すべてでやっと九枚あった。それに周囲が白いのと、表装の絹地が寒い藍なので、どう眺めても冷たい心持が襲って来てならない。
 子規はこの簡単な草花を描くために、非常な努力を惜しまなかったように見える。わずか三茎の花に、少くとも五六時間の手間をかけて、どこからどこまで丹念に塗り上げている。これほどの骨折は、ただに病中の根気仕事としてよほどの決心を要するのみならず、いかにも無雑作に俳句や歌を作り上げる彼の性情からいっても、明かな矛盾である。思うに画ということに初心な彼は、当時絵画における写生の必要を不折などから聞いて、それを一草一花の上にも実行しようと企てながら、彼が俳句の上ですでに悟入した同一方法を、この方面に向って適用することを忘れたか、または適用する腕がなかったのであろう。
 東菊によって代表された子規の画は、拙くてかつ真面目である。才を呵かして直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、たちまち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦んでしまったのかと思うと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵は旨いじゃありませんかといったことがある。余はその時、だってあれだけの単純な平凡な特色を出すのに、あのくらい時間と労力を費さなければならなかったかと思うと、何だか正岡の頭と手が、いらざる働きを余儀なくされた観があるところに、隠し切れない拙が溢れていると思うと答えた。馬鹿律義なものに厭味も利きいた風もありようはない。そこに重厚な好所があるとすれば、子規の画はまさに働きのない愚直ものの旨さである。けれども一線一画の瞬間作用で、優に始末をつけられべき特長を、とっさに弁ずる手際がないために、やむをえず省略の捷径を棄てて、几帳面な塗抹主義を根気に実行したとすれば、拙の一字はどうしても免かれがたい。
 子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉とらえ得えた試しがない。また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえもたなかった。彼の歿後ほとんど十年になろうとする今日こんにち、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊のうちに、確かにこの一拙字を認めることのできたのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。ただ画がいかにも淋しい。でき得るならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償いとしたかった。(子規の画)






最終更新日  2018.04.26 00:10:05
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2018.03.20
カテゴリ:子規と漱石

 
   小石にも魚にもならず海鼠哉(明治25)
   平鉢に氷りついたる海鼠哉(明治26)
   大海鼠覺束なさの姿かな(明治27)
   剛の坐は鰤臆の坐は海鼠哉(明治33)
 
 吉野左衛門の『子規居士の追憶其他』に海鼠に関するエピソードが書かれています。「明けて三十年の正月には池の端の長酡亭で日本派俳人の第一回新年会が催されたが、居士も出席され、其村や墨水の講談落語などがあって、非常の盛会であった。この時面白いと思って今でも記憶している一つの失敗談は、子地層の中にある甘い酢の物のあったのを虚子君に聞けば君も知らず、傍の故事に例の松山弁で『升さん、これは何ンぞな」ときくと、居士は、『お前、これをお知凛のか、これは海鼠じゃがな』といって笑割れた。その癖虚子君も、自分等もその食っても味の解らぬ海鼠の句を大威張でつくっていたのだから面白い」というのです。子規は海鼠の味は分かっていたのですが、弟子はその味を知らなかったというものです。
 吉野左衛門は東京三鷹の生まれで、明治28(1895)年に子規の門人となり、国民新聞俳壇の選者をつとめます。のちに国民新聞社・京城日報社の社長となりますが、42才の若さで歿しました。
 

 
「日本人」明治29年1月5日号に発表された『新年二十九度』という子規の文章には「天地混沌として未だ判れざる時腹中に物あり恍たり惚たり形海鼠のごとし。海鼠手を生じ足を生じ両眼を微かに開きたる時化して子規となる。なお鷺のかい子のうちにあり。余が初めて浮世の正月に逢いたるは慶応四年なれば明治の新時代はまさに旧時代の胎内を出んとする時なりき。この時の余は余を知らず。まして四囲の光景は露知らざりしも思えばきわどき年を重ね初めたるものかな」とあります。
 
   渾沌をかりに名づけて海鼠哉(明治26)
   天地を我が産み顔の海鼠かな(明治27)
 
 漱石の『吾輩は猫である』に「もし我を以て天地を律すれば一口にして西江の水を吸いつくすべく、もし天地を以て我を律すれば我はすなわち陌上(はくじょう)のちりのみ。すべからく道(い)え、天地と我と什麼(いんも)の交渉かある。……始めて海鼠(なまこ)を食い出(いだ)せる人はその胆力において敬すべく、始めて河豚を喫せる漢(おとこ)はその勇気において重んずべし。海鼠を食えるものは親鸞の再来にして、河豚を喫せるものは日蓮の分身なり。苦沙弥先生の如きに至ってはただ干瓢の酢味噌を知るのみ」とありますが、子規の『新年二十九度』の文章と雰囲気がよく似ています。海鼠と河豚は、どちらも食べるのに勇気が必要だということで、子規の句には「海鼠」と「河豚」を対比させたものがあります。
 
   念佛は海鼠眞言は鰒にこそ(明治29)
   臘八や河豚と海鼠は從弟どし(明治29)
   海鼠黙し河豚嘲る浮世かな(明治30)
   河豚讒して鮭死す海鼠黙々たり(明治30)
   海鼠眼なしふくとの面を憎みけり(明治31)
 
 漱石は、初めての子が誕生した際に「安々と海鼠の如き子を生めり」という句を詠んでいます。しかし、子規の「渾沌をかりに名づけて海鼠哉」の句や『新年二十九度』などから、海鼠は天地開闢の象徴であり、海のものとも山のものとも解らぬ存在が成長して、素晴らしい人間となっていくことへの願いを詠み込んでいます。
 ただ、海鼠は海のものであり、全くの未知の存在ではないことに、長女の筆子は少しばかり安堵したことでしょう。
 
 筆子は『夏目漱石の「猫」の娘』で「これは私の生れた明治三十二年五月の感想を詠んだ父の句ですが、結婚して三年目に、しかも以前に一度流産の経験もあって、漸くに子供を得た父にとっては、この『安々と』という感慨はひとしお深かったものと思われます。多分流産の後頃のことと存じますが、その崇りの故か、若い母はひどいヒステリーを患っており、夜半に家を按け出し、側の橋の上で投身自殺をくわだてたことがあるそうで、それ以来父は毎晩、母と手首を結んで寝たそうです。父の驚きの心痛が並ありません。そういう性で子種に恵まれ、なまこのようであれ何であれ、ともかく易々と生まれた、その瞬間父がどんなに喜んだか良く解る気がします」と書いています。






最終更新日  2018.03.20 00:05:41
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2018.01.27
カテゴリ:子規と漱石

 
 子規と漱石の交際の間には、二人の仲が険悪になったこともありました。
 明治24(1891)年11月のことです。
 子規の手紙は現存していないのですが、読売新聞に掲載されていた『明治豪傑譚』が単行本になった際、子規はこの第一巻に、自分の考えを記した「気節論」を加えて漱石の元に送ったのでした。
 この時期の漱石は、江藤淳が『漱石とその時代』で漱石の恋愛感情があったとする、兄・和三郎の嫁・登世をこの年の7月28日に亡くし、心の傷が癒えていない頃でした。
 漱石は8月3日の子規宛の手紙で「不幸と申し候は、余の儀にあらず。小生嫂(あによめ)の死亡に御座候。実は去る四月中より懐妊の気味にて悪阻と申す病気にかかり、とかく打ち勝れず漸次重症に陥り、子は闇から闇へ、母は浮世の夢二十五年を見残して冥土へまかり越し申候。天寿は天命死生は定業とは申しながら洵に洵に口惜しき事致候」と書き、「朝貌や咲た許りの命哉」「人生を廿五年に縮めけり」「君逝きて浮世に花はなかりけり」「何事ぞ手向けし花に狂ふ蝶」の句を送っています。
 

 
 心が塞いでいた漱石は、この論に対して怒り、長い手紙をしたためました。もともと子規は、藩士の家柄を誇っていて、こうした豪傑譚を盲目的に好んでいたのです。
 漱石は、元士族で名主てはありますが、町人として育ったので階級的な差別に小田わりませんでした。「君の議論は、工商の子たるが故に気節なしとして、四民の階級を以て人間の尊卑を分たんかの如くに聞ゆ。君が故かかる貴族的の言葉を吐くや。君若しかくいわば、吾これに抗して工商の肩を持たんと欲す」と反論します。そして「朋友がかかる小供だましの小冊子を以て季節の手本にせよとて、わざわざ恵投せられたるは、つやつやその意を得ず」「君何を以て、この書を余に推挙するや。余殆ど君の世を愚弄するを怪しむなり」と送りつけました。
 子規は、漱石の剣幕に驚き、急いで漱石に詫び状(現存せず)を送りました。漱石の手紙には、子規の「偏えに前書及び本書の無礼なるを謝す」という詫びを記し、「ただ君の方で足下呼わりで難しく手掛けられた故つい乗気になり、色々の雑言申し上げ恐縮の至りに不堪。決して決してお気にかけられざるよう願上候」と、怒りの矛を収めました。
 この後、二人の友情は長く続きました。この諍いが二人にとってプラスに働いたようです。
 
十一月十日(火)
牛込区喜久井町一番地 夏目金之助より
本郷区真砂町常盤会寄宿舎 正岡常規へ
 
 僕が二銭郵券四枚張の長談議を聞き流しにする大兄にあらずと存じおり候処、案の如く二枚張の御返礼にあずかり、金高よりいえば半口たらぬ心地すれど、芳墨の進化は百枚の黄白にも優り嬉しく披見仕候。仰の如く小生十七、八以後かかるまじめ腐ったる長々しき囈語を書き連ねて紙筆に災ひせし事なく、議論文などは君に差上候。手紙にも滅多に無之、ただ君の方で足下呼わりでむずかしく出掛られた故、つい乗気不堪決して決して御気にかけられざるよう願上候。
 頑固の如くには候えども、片言隻行にては如何にしても気節は見分けがたくと存候。良雄(忠臣蔵・大石良雄のこと)喜剣の足を抵る。良雄の主義、人の辱(はずかしめ)を受けざるにあれば、足を舐るは気節を損したるなり。良雄の主義、復讐にあれば、足を舐るは気節を全うしたるなり。喜剣良雄の墓前に死す。喜剣の主義、長生にあらば墓前に死するは節を損したるなり。喜剣の主義、任侠にあれば墓前に死するは節を全うしたるなり。去れば一言一行をその人の主義に照り合せざれば、分らぬ事と存候(その人の主義の知れておる時は例外)。
 気節は(己れの見識を貫き通す)事と申し上候つもり。これ(見識)は智に属し(貫く)(即ち行う)は意に属す。行わずして気節の士とは小生も思い申さず、唯行へと命令する者が情にもあらず、意にもあらず、智なりと申す主意に御座候処、筆が立ぬ故、そこまでまわり兼疎漏の段、御免被下たく候。
 僕、決して君を小児視せず、小児視せば笑って黙々たるべし。八銭の散財をした処が君を大人視したる証拠なり。恨まれては僕も君を恨みます。
 君は人の毀誉を顧みず。毀誉を顧みぬ君に喃々(なんなん)するは君を褒貶するの意にあらず。唯、僕の説が道徳上嘉(よみ)すべき説なりや、道徳上悪しき説なるやを判じ給えとの意に御座候。唯、卑説の論理に傾きたるため善悪の字を以て正否の字に見違えらる。これまた僕の誤り(説に善悪あり、また真偽あり。多妻論は耶蘇教徒より見れば論理的なると否とを問わず悪説なり。進化主義も神造物者主義より見れば悪説なり。社会主義は伊天原連より見れば悪説なり)。
「その悪を極口(くちをきわめて)罵詈せしとて、その人と交らぬというにはあらず」御説明にて恐れ入候。叩頭謝罪。
 僕、前年も厭世主義、今年もまだ厭世主義なり。かつて思うよう世に立つには世を容るるの量あるか、世に容れられるの才なかるべからず。御存の如く僕は世を容るるの量なく世に容れらるるの才にも乏しけれど、どうかこうか食う位の才はあるなり。どうかこうか食うの才を頼んで、この浮世にあるは説明すべからざる一道の愛気隠々として或人と我とを結び付るがためなり。この或人の数に定限なく、またこの愛気に定限なく、双方共に増加するの見込あり。この増加につれて漸々慈憐主義に傾かんとす。しかし大体より差引勘定を立つればやはり厭世主義なり、唯極端ならざるのみ。これを撞着と評されては仕方なく候。
 最後の一段は少々激し過ぎたる由、貴意の如くかも知れず。(僕の愚を憐んで可なり)などと出られては真に断憐不禁、再び叩頭謝罪。
 道徳は感情なりとは御同意に候。絶大の見識もその根本を煎じ詰れは感情に外ならず、形而下の記号にて証明しがたければなり。去れど、この理想の標準に照し合せて見る過程(プロセス)が智の作用と存候。
 君の道徳論について別に異議を唱うる能はず、唯、貴説のごとく悪を嫉むの一点にて君と僕の間に少しく程度の異なる所あるのみ。どう考えても君の悪を嫉む事は余り酷過ぎると存候。
 微意の講釈は他日拝聴仕るべく候。
 君の言を借りて、
(偏えに前書及び本書の無礼なるを謝す。不宣)
 またまた行脚の由あいかわらず御清興賀し奉候。
 秋ちらほら野菊にのこる枯野かなの一句千金の価あり。
 睾丸の句は好まず、笠の句もさのみ面白からず。
 十一月十日夜  平凸凹乱筆
 子規 臥禅傍






最終更新日  2018.01.28 05:46:24
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2018.01.26
カテゴリ:子規と漱石

 
 明治22(1889)年9月、漱石は子規が書いた『七草集』に誘発され、漢詩集『木屑録』を書き上げました。
 子規は、明治24(1891)年3月25日に十日ほどの房総行脚の旅に出ました。もちろん、漱石の『木屑録』を辿る旅でした。常盤会寄宿舎を出発した子規は、市川で昼飯はとり、菅笠を買いました。そこから痩せ馬で大和田に着き、「榊屋」に泊まりますが、枕が堅くて寝られません。
 26日の朝7時に宿を出て、白井から佐倉、成田に至り、佐倉宗吾の社と成田山新勝寺に参詣します。午後2時に成田を出発し、日もすっかり暮れた頃に、馬渡の「上総屋」に入りました。宿の飯は軟らかったのですが、固い蒲団が一枚きり。11里(約41キロメートル)も歩いた子規は足に豆をこさえ、肩をひどく凝らしました。
 27日、子規は朝7時半に「上総屋」を発ち、篁(竹薮)に入って竹の杖をつくります。正午に千葉に着き、笠を持って記念撮影。昼飯に鰻飯としゃもを食べました。鰻はあまり美味しくなく、しゃもは少し甘いのですが、漬物をとても美味しく感じました。数丁歩いた後、竹杖を忘れたことに気づき、取りに戻ります。寒川から海岸に出た子規は、浜伝いに浜野、潤井戸を経て、長柄山に向かい、東京湾の眺望を楽し見ます。子規は「富士山がないのが惜しい」と思います。7時に宿の「大黒屋」に入ると、この宿の飯は軟らかく、初めて食べたせいろ(セグロイワシ)の刺身と、はりはり漬けのおかずを美味しいと思い、大きな茶碗に4杯もご飯を食べました。昨夜、一昨夜と同じように木枕のため、子規はよく眠れませんでした。
 

 
 28日、朝7時に宿を出ると霧が出ています。曇天の下を歩くと、雨が降り始めました。路傍の穴の中で雨宿りし、長南に着いても、まだ小雨が降っています。そこで蓑を買いますが、この蓑は終生、子規のお気に入りとなりました。この喜びが、『かくれみの』という紀行文のタイトルになりました。雨が激しくなってきたので、大多喜の蕎麦屋を兼ねた大きい旅館「酒井屋」に子規は泊まります。夜半には雨が上がり、月が出てきました。
 29日、子規は朝8時に宿屋を出ます。前日、笠の紐をきつくしばっていたためか、唇がはれ上がっていました。台宿から小湊の誕生寺に向かいます。漱石の『木屑録』には、鋸山とともに誕生寺の風景が描かれています。子規は、「鶯や此の山出れば誕生寺」と詠みました。漱石の『こころ』には「小湊という所で、鯛の浦を見物しました。……丁度そこに誕生寺という寺がありました。日蓮の生まれた村だから誕生寺とでも名を付けたものでしょう、立派な伽藍でした」と書かれています。
 町はずれで寿司を食べた子規は、トンネルを通って天津に出ると日は暮れていました。路傍の少女や老婆に問うと、宿は学校の隣にあるといいます。木賃宿「野村」ではすぐに夕食が出ました。湯がないので湯屋に行くと混浴で、しかも混雑していました。子規は初めて按摩を呼び、気持ちのよさにようやく熟睡できました。
 30日、硬い朝飯を食べて、朝8時に宿を出た子規は、今年初めてのレンゲの花を見ます。和田の茶屋で昼食をとりますが、飯が硬く、魚が臭くて食べられません。そこで海に臨む茶店に入り、寿司と生卵を食べました。朝夷で日が暮れたので、平磯の「山口屋」に泊まります。湯屋に行くと湯が臭い。夕食の飯は軟らかいのですが、魚が昼と同じで臭くて食べられませんでした。
 31日、朝8時に宿を出て、野島崎灯台に行きましたが、修理中で見られませんが、太平洋の眺めを楽しむことはできました。滝口で菓子を買い、それを昼食がわりとしました。北条へ向かう山中で1時間ほど寝て、5時前に館山の宿に入ります。新築で一人も客がいないのに、子規は最下等の部屋に案内されました。
 4月1日、宿を8時過ぎに出ます。子規は、那古の観音に行き、左甚五郎の彫刻を見ようと思いますが、これも修理で望みはかないません。諏訪神社で菓子を食べ、市部に向かう途中のトンネルで昼食をとりました。加知山を経て保田で宿に入理、鏡を見ると顔が真っ黒になっていました。これで、人が子規をジロジロと見ていた理由がわかりました。
 2日は、羅漢寺から鋸山に登り、五百羅漢を見ました。山頂から武蔵、相模、房総を望めます。船で帰京し、常盤会宿舎に着いた頃には日が暮れていました。
 房総の旅を終えた子規は、叔父の大原恒徳と大谷是空に手紙を送りました。是空には「菅笠を戴き蓑をかぶり、一足のわらんじも二日はくなどその勇気その打扮(いでたち)、君ら富家の子弟には薬に見せたきくらいに御座候。この夏も同じ姿で木曽道中と出かけるつもり(四月七日是空宛書簡)」と旅の予定を綴っています。






最終更新日  2018.01.26 00:41:35
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2018.01.25
カテゴリ:子規と漱石

 
 親交を深めた子規と漱石は、頻繁に手紙をやりとりしました。明治22年(1889)の子規の喀血は、肺病を患う兄を持つ漱石にとって他人事ではありませんでした。
 漱石は、5月13日に病状の経過と養生の大切さを説きました。5月27日には、滅入りがちな気分を笑い飛ばそうと、漱石の雅号を間違えて書いた自分を笑います。6月5日には、学校を休んでいる子規のために、試験の日取りや授業内容を連絡しました。9月27日には、漱石の奔走により子規の落第が回避されたことをユーモラスに伝え、子規に早めの上京を促しています。
 これらの手紙は、漱石の細かい気くばりを感じさせるものばかりです。
 只、子規の病状が良くなったと知るや、漱石は式の考え方に異を唱えます。
 12月31日の手紙では、天真爛漫に思いつくまま文章を書き綴る子規に対して、漱石は思想やアイデアを養い、読書に力を注ぐことを忠告しています。また、翌年1月の手紙でも、漱石は最良の思想をそのまま移して読者に伝えることが最上の文章だとしました。文章の技法より、思想こそが大切だと訴えたのです。
 それに対して、子規は、1月18日にレトリックに満ちた文章こそ文学の要だと返書しています。内容と形式のどちらを重視するかは、小説と詩の差異、子規と漱石の文学に対する取り組みの違いでもありました。
 子規と漱石は、親密な交遊を続けていたからこそ、本音を語ることができたようです。
 

 
 とかく大兄の文はなよなよとして婦人流の習気を脱せず、近頃は篁村流に変化せられ、旧来の面目を一変せられたるようなりといえども、未だ真率の元気に乏しく、従うて人をして案を拍って快と呼ばしむる箇所少なきやと存じ候。すべて文章の妙は胸中の思想を飾り気なく平たく造作なく直叙スルガ妙味と存ぜられ候。さればこそ瓶水を倒して頭上よりあびる如き感情も起こるなく、胸中に一点の思想なくただ文字のみを弄する輩はもちろんいうに足らず、思想あるもいたずらに章句の末に拘泥して、天真爛漫の見るべきなければ人を感動せしむること覚束なからんと存じ候……伏して願わくは(雑談にあらず)御前少しく手習をやめて、余暇をもって読書に力を費やし給えよ。御前は病人なり。病人に責むるに病人の好まぬことをもってするは苛酷のようなりといえども、手習をして生きていても別段馨しきことはなし。(明治22年12月31日 正岡子規宛書簡)
 
 文章 is an idea which is expressed by means of words on paper故に、小生の考えにてはideaが文章のEssenceにてwordsをarrangeする方はelementには相違なけれど、essenceなるideaほど大切ならず。(=文章は紙に書かれた言葉の意味を表明するものであるゆえ、小生の考えでは思想が文章の本質にて、言葉を整理する方は基本には相違なけれど、本質なる思想ほど大切ならず)」(夏目漱石 明治23年1月初旬 正岡子規宛書簡)
 
 Rhetoric軽而Idea重乎、突如而来未有無Rhetoric之文章也、冒頭足下謂Idea good而Rhetoric bad則不過good idea為bad rhetoric幾分所変也、引用他書翰来、甚称書牘体、而何不謂Good idea expressed by bad rhetoric与Bad idea expressed by good rhetoric其価値略相等耶。(=修辞は軽くて思想は重いのだろうか、修辞のない文などあろうはずがない。思想が優れていて修辞が悪いとすれば、優れた思想は悪い修辞ということなのだろうか? ならば悪い修辞によって表記された良い思想と、良い修辞によって表記されたくだらぬ思想は同じということなのだろうか?)
(正岡子規 明治23年1月18日 夏目漱石宛書簡)






最終更新日  2018.01.25 01:42:21
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2018.01.24
カテゴリ:子規と漱石

 
 幼い頃から、子規も漱石も寄席が好きでした。
 幼い子規は、松山の大街道にあった「遠山席」とも「改良座」とも称した寄席に掛けられる軍談(講談)に夢中になりました。当時、松山で人気を集めていたのは軍談師の燕柳でした。柳原極堂著『友人子規』には、燕柳は「大阪風の講釈ぶりで大きな張扇で机をバタバタ叩きながら威勢よく盛んな調子」だったとあります。 
 明治11(1878)年、子規と親戚の三並良(はじめ)は、親に無断で親戚に金を借り、寄席に潜りこみました。そのことが発覚して家の戸を閉められ、閉め出されたこともありました。
 上京してからも子規は、友人たちと連れ立って寄席に出かけました。木戸銭の捻出に借金や質屋を利用したこともあります。「白梅亭」は神田連雀町、「立花亭」は日本橋通石町にあり、猿楽町の下宿からも近かったためでした。
 当時は「娘義太夫」がブームとなっていて、書生たちは「堂摺連」を結成して、奇声を発しました。名前の通り、サワリの部分で「どうするどうする」と囃したて、拍手喝采するのですが、子規たちもそれに倣ってはしゃぎました。
 南方熊楠は、大学予備門で同級だった子規や秋山真之が大流行していた奥州仙台節を習っていると記しています。子規は、『筆まかせ』で三遊亭円朝を文章の手本とするようにと記しています。円朝は、本名が出淵次郎吉で、前田備前守に仕えた江戸留守居役を祖父に持つといいます。伊予国出淵庄を領していたという噂もあり、子規はこれを誇っていたのでしょうか。
 

 
 漱石は、『僕の昔』で「何分兄等が揃って遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになってしまったのだよ」といい、明治41年9月号の「ホトトギス」掲載の『正岡子規』には、「忘れていたが、彼と僕と交際し始めたも一つの原因は、二人で寄席の話をした時、先生も大に寄席通を以て任じて居る。ところが僕も寄席のことを知っていたので、話すに足るとでも思ったのであろう、それから大いに近よって来た 」とあるように、漱石も子規も寄席が好きでした。
 漱石の贔屓は柳家小さんで、小説『三四郎』の中で「小さんは天才である。あんな芸術家は滅多にでるものじゃない。……彼と時を同じうして生きている我々は大変な仕合せである。今から少し前に生れても小さんは聞けない。少し後れても同様だ」と絶賛しています。
 
 子規と漱石は、幼い頃からの寄席通いが共通し、その縁でさらに親しくなっていきました。
 
 余はこの頃、井林氏とともに寄席に遊ぶことしげく、寄席は白梅亭か立花亭を常とす。しかれども懐中の黄衣公子意にまかせざること多ければ、あるいは松木氏のもとに至り、あるいは豊島氏のもとに至り、多少を借りきたりてこれをイラッシャイという門口に投ずることしばしばなれども、未だかつて後にその人に返済したることなし。必ずうたてき人やとうとまれけん。また、人をして余らの道楽心を満足せしむることは、度々できることにあらざれば、時として井林氏は着物を質に置き、その金にて落語家の一笑を買うたることもありたり。寄席につとめたりというべし。(『筆まかせ』「寄席」)
 
 (明治)二十一年の頃には、君と僕とは土曜日の夜ごとに落語を聞きに寄席へ出かけた。落語家の手腕を比較して番付さえ作った。君は落語を哲学的に評論するというて、大分書かれたものもあった。(大谷是空『正岡子規君』)
 
 落語か。落語はすきで、よく牛込の肴町の和良店へ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといえば子供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席はたいてい聞きに回った。なにぶん兄らがそろって遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになってしまったのだ。落語家で思い出したが、僕の故家からもう少し穴八幡のほうへ行くと、右側に松本順という人の邸があった。あの人は僕の子供の時分には時の軍医総監ではぶりがきいてなかなかいばったものだった。円遊やその他の落語家がたくさん出入りしておった。(夏目漱石 僕の昔)
 
 松山の今は銀座通りと呼ばれる大街道に、今は残っていないが寄席があって、それに軍談(講談のこと)があった。燕柳という男のが、我々には面白かった。彼は真田三代記が得意で、大坂冬の陣、夏の陣を読んでいた。彼は家康がきらいで、幸村にめちゃめちゃにやられる光景を、ものも鮮かに演じたり、家康が六文銭の旗を見ると、腰をぬかして、彦左「またぬけた」などいう辺りを面白おかしく述べ立てるので、我々は夢中になっていた。……景浦の夜学に行く晩に、子規と寄席の前を通って、昨晩の続きが聴きたくて仕方がなくなった。代金は一人前全部で五、六厘だったと記憶するが、その頃私どもには小使いというものが特別に渡されなかったので、一文だって金銭は所有していなかったが、それでも何かの残りが、誰かの袂に四、五厘はあった。もう五、六厘あれば、入れるのだった。相談の結果、子規の親類が近所にあるので、彼がそこへ借りに行って難なく借りてきて、一緒に講談を聴いて、いつもの通り、通学から帰ったつもりにしてくると家の大戸がしまっていて、開かない。いくらたたいても何の返事もない。変だが悪事露見したのかと思っていると、子規が飛んできて、どうした、お前も入られんのかという。運命は同じなのだ。どんどんたたいていると、母の声がして『今夜はもう開けてやらん、夜学へ行くといって寄席へ行くものなんかは入らさんぞな』という。その中に子規のお母さんが見にきてくれて、升も入らすから幸さんもお入れといってくれたので、やっと門が開いた。どうして露見したかというと、その晩おり悪しく雨が降り出したので、子規の母と私の母とが雨傘と下駄を持って、景浦先生のところまで行ったのであったが、今夜は二人とも来ないといわれ、それではてっきり、燕柳を聴きに行ったと図星をさされ、双方の母たちが相談して門をしめて入れなかったのだ。(三並良『子規の少年時代』)
 
 いそがしき手習のひまに長々しき御返事、態々御つかわし被下候段、御芳志の程ありい(洋語にあらず)、かく迄御懇篤なる君様を何しに冷淡の冷笑のとそしり申すべきや。まじめの御弁護にていたみ入りて穴へも入りたき心地ぞし侍る程に、一時のたわ言と水に流し給へ。七面倒な文章論かかずともよきに、そこがそれ人間の浅ましき。終に余計なことをならべて君にまた攻撃せられて大閉口、何事も餅が言わする雑言過言と御許しあれ。
 当年の正月は不相変雑煮を食い、寝てくらし候。寄席へは五六回程参り、かるたは二返取り候。一日神田の小川亭と申にて鶴蝶と申女義太夫を聞き、女子にでもかかる掘り出し物あるやと愚兄と共に大感心。そこで愚兄、余に云う様「芸がよいと顔迄よく見える」と。その当否は君の御批判を願います。
 米山は当時夢中に禅に凝り、当休暇中も鎌倉へ修行に罷越したり。山川は不相変学校へは出でこず、過日十時頃一寸訪問せしに未だ褥中にありて、煙車を吸い、それより起きて月琴を一曲弾て聞かせたり。いつもいつものん気なるが、心は憂欝病にかからんとする最中也。これも貴兄の判断を仰ぐ。兎角この頃は学校でも吾党の子が少ないから、何となく物淋しく面白くなし。可成早く御帰りお帰り。もう仙人もあきがきた時分だろうから、一寸已めにしてこの夏にまた仙人になり給え。云々
別紙文章論今一度貴覧を煩はす云々
   埋塵道人拝
  四国仙人 梧下
 七草集、四日大尽、水戸紀行、その他の雑録を貴兄の文章と也。文章でなしと仰せらるれば失敬御免可被下候。(明治23年1月 夏目金太郎 子規宛書簡)






最終更新日  2018.01.24 01:07:10
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2018.01.23
カテゴリ:子規と漱石

 
 明治22年(1889)から、子規は生涯の友となる夏目金之助と交友を深めます。
 明治17年(1884)に子規と金之助は東京大学予備門に入学しました。子規は、明治18年(1885)の学期末試験で不合格となって落第しましたが、金之助も腹膜炎のため、翌年の進級試験を受けられず、落第の憂き目を見ていたのでした。
 落第で同級という、偶然の絆を結んだ二人は、子規の『七草集』をきっかけとして、話を交わすようになりました。『七草集』は、明治21年(1888)の夏に向島にある長命寺境内の桜餅屋に寄宿して書き上げたのです。秋の七草から題を取り、漢文の「蘭之巻」、漢詩の「萩之巻」、和歌の「をミなへし乃巻」、俳句の「尾花のまき」、謡曲の「あさかほのまき」、「かる萱の巻」で構成されるこの本は、後に向島の地誌「葛之巻」と小説の「瞿麦の巻」を書き足し、「かる萱の巻」をはずしました。この『七草集』は、友人たちの間で回覧されて評判となりました。
 金之助は、この文集の評で初めて「漱石」の号を用いました。この雅号は、子規がかつて名乗っていたこともある雅号だったのです。
 子規が書いた『七草集』に誘発され、 漱石は漢詩集『木屑録』を書きました。これを読んだ子規は、「甚だまずい」漢文で「頼みもしないのに跋」を書いてよこしたと、漱石は『正岡子規』の中で語っています。
 互いの技量を知った二人は、書簡を頻繁に交わして友情を深めました。
 漱石は「一体正岡は無暗に手紙をよこした男で、それに対する分量はこちらからも遣った」(『正岡子規』)と語っていますが、文学観や人生観、苦悩する心情などに彩られた手紙は、二人の心を結びつけました。
 子規は、これらの手紙で自分を「妾」、漱石を「郎君」と書いて、我が身を女性に擬していますが、現実の子規は、漱石を子分のように扱っていました。
 

 
 僕も詩や漢文を遣っていたので大いに彼の一粲を博した。僕が彼に知られたのはこれが初めであった。ある時、僕が房州に行った時の紀行文を漢文で書いて、その中に下らない詩などを入れておいたそれを見せたことがある。ところが大将頼みもしないのに跋を書いてよこした。……非常に好き嫌いのあった人で、滅多に人と交際などはしなかった。僕だけどういうものか交際した。一つは僕の方がええ加減に合わしておったので、それも苦痛なら止めたのだが苦痛でもなかったからまあできていた。こちらが無闇に自分を立てようとしたら、とても円滑な交際のできる男ではなかった。例えば発句などを作れという。それを頭からけなしちゃいかない。けなしつつ作ればよいのだ。策略でするわけでもないのだが自然とそうなるのであった。つまり僕の方が人がよかったのだな。……も一つは向こうの我、こちらの我とが無茶苦茶に衝突もしなかったのであろう。忘れていたが彼と僕と交際し始めたも一つの原因は、二人で寄席の話をした時、先生も大いに寄席通をもって任じておる。ところが僕も寄席のことを知っていたので、話すに足るとでも思ったのであろう。それから大いに近よって来た。(夏目漱石『正岡子規』)
 
 「子規という男は何でも自分が先生のようなつもりでいる男であった。俳句を見せると直ぐそれを直したり圏点をつけたりする。それはいいにしたところで僕が漢詩を作って見せたところが、直ぐまた筆をとってそれを直したり、圏点をつけたりして返した。それで今度は英文を綴って見せたところが、奴さんこれだけは仕方がないものだからVery goodと書いて返した』と(漱石は)言ってその後よく人に話して笑っていた。(高浜虚子『漱石氏と私』)
 
 子規が始終敬服していたのは、何といっても漱石であったようだ。しかし漱石にも無条件で敬服することは彼の覇気が許さぬようだった。『江戸児には奇気が乏しい、それが文章の上にも露われると夏目に言ってやったら、反駁めいた長い手紙が来たよ』と語られたことがあった。(菊池仙湖『予備門時代の子規』)






最終更新日  2018.01.23 00:22:33
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