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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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夏目漱石

2022.01.24
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カテゴリ:夏目漱石
 漱石は、『一夜』『草枕』『硝子戸の中』で伊藤若冲を取り上げています。
 初期の作品である『一夜』は、二人の男と一人の女が、一夜を通じて「美しき夢」をいかに描くかということを語り合う小説(?)です。夢のようなまどろんだ話は、まるで絵の中の人々が退屈しのぎに画論をしているようなのです。そこに登場するのが若冲の「蘆雁」で73羽の雁が登場するというところから「秋塘群雀図」なのかもしれません。この画には、紅一点ならぬ白一点の雁が画面の上に配置されています。
 
『草枕』では、画稿が泊まった宿の床にかかっている「気兼なしの一筆がきで、一本足ですらりと立った上に、卵形の胴がふわっと乗っかっている様子」に描かれた「鶴」は、若冲の「飄逸の趣き」に満ちており、一気呵成に描いた鶴の絵が難点か残されています。
 
『硝子戸の中』に登場するのは、門人の小宮豊隆との議論で登場する「鶏」の絵です。若冲は「鶏の画家」とも呼ばれていますから、その華麗な色彩に豊隆が魅入られても不思議はありません。豊隆は、大正4年2月発刊の「美術新報」に『若冲の絵』を掲載していますから、漱石に対抗するだけの知識を持っていたのでしょう。
 しかし、漱石はそのような絢爛豪華な絵よりも、俳味溢れる画の方が好きだったということなのでしょう。
 
 床柱に懸けたる払子の先には焚き残る香の煙りが染み込んで、軸は若冲の蘆雁と見える。雁の数は七十三羽、蘆はもとより数えがたい。籠ランプの灯を浅く受けて、深さ三尺の床とこなれば、古き画のそれと見分けのつかぬところに、あからさまならぬ趣きがある。「ここにも画が出来る」と柱によれる人が振り向きながら眺める。(一夜)
 横を向く。床にかかっている若冲の鶴の図が目につく。これは商売柄だけに、部屋に這入った時、すでに逸品と認めた。若冲の図は大抵精緻な彩色ものが多いが、この鶴は世間に気兼なしの一筆がきで、一本足ですらりと立った上に、卵形の胴がふわっと乗っかっている様子は、はなはだ吾意を得て、飄逸の趣きは、長い嘴のさきまで籠っている。床の隣りは違い棚を略して、普通の戸棚につづく。戸棚の中には何があるか分らない。(草枕 3)
 
 その男はこの間参考品として美術協会に出た若冲(じゃくちゅう)の御物(ぎょぶつ)を大変に嬉しがって、その評論をどこかの雑誌に載せるとかいう噂であった。私はまたあの鶏の図がすこぶる気に入らなかったので、ここでも芝居と同じような議論が二人の間に起った。
「いったい君に画(え)を論ずる資格はないはずだ」と私はついに彼を罵倒(ばとう)した。するとこの一言が本になって、彼は芸術一元論を主張し出した。彼の主意をかいつまんでいうと、すべての芸術は同じ源から湧いて出るのだから、その内の一つさえうんと腹に入れておけば、他は自ずから解し得られる理窟だというのである。座にいる人のうちで、彼に同意するものも少なくなかった。
「じゃ小説を作れば、自然柔道も旨くなるかい」と私が笑談(じょうだん)半分にいった。
「柔道は芸術じゃありませんよ」と相手も笑いながら答えた。
 芸術は平等観から出立するのではない。よしそこから出立するにしても、差別観に入って始めて、花が咲くのだから、それを本来の昔へ返せば、絵も彫刻も文章も、すっかり無に帰してしまう。そこに何で共通のものがあろう。たとい有ったにしたところで、実際の役には立たない。彼我共通の具体的のものなどの発見もできるはずがない。
 こういうのがその時の私の論旨であった。そうしてその論旨はけっして充分なものではなかった。もっと先方の主張を取り入れて、周到な解釈を下してやる余地はいくらでもあったのである。
 しかしその時座にいた一人が、突然私の議論を引き受けて相手に向い出したので、私も面倒だからついそのままにしておいた。けれども私の代りになったその男というのはだいぶ酔っていた。それで芸術がどうだの、文芸がどうだのと、しきりに弁ずるけれども、あまり要領を得たことはいわなかった。言葉遣いさえ少しへべれけであった。初めのうちは面白がって笑っていた人達も、ついには黙ってしまった。
「じゃ絶交しよう」などと酔った男がしまいにいい出した。私は「絶交するなら外でやってくれ、ここでは迷惑だから」と注意した。
「じゃ外へ出て絶交しようか」と酔った男が相手に相談を持ちかけたが、相手が動かないので、とうとうそれぎりになってしまった。
 これは今年の元日の出来事である。酔った男はそれからちょいちょい来るが、その時の喧嘩については一口もいわない。(硝子戸の中 27)






最終更新日  2022.01.24 19:00:07
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2022.01.22
カテゴリ:夏目漱石
 漱石は、イギリス時代、ブレイクに関心を寄せていました。明治34年8月6日の日記には「Craigに至る。氏、我詩を評してBlakeに似たりといえり。しかしincoherentなりといえり」とあり、クレイグに自作の英詩を見せたところ、ブレイクに似ているといわれます。しかし、その詩は「incoherent(まとまりがない)ともいわれました。
 
 漱石がグレイグに見せた詩は、「Life's Dialogue」という8連からなる詩でした。最初の章だけをご紹介します。(拙訳ですみません)
 
   First Spirit.
 Out of hope and despair,
 Man twists the rope of life,
 As beautiful and fair,
 As born of passion and strife.
 He twists and twists and twists.
 Forever twisting he dies,
 Then his eyes are glazed with mists,
 Then cold and naked he lies.
 
   第一の霊
 希望と絶望の彼方
 人は人生の縄を編んで行く
 美しく、きちんと・・・
 情熱と闘争を育みながら。
 彼は縄を編む 縄を編む  縄を編む
 永遠に 編みつづけて 彼は死んで行く、
 そのとき 彼の目は霧でおおわれ光り輝く、
 そのとき 裸の彼は冷たくなって横たわる。
 
 ブレイクとは、イギリスの詩人、画家であるウィリアム・ブレイクのことです。ブレイクは、1757年11月28日、ロンドン、ソーホー地区で、靴下商人ジェイムス・ブレイクの家に生まれ、幼い頃から絵の才能があったため絵画学校に入り、1772年に彫刻家ジェイムス・バーシアに弟子入り。銅版画家、挿絵画家として生計を立てていました。
 詩と絵の両方を同一画面に配置する「彩飾印刷」という手法を開発し、自らの挿画を散りばめた詩集を出版したのですが、それらの作品が評価されるのは死後のことになります。19世紀後半になって、ラファエル前派の画家たちにによりその詩と版画が注目されます。詩人スウィンバーンは、ブレイク評論の単行本を1868年に出版していますが、漱石のブレイクに関する知識の多くは、この本によっています。
 
 およそ象徴法における記号は多くの場合において思索の関門を通じて始めて捉え得るを例とす。換言すれば、記号はその代表するところのものを直下に喚起して、水をくんで冷暖自知するが如くに興を誘い来ることすくなきが故、あたかも洒落を聴きて感じ得ず、その説明を待って始めてその意を悟ると異なるところなきに似たる点あり。紳秘の風致を具えたる詩人Blakeは象徴に特殊の興味を有したるが如く、遂にSwinburneをしてその作Cabietを評して左の言辞を用いしむるに至れり。
「箪笥(Cabinet)とは情熱熾なるか、もしくは詩趣饒かなる、幻夢の謂なり。形而上の宝なり。ややともすれば変じて形而上の束縛たらんとするものなり。人はこの中に在って幽せらる。金鍵ありといえども遂に楚囚たるを免かれず。この牢獄を造るものは愛情に外ならず、また芸術に外ならず。この中に坐して遠く望めば美妙の景、和怡の楽、月の光、露の色、すべて清新なる天地ありてもって吾身を安んずるに足り、吾目を悦ばしむるに足る。しかれども遂に標緲として捕捉すべからず、影の如くにして追うべからず。一たびこの中に入れば吾人現世の悦楽と威力は忽ちにして倍また倍となる。ただ人求むること多きに過ぎ形而上のものを形而下に変ぜんとするとき、五指の把持に堪えざる深邃なる一物を炎の手に捕えんとするとき、永劫無窮を有為転変に訳せんとするとき、本元底を仮存底に訳せんとするとき、実在的を附在的に訳せんとするとき、吾人の生命と共に長かるべき結構は忽然と破滅して気なえ目眩して号泣やまざる赤子の如くに吾人を放下し去る。(文学論 第一章 文学的Fと科学的Fとの比較一汎)
 
 かくの如く、Blakeはこの詩において無暗と「七」なる数字を繰り返せど、この数字は知識を伝うる方面より見て全く価値なきものなること明らかなり。唯これによりてこの神秘不可思議の一篇に何処ともなく精確の心地を添うる役を果たすのみ。(文学論 第一章 文学的Fと科学的Fとの比較一汎)
 
 彼等はこういう了見で筆を執り始めた。もとより世間を教育する積りでいた。応じないものは冷笑する気でいた。しかし真面目にはやらない気でいた。真面目は野暮で、喧嘩は野蛮であると思っていた。熱烈痛刻は未開時代の人民の性情で、enlightenedという言葉と矛盾するように考えていた。都会の流行を書けば文学者の能事は畢るものと信じていた。日常の礼儀作法に批評を下せば天晴な道徳家だと心得ていた。市井の瑣事を論ずれば文学者だと合点していた。彼等のあとに、バーンスが出た。クーパーが出た。ブレークが出た。オシアンの繹訳が出た。パーシーの古謡集が出た。彼等はこれらの詩人と詩集とを天地間に存在し得るものとは夢にも想像し得なかったろう。アヂソンの衒学者(ペダント)を論じた條(『スペクテーター』第百五号)にこうある。(文学評論 第三編 アヂソン及びスチールと常識文学)
 
 漱石が『文学論』で紹介した詩は「MY Spectre around me night and day」で、「昼も夜も私を取り囲む精霊(あるいは幽霊)」とでも訳せばよいのでしょうか。
 
 MY Spectre around me night and day 
 Like a wild beast guards my way; 
 My Emanation far within 
 Weeps incessantly for my sin. 
 
 ‘A fathomless and boundless deep, 
 There we wander, there we weep; 
 On the hungry craving wind 
 My Spectre follows thee behind. 
 
 ‘He scents thy footsteps in the snow 
 Wheresoever thou dost go, 
 Thro’ the wintry hail and rain. 
 When wilt thou return again? 
 
 ’Dost thou not in pride and scorn 
 Fill with tempests all my morn, 
 And with jealousies and fears 
 Fill my pleasant nights with tears? 
 
 ‘Seven of my sweet loves thy knife 
 Has bereaved of their life. 
 Their marble tombs I built with tears, 
 And with cold and shuddering fears. 
 
 ‘Seven more loves weep night and day 
 Round the tombs where my loves lay, 
 And seven more loves attend each night 
 Around my couch with torches bright. 
 
 ‘And seven more loves in my bed 
 Crown with wine my mournful head, 
 Pitying and forgiving all 
 Thy transgressions great and small. (以下略)
 
 ブレイクといえば、レクター博士が初めて登場するトマス・ハリスの小説「レッドドラゴン」を思い出します。犯人のフランシス・ダラハイドは、ブルックリン美術館を訪れてブレイクの「巨大な赤い龍と太陽を着た女」の絵を食べてしまいます。また、ダラハイドは、自分の背中に赤い龍のタトゥーを入れています。
 
 漱石は『文学論』で「無暗と「七」なる数字を繰り返せど、この数字は知識を伝うる方面より見て全く価値なきものなること明らかなり」と書いていますが、この「七」は、ヨハネの黙示録の「もう一つのしるしが天に現れた。見よ、大きな、赤い龍がいた。それに七つの頭と十の角とがあり、その頭に七つの冠をかぶっていた。(ヨハネの黙示録 12章3節)」という、赤い龍の数字です。
 ブレイクは、近代的な合理主義によって隠されてしまった真理を、この「地獄の数字」を用いて明らかにしようとしたのです。ブレイクの作品では、「地獄」「悪魔」「サタン」といった言葉が用いられてはいるのですが、ブレイクは悪魔を礼賛していたわけではありません。「悪魔」という言葉の持つ神との対立や宗教観を、「彩飾印刷」の手法を用いて、詩的に表現しようとしたのでした。






最終更新日  2022.01.22 19:00:07
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2022.01.19
カテゴリ:夏目漱石
「それから、この木と水の感じ(エフフェクト)がね。――たいしたものじゃないが、なにしろ東京のまん中にあるんだから――静かでしょう。こういう所でないと学問をやるにはいけませんね。近ごろは東京があまりやかましくなりすぎて困る。これが御殿」と歩きだしながら、左手の建物をさしてみせる。「教授会をやる所です。うむなに、ぼくなんか出ないでいいのです。ぼくは穴倉生活をやっていればすむのです。近ごろの学問は非常な勢いで動いているので、少しゆだんすると、すぐ取り残されてしまう。人が見ると穴倉の中で冗談をしているようだが、これでもやっている当人の頭の中は劇烈に働いているんですよ。電車よりよっぽど激しく働いているかもしれない。だから夏でも旅行をするのが惜しくってね」と言いながら仰向いて大きな空を見た。空にはもう日の光が乏しい。
 青い空の静まり返った、上皮に白い薄雲が刷毛先でかき払ったあとのように、筋かいに長く浮いている。
「あれを知ってますか」と言う。三四郎は仰いで半透明の雲を見た。
「あれは、みんな雪の粉ですよ。こうやって下から見ると、ちっとも動いていない。しかしあれで地上に起こる颶風以上の速力で動いているんですよ。――君ラスキンを読みましたか」
 三四郎は憮然として読まないと答えた。野々宮君はただ
「そうですか」と言ったばかりである。しばらくしてから、
「この空を写生したらおもしろいですね。――原口にでも話してやろうかしら」と言った。三四郎はむろん原口という画工の名前を知らなかった。(三四郎 2)
 
 野々宮の「君ラスキンを読みましたか」というのは、ラスキンの『近代画家論』のジョン・ラスキンのことです。ラスキンは画家ではないのですが、芸術家のパトロンとなった美術評論家で、『近代画家論』の中で、雲の形についての詳細な研究を試みており、遠近感、透明感、風や光との関係に深く考察しています。
 
 ラスキンは、19世紀イギリス・ヴィクトリア時代を代表する評論家・美術評論家のウィリウム・モリスのアーツアンドクラフツ運動をバックアップし、「芸術と職人がいまだに未分化の状態で、創造と労働が同じ水準に置かれ、人々が日々の労働に喜びを感じていた時代」を実現するための精神的支柱となっています。






最終更新日  2022.01.20 14:34:40
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2022.01.17
カテゴリ:夏目漱石
 余のいわゆる超自然的材料中には単に宗放的、信仰的材料を含むのみならず、すべての超自然的元素即ち自然の法則に反するもの、もしくは自然の法則にて解秤し能はざるものを含めばなり。例えば、……②Macbeth中の妖婆、RossettiのKing’s Tragedy中の妖婆(文学論 第一編 文学的内容の分類 第三章 文学的内容の分類及びその価値的等級)
 
 詩人Rossettiはかつていう、太陽が地球を廻るも、地球が太陽を廻るも吾が関するところにあらずと。(文学論 第三編 文学的内容のその特性 第一章 文学的Fと科学的Fとの比較一汎)
 
 Oxford学生の熱心にこの書を迎えたる意気は実に驚くべきものありき。某聯隊の如きは一人としてこれを手にせざる士官なきに至れりという。Rossetti, Wm. Morris, Burne-Jonesの徒また争って書中の主人公を取って、わがモデルとせりと称せらる。(文学論 第六編 原則の応用(四))
 
 著者は「ヲッツ、ダントン」という男だ。別段有名な人でもない。一咋年出版になった「ファーカーソン、シャープ」の文学者字彙には、一八三二年生とあるから、もう善年齢である。今までは雑誌記者をしたり、批評家になったり、またある時は「アセニーアム」へ詩稿を寄送したりなどしておったようにみえる。かつて「ロゼッチ」が、この人の詩を買讚したという話もあるが、兎に角「エイルヰン」を出すまでは、左のみ有名ではなかった。(小説『エイルヰン』の批評)
 
 次にはロセッテイーの『浄福の乙女』(The Blessed Damosel) の一節を引く。
   "We two," she said, "will seek the groves
   Where the lady Mary is,
   With her five handmaids, whose names
   Are five sweet symphonies,
   Cicily, Gertrude, Magdalen,
   Margaret and Rosalys."
 終わりの二行に列挙した五世紀六世紀の固有名詞が果たして作者自らのいう如く「五つの美しい楽の音」と聞こえるであろうか、これらの固有名詞の来歴をしって読んだなら、多少の感興を起こすに相違いない。(講義 英文学形式論)
 
 ロセッテイーの『五人の侍女』の場合も錯雑したる頭韻が使用されている。
   Cicily, Gertrude, Magdalen,
   Margaret and Rosalys(講義 英文学形式論)
 
 ロセッティとはイギリスの画家・詩人のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティのことです。明治期の文壇では、画家よりも詩人として捉えられていて、漱石も『文学論』では詩「King’s Tragedy」をとりあげ、『英文学形式論』という講義では「浄福の乙女」「五人の侍女」について触れています。
 
 しかし、ロセッティは、画家として知られています。王立美術院に入学したものの、古典偏重の教育に疑問を抱き、ウィリアム・ホルマン・ハントやジョン・エヴァレット・ミレーらの友人たちとともに、初期ルネサンス絵画への回帰を掲げるラファエル前派を1848年結成しているからです。
 ラファエル前派の絵は、漱石作品に強い影響を与え、『三四郎』に登場するウォーターハウスの「人魚」や『草枕』の登場人物の那美に対するイメージとして、ミレーの「オフィーリア」などがあります。
 
 明治34年4月7日の日記には、「Denmark HillによりPeckhamのGreenを経て帰途。South L. Art Galleryに至る。Ruskin, Rossettiの遺墨を見る。面白かりし」とあり、8月3日にはカーライル博物館の後にロセッティの家を眺めています。日記には「午後Cheyne Road 24に至り、Carlyleの故宅を見る。すこぶる粗末なり。Cheyne Walkに至り、Eliotの家とD. G. Rossettiの家を見る。前のGardenにD.G.R.が噴井の上に彫りつけてある」と書いています。
 
 漱石の『夢十夜』の第一夜には、ロセッティの詩「祝福されし乙女」の影響が見えます。先に天国に逝った女性が、地上に残してきた恋人と再会する日を待つという内容の詩です。
 
 こんな夢を見た。
 腕組をして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますという。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔かな瓜実顔をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますとはっきりいった。自分も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、といいながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。
 自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢を眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、ねんごろに枕の傍へ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。すると女は黒い眼を眠そうにみはったまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわといった。
 じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。
 しばらくして、女がまたこういった。
「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」
 自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
 自分は黙ってうなずいた。女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい」と思い切った声でいった。
「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
 自分はただ待っていると答えた。すると、黒い眸のなかに鮮かに見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。長い睫の間から涙が頬へ垂れた。――もう死んでいた。
 自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。真珠貝は大きな滑かな縁の鋭い貝であった。土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。湿った土の匂いもした。穴はしばらくして掘れた。女をその中に入れた。そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。
 それから星の破片の落ちたのを拾って来て、かろく土の上へ乗せた。星の破片は丸かった。長い間大空を落ちている間に、角が取れて滑かになったんだろうと思った。抱き上あげて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖くなった。
 自分は苔の上に坐った。これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組をして、丸い墓石を眺めていた。そのうちに、女のいった通り日が東から出た。大きな赤い日であった。それがまた女のいった通り、やがて西へ落ちた。赤いまんまでのっと落ちて行った。一つと自分は勘定した。
 しばらくするとまた唐紅の天道がのそりと上って来た。そうして黙って沈んでしまった。二つとまた勘定した。
 自分はこういう風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分らない。勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。
 すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺らぐ茎の頂きに、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらとはなびらを開いた。真白な百合が鼻の先で骨にこたえるほど匂った。そこへ遥かの上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴たる、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。(夢十夜 第一夜)






最終更新日  2022.01.17 19:12:34
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2022.01.15
カテゴリ:夏目漱石
 明治39年11月1日の『ホトトギス』に掲載された『文章一口話』は、印象派についての解説を松根東洋城に筆談してもらったものです。
 11月6日の森田草平に宛てた手紙には、「文章一口談は例の東洋城が池上の山門で芸者を見ながら筆記したもの、何だか怪しいものだ。不折のイムプレッショニストの論は乱暴なものだ。大将曰く感興そのものをかくからイムプレッショニストだと。無学もここに至って極まる。本人画工じゃないか。しかして印象派なる名目の由来を知らないで馬鹿なことをいう」とあり、文章は、「印象派」という中村不折の談話のことです。
 大正10年に刊行された『画堂一班』にも「印象派の仕事はその字の示すが如く、急速に起る感情を捕捉して画幀に上ばすというのであろう。しかしてその手段が実に不思議だ、白かるべき処へ青い絵具をなする、出来上りの後に見ると本統の白に見えるというやり方をする。日本の印象派と称するものように、何時でも紫の蔭ばかり使用する拙劣さ加減では、到底アンプレッションの名称を与えることは出来ないだろうと思う。印象派は十人よれば十人の別があるぺき筈だ、同じ一人としても場所と時とにより、色から意匠から皆違わなくてはなるまい」と書いていますから、印象派に関する不折の考え方が変わっていないのがわかります。
 このことに関して、漱石は不折に不信感を抱いたのでした。
 
 絵画に impressionistというのがある。これはTurnerが元祖である。Turner自身でこういう一派を創設主唱したのでもなければ、この時代の人からそう認められていたのでもない。ただずっと後世になって、かかる一派が事実上認められるようになり、遠くその系統をたどり、その根源にさかのぼってみると、この人に帰着するというのである。
 伝統はとにかく、インプレッショニストの特色は、いかなる色を出すにも間色を用いぬということに帰着する。かれらの考うるところによれば、すべての色は主色の重なったもので、混じっ たものではない、という立脚地から出立する。したがって、近寄ってはなんだかわからぬが、立ち離れて一定の距離から見ると自然の色彩を感じうるようにかきこなす。その方法は、あらかしめパレットで顔料を混じて、その混じたものを画布に塗りつけるのではない。単純なる主色 (pure tones)を一色一色にじかに塗抹して、その集まったものを一定の距離から見ると、目の作用で、それがその写すベき実在の色彩に接したと同似の感を起こすようにするのである。色彩についての技術はこうだが、そのほか筆の用い方についても、たとえばここが一筆に勢いを示しえているとか、あるいは筆つきであたかも音楽のハーモニーのような趣を表わしているとかいうふうで、おもに技術のがわに心を用いる。したがって、それがこうじていくと、取材の選択とか、結構のくふうであるとかは、自然第二第三以下の問題となる。したがって、composition (結 構)から得る感じ、あるいは idea (思想)を表わすなどはどうでもよい。筆つきなどが巧みに運ばれておれば、絵画の能事は終わったように考えるほど極端になってくる。
 文章についても同じことが言えると思う。すなわち、文章のうえにもまたインプレッショニストがある。文章も、ある見方では、余のことには目をつけずに、ちょうど絵画に関して画家がそ の仲間で絵をほめ合うごとく、技術そのもののみをほめるようなことがある。ある意味からいうと、そういうのは、現在の写生文家が互いにほめ合うているところである。すなわち、今の写生文家の立場からいうと、要するに何を書こうがかってだ、ただその叙し方さえ巧みなればよい。 極端にいえば、車夫馬丁のだじゃれでも、馬がへをひったことでも、犬が孳しているさまでも、その叙述が精緻であれば、すぐにうまいといい、おもしろいという。ただ巧みに書こうという弊は、その何を言うかの目的に多大の注意を払わぬようになる。描き出された部分は、それはきわ めて明白に巨細に写されて、間然するところがないほどな技巧を示しているかもしれぬ。しかし、読んだあとでなんだか物足らない。淡泊であきたらないのではない。なんだか不満足である。で、その原因を探るといろいろになるが、分類をするのはめんどうであるからまずわかりやすい例でいうと、あるいは中心がない、あるいは山がない、あるいは人をひきつける力がないという場合が、比較的に多いように見える。たらいの中の水に春風が渡って水面を刷くさざなみのちりめんじわ一つ一つのこまやかに明らかではあるが、しかし、その水全体にこもる力がないという場合もある。面なめらかな大洋の波のなんの曲もなきがおのずから心ゆくカーブをなすのとは おのずから異むっているので、なんだか物足らない。そこで、かれらにきいてみると写生だとい う。なるほど、うまく写生ができているかもしれない。リアルかもしれない。しかしリアルであ ればそれでしゅうぶんだという場合ばかりはなかろう。リアルでもそのもの自身がつまらんとき は、せっかくの技巧は牛刀をもって鶏を裂くと同じことであろう。余の考えでは、かかる場合に おいて、よしありのままをありのままに写しおおせても、attructive でなければ物足らぬ。 attructiveであれば、如上の意味においてリアルでなくてもかまわぬ。神はクリエート(創造)する。人もクリエートするがよい。一定の時の一定の事物をすみからすみまで 一毫一厘写さずとも、のみ ならず、進んで一葉一枝一山一水の削加増減をあえてするとも、あたかも一定時の一定事物に接 したかの感じを与えうればよい。さらに一歩を進めると、いつかどこかに、はたして存在し、または存在すべきことを要せぬ、ただただちにまったく実在すると感じられ、実在するであろうか せぬであろうかと遅疑する余裕のないものならば、それでたくさんだ。これまた一種の意味においてリアルである。この意味においてのリアルとは、一定の時に一定の場所に起こった事物の証拠力ではない、歴史的考証力でもない、身まさにその説述の裏に同化し、真偽のまぎわにたゆとうことなき境涯の状態を意味するのである。かくて事物の証拠力としては許されぬクリエーションは、如上の同化の境涯を真覚せしめるためには、許されうべきのみならず、また実に必要である。ある場合にあっては、多少のクリエーションを許すがゆえにじゅうぶんattructiveとなり、attructiveであってはじめて芸術的にリアルとなる。こうやったら事実にちがおうか、そうした らうそになろうか、と 戦々競々として、いたずらに材料たる事物の奴隷となるのは文学のこと ではない。感興のおもむくところ、クリエーションの思いきりがたいせつである。翼々として思いきれぬ写真術には、感興興趣の色彩はとれぬ。シェクスピアは、今の人ならばとてもそこまで は思いきって描くことができぬほどのあたりまで、興に任せ、筆を走らし、立ち入って描き出す。その思いきった点が、いつもその作を活躍せしめている。
 およそ世の中のことは、発達するにしたがい単純から複雑になる。本来をいうと、文章もどこ までが思想で、どこまでが技術かわからぬほど単純なものである。ところが、漸々人が文章を縦 に見たり横に見たりしてこねまわしているうちに、おのずから実質と技術とが分かれるようにな ってきた。同じものが分かれる訳はないが、人間の目のつけどころが複雑になると、一つのもの をいろいろに差別してみることができるから、こういう現象が起こるのである。たとえば、形と 色との関係のようなものだ。一の物体についていうと、そのものから色を取ればその形はなくな る。その形をとればその色はなくなる。二相帰一、色は形で、形は色である。しかし、人の知識 が進むにしたがい、アナリシス(解剖)ができるようになるから、このわかつことのできない色 と形とをも、仮に分けて見ることができる。同一物体から色だけを抽象し、もしくは形だけをぬ いて見ることができる。それと同じことで、文章も実質と技巧とを分けて見ることができるよう になる。ある人は技巧のみをぬいて見るし、ある人は実質のみをぬいて見る。すなわち、前者後 者の区別から、 form (形)に重きを置く技巧派と、 matter (質)を主とする実質派とも名づくべ き二流派を生ずる。しこうして、前者は現今の画界におけるインプレッショニストと同傾向のものである。
 Art of artは、文章もしくは絵画をかく分解してこれを技巧的にのみ観じうるほど、吾人の頭脳が発達したときにはじめて 勃興すべき現象であって、また必ず起こらねばならぬ一派である。それで、今のいわゆる写生文家には大いにこの傾向がある。この傾向のあるのは、時勢の発展上こういう一派が認められべき機運に到着したので、一方からいうと、むしろ社会がこれを産 出するまでに進んできたのである。歴史上漸次文章界も複雑になってきた結果、古くよりあった思想派のほかに近ごろ技巧派ができた、というのは開化の潮流がそこまで達したのであろう。ただ、この技巧派が極端に走るときには、まえに述べたような弊害に陥ることは自覚せねばならん。
 前述のしだいだから、いわゆる写生文は現今の社会からはすこぶるけいべつされて、なんらの価値もないもののように言われているにもかかわらず、自分はそうは思わぬ。日本人の全体、今 のいわゆる小説家などの多分の思うごとく、写生文は短くて幼稚だというのは誤りで、幼稚どころか、かえって進歩発達したものというてもしかるべきことと考えている。否、むしろ発達しすぎてその弊に陥ったもの、一方の極端に走ったものと思う。すなわち、実質そのものはどんな平凡なことでも、写す技巧さえ確かであればかまわない。平たくいえば、事がらはおもしろくないが叙述はうまかろう、という傾向になっている。それだから、ある人は大いに感服すると同時に、大いに不満足なのだろうと思われる。
 議論の原則としては、技巧で書いたものは技巧を見る。趣向が主なら趣向を見る。人情の機微を写したものなら人情の機微を見る。ただ極端に走り、余弊に陥った今の写生文家は、趣向、結 構(composition)、筋、しくみ(plot)を考えなければならぬ。
 技巧派の弊がこのへんにあるに対して、実質派の堕落の一は、ただ筋を運ぶよりほかに何も知らぬことであろう。その筋もおもしろければだが、つまらぬ人情話を容赦もなく運んでいく。まるで地図を開いて見ているようだ。あるいは造船の設計をながめているようだ。
 文章上について、こんなとっさの際に思ったことを述べるとよく尽くさぬことがあるので、しばしば人の誤解を招くことがある。この議論でももっと秩序をたてて長いものにして、はっきりと納得のいくようにしなければならんが、座談だから、そううまくはいかん。だいいち、考うべきことは、文章において考うべき条項は何と何であるか、それから詳しく考えて、そうして相互の関係を論じてみなければならん。しかるのち、小説でも戯曲でも完全な批評はできるのである。現今の批評というものは、毫も系統的でない。おのおのかってしだいに気のついたことをいいかげんに並べるばかりである。そのかわり、どれも機械的でない。そこがたのもしいところで、そうしてまた科学的でないところである。(文章一口話)






最終更新日  2022.01.15 19:00:06
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2022.01.13
カテゴリ:夏目漱石
 最後にウィルソンという景色画家のことについて一口御話をする。この男は英国風景画の元祖といわれた人で、伊太利(イタリヤ)及び仏蘭西(フランス)に遊んで、大陸諸家の感化を受けたのだそうである。もっともラスキンの評によると、この人の画はプーサンやサルヴァトルなどをもじった者に過ぎぬとある。御承知の如く天然と十八世紀というのはすこぶる興味のある問題で、十八世紀の詩を論ずる人は必らず十八世紀の詩人の天然に対する態度を批評するのが例である。余は一歩進んで詩中にあらわれた天然とこのウィルソンやゲーンズボローの画いた自然を比較して見たらば、やはり両方とも一様な臭味に支配せられていることはなかろうかと思う。しかしながら余の如き浅薄な絵画の智識では到底充分な御話は出来ないからこれ位にして已めて置く。それよりも他日もし機会があったら、かの有名なターナーの山水とこれらの諸家を対照して御覧になったら非常に興味のある発見をせらるる事ことと信ずる。(文学評論 第二編)
 
 ここに出てくるウィルソンは、イギリスの風景画家リチャード・ウィルソンです。元々は、トーマス・ライトという肖像画家の弟子として肖像画家でしたが、1750年から1757年頃までローマを中心にイタリアへ滞在したことで、絵の傾向が大きく変わります。
 ローマでは同地の風景画家フランチェスコ・ズッカレッリやフランス人画家クロード=ジョセフ・ヴェルネと出会い、クロード・ロランやニコラ・プッサンなどの古典主義の画家らの作品に感銘を受け、肖像画を棄て風景画の制作に専念します。
 1757年に帰国し、英国でも風景画家として確固たる地位を築きましたた。1768年、ジョシュア・レノルズらと共にロイヤル・アカデミーの創設に参加しました。しかし、風景画の衰退とともに顧客を失い、生活苦の中で酒に溺れて不幸な晩年を過ごしています。






最終更新日  2022.01.13 19:00:06
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2022.01.12
カテゴリ:夏目漱石
 更に方面を変えて「絵は如何です」と聞けば、漱石氏は巻煙草を一本、長閑に燻らして、
「好きですよ」と言下に応ずる、「お画きになるのですか」といえば
「サア」と苦笑して
「私が個人展覧会を開くという噂ですね、もちろん巫山戯た話でしょうが」と余程恐縮されたらしい。
 それから岡本一平君の噂、錦絵の話、話題が次第に多方面になる、そういっては失礼だが、お室の様子から家居の具合など、何となく先生一流の絵心が窺われる、「色彩の趣味に富んでおられるようですが」といえば、
「イヤ夏冬オッ通しの装飾で」と至極無造作だ。
 日本人の西洋画のお話では、
「日本人のが非常に劣ってるとはいえません、勿論西洋ので佳いのは非常に佳い、ガレリーには素ばらしい大作もありますが、ローヤル・アカデミーなどは案外なものですーー出品の条件は何んなことになっているか解りませんが、随分まずいのも麗々と並べてありますよ」と。
 他に先生は謡をやられる、
「これは謡うのではなく、怒鳴るんです……必要に迫られて」
 と江戸ッ子らしい溌溂たる語気、「お身体はもう全然良いのでしょう、学校に出ていられる頃と、大した違はないように思われますが」といえば、
「こう見えても、デリケートな時計のぜんまいのようなもので、すぐ狂います」と苦笑する。
 続いて、先年修善寺におられる頃の話やら、先生と楯半子と共通な知人の噂、泰然自若と尻が据る、もう一つ「他にはとおせがみすると
「矢張文芸ですねーー貴方はこっちに趣味をお持ちですか」といささか逆襲の形だ。
 この頃の文芸界は、綱ッ引の急行列車だ、門外漢がこの流行を追ッ駆けて行くのは、並大抵の苦心ではないーーこんなことをお話すると、
「しかしそれは無駄じゃありませんか、例えば私のような政治の門外漢が、内閣の更った後からそれを研究して行った処で、何の意味もないと同じことです、自分に確りした考があれば、強て流行をおう必要もありますまい」。
「例えば絵にしても、近頃は立体派を行き過ぎた、一派の新らしいのがある位ですが、安井さんなんかにいわせると、ロダンがそもそも山師で、白樺の人達に騒がれる、ゴーガン、ゴッホなどはいうに足らんということです、そこへ行くと謙遜なセザンヌの方が何んなに宜いか解らないとーーいいますね」
と。(猫の話絵の話)
 これは、大正4年8月25〜26日に報知新聞へ掲載された「猫の話絵の話」というインタビュー記事です。
 この中には、安井曽太郎の話をひいて「ロダンがそもそも山師で、白樺の人達に騒がれる、ゴーガン、ゴッホなどはいうに足らんということです、そこへ行くと謙遜なセザンヌの方が何んなに宜いか解らない」と話しています。
 では、安井曾太郎と漱石の間には、親交があったのでしょうか。芥川龍之介の『漱石山房の秋』には「西側の壁には安井曽太郎の油絵の風景画が、東側の壁には斎藤与里氏の油絵の草花が、そうしてまた北側の壁には明月禅師の無絃琴という草書の横物が、いずれも額になってかかっている」とあり、漱石が宗太郎の絵を所有していたことが書かれています。
 この絵は「麓の町」といい、大正4年10月に三越で開催された二科展の特別陳列として、滞欧作品44点が出品された中から、漱石が100円購入したものです。龍之介の親友で、洋画家・小穴隆一の『芥川龍之介の回想』「懷旧」には次のように書かれています。
 
 瀧井君と僕は、芥川の案内で、一度、漱石死後の書斎を見たことがあった。書斎の次ぎの間は、仏間になっていたように思うが、そこの鴨居のうえにあった油彩、安井曽太郎の、十号程の風景画を見ながら、芥川は、「夏目先生は、自分には、丁度このくらいの細かさの画がいいといっていた」と、教えてくれた。
 その画は、大正四年に、三越を会場とした二科第二回展に、特別陳列としてならべられた、四十四点の滞欧作のなかの一つで、終戰後、石井柏亭が書いていた「安井曽太郎」には、〔安井のこの時の陳列には四十五年西班牙(スペイン)旅行以後のものが多くを占め、四十二年フロモンヴィルの作であるところの「田舍の寺」などの、ミレかピサローかの感化を受けたようなものの僅かを交えたに過ぎなかった。そのミレ、ピサロー影響からセザンヌの感化を受けたものへの過渡期の諸作はすべてこれを省いてあった〕という一節があるが、僕はなんとなく、〔省いてあった〕というその部類にあてはまるもののように覚えている。(小穴隆一 芥川龍之介の回想 懷旧)
 
 後期印象主義に傾倒していた安井曽太郎でしたが、後期印象派の人々でも理論に裏打ちされないゴーガンやゴッホ、彫刻界の印象派といわれるロダンも好きではなく、セザンヌが好みだったということのようです。
 
 ロダンは有名なので、経歴などはカットしました。






最終更新日  2022.01.12 08:58:17
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2022.01.09
カテゴリ:夏目漱石
 拝啓。御手紙をありがとう。小説はとうから取掛るべきでありますが、横着のためついつい延びまして、その結果、編輯上御心配をかけまことに申訳がありません。なるべく早く書いて御催促を受けないで済むようにします。テニエルの切抜もありがとう。読んで見ました。九十四まで生きた人はあんまりないようですね。一平さんの漫画はまだ出版になりませんか。一平さんの画は百穂君の挿画などより評判がいいようです。一平さんの赤ん坊が死ん〔だ〕ことは始めて承知しました。今度会ったらどうぞ忘れずに弔詞を述べて置いて下さい。私は一平さんに妻君があろうとも思いませんでした。実際わかい顔をしているではありませんか。右まで。拝。
   四月十五日   夏目金之助(大正3年4月15日 鎌田敬四郎宛書簡)
 隣の男は感心に根気よく筆記をつづけている。のぞいて見ると筆記ではない。遠くから先生の似顔をポンチにかいていたのである。三四郎がのぞくやいなや隣の男はノートを三四郎の方に出して見せた。絵はうまくできているが、そばに久方の雲井の空の子規と書いてあるのは、なんのことだか判じかねた。(三四郎 3)
 
「なに、その原口さんが、きょう見に来ていらしってね、みんなを写生しているから、私たちも用心しないと、ポンチにかかれるからって、野々宮さんがわざわざ注意してくだすったんです」
 美禰子はそばへ来て腰をかけた。三四郎は自分がいかにも愚物のような気がした。(三四郎 6)
 
 小林はのっそり立ちどまった。そうして裄の長過ぎる古外套を着た両手を前の方に出して、ポンチ絵に似た自分の姿を鑑賞でもするように眺め廻した後で、にやにやと笑いながらお延を見た。お延の声はなお鋭くなった。(明暗 88) 
 
テニエルは、ジョン・テニエルのこと。イギリスの画家で、「パンチ」に掲載されたユーモアと諷刺に富んだ絵で人気を博しました。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の挿画で知られています。
「ポンチ」とは「パンチ」が訛った言葉で漫画のことをいいます。
 
 このお礼は、テニエルの死んだことを報じた3月1日の「東京朝日新聞」紙面の「切抜」または外国の新聞や雑誌を送ってきたためのものだと思います。鎌田敬四郎は朝日新聞の記者で、大阪朝日整理部長でした。






最終更新日  2022.01.09 19:00:07
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2022.01.07
カテゴリ:夏目漱石
 スコットの浪漫趣味とモリスの浪漫趣味とは大分違うようです。モリスはチョーサーに似ているといいます。そのチョーサーは詩人ではあるが、写実派という方が適当であります。すると浪漫主義を中世主義と解釈せぬ以上はスコットとモリスとを同じ浪漫派に入れるのが妙になって来ます。今度はモリスとゴーチェを比較する。誰が見ても同じ範疇では律せられそうもない。それでも双方とも浪漫家で通用しています。(創作家の態度)
 
 その教授Walter Raleighがその著The English Novel (二七一頁)中において吾人に告ぐる事実なり。数年前物故せるMissYongeのSir Guy Morvilleを著わすや0xford学生の熱心にこの書を迎えたる意気は実に驚くべきものありき。某聯隊の如きは一人としてこれを手にせざる士官なきに至れりという。Rossetti, Wm. Morris, Burne-Jonesの徒また争って書中の主人公を取って、わがモデルとせりと称せらる。星移り物遷ること半世紀ならずして、また一人のYongeを説くものなく、Sir Guyの存在をすら忘れたるが如し。(文学論 第五編第六章)
 
 輓近Wm. Morrisが自から古代の雰囲気を作って、好んでその内に住し、かねて読者をして杳邈たる過去の世界に逍遥せしめたるが如きもまたその好例なるを失はず。(ろ)の場合を名けて連結の復興という。(用字の生硬なるは難あるべきも)式において示せる如く、古代の類を異にせる二個以上の意識がーー二個以上の潮流というも可なりーー現在のそれと合して、彼是融釈せる場合をいう。(文学論 第五編第六章)
 
 HolbornにてSwinburne及Morrisを買う。(明治34年7月9日 日記)
 
 「漱石山房」にあった蔵書は、門人の小宮豊隆が東北大学法文学部の教授をつとめていた関係で、東北大学の図書館に遺されています。その中にはイギリス時代に購入した「The Earthly Paradise」「Lectures on Art」「Art and Its Producers, and the Art and Crafts of Today」と、E.Mugnussonとともに訳した「Volsunga saga」があります。
 ウィリアム・モリスは、19世紀イギリスの詩人・デザイナーとして活躍し、それぞれの分野で大きな足跡を残しています。漱石が購入した著作のうち、「The Earthly Paradise」はジョン・ラスキンの影響を受けた叙事詩「地上の楽園」です。モリスは、他にも架空の世界を舞台にした『世界のかなたの森』などの著作があり、モダン・ファンタジーの父とも言われているのです。
 訳書は北ヨーロッパの伝説を集めたものですが、それ以外の2冊は美術書となっています。
 
 僕はモリスをアール・ヌーヴォーのデザイナーとして捉えていて、詩作のあることは知りませんでした。
 今回調べてみると、モリスは、機械作りの低品質の物が氾濫している近代社会の大量生産を嘆き、職人の手作業を重視するアーツアンドクラフツを提唱します。中世に憧れて、モリス商会を設立し、インテリア製品や美しい書籍を生み出します。モリスのデザインは植物の模様を取り入れ、優雅なデザインを作り出しました。
 モリスの生活と芸術を一致させようとするデザイン思想とその実践は、アール・ヌーヴォーにとどまらず、世界的に大きな影響を与え、モダンデザインの源流になったともいわれています。






最終更新日  2022.01.07 19:00:07
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2022.01.06
カテゴリ:夏目漱石
 幼い頃、泣き虫で知られていた子規は、大きくなってからもその癖は治らなかったようです。
 子規は漱石にも泣き言をいい続けました。
 明治33(1900)年2月12日、子規は夏目漱石に長い手紙を出しました。熊本から送られた見事な大きさの金柑に対する礼状にかこつけ、気心の知れた漱石には怒りや愚痴、恨み言や泣き言を書き連ねた手紙を、子規は送ったのです。
 今回の手紙は、「例の愚痴談だからひまな時に読んで呉れたまえ、人に見せては困る、二度読まれては困る」で始まります。このことで、本音に満ちた手紙であることが漱石はわかりました。
 漱石へのお礼は、届いた金柑への驚きでした。内藤鳴雪は、金柑をひねりまわして見て「これはどうしても金柑以外のものじゃない」、叔父の藤野漸は「これは金柑じゃない」、子規は「この金柑を寒いところに植えると小さくなるのであろう」といったら皆が「まさか」といったなど、周りの人々の反応を記しています。
 こうしたお礼が終わると、子規の不満が爆発しはじめます。
 忙しくてたまらない。原稿を書こうとすると客が来る。昼間は来客のために仕事ができないので、夕方から書こうとすると、夕方から熱が出る。時候が良ければ徹夜してでも書くのだが、寒さで書くことができない。浣腸と繃帯取替をして頑張ろうとするが、風邪をひいて咳が出てきた。だから原稿が書けない。今回の手紙は腹が立って立ってたまらんのでも腹の立ち処がないので貴兄への手紙にこうした文句のあれこれをしたためることになった。
 以下、こまごまとした近況報告が続くきますが、ようやく子規の本音が現れてきます。
 『日本』は売れない、だが『ホトトギス』は売れている。『日本』新聞社長の陸羯南氏は、子規に新聞掲載記事の題材や体裁について時々いうけれど、僕に記事を書けとはいわない。『ホトトギス』を妬むこともない。子規が『ホトトギス』のために忙しくなっていることは十分知っているため…………
 と、子規は涙を流します。
 子規は、「ホトトギス」の成功を喜びながらも、「日本」新聞の売上の悪さを心配しなければならないという立ち位置の微妙さを綴って、「何か分らんことにちょっと感じたと思うとすぐ涙が出る」と涙もろくなったことを嘆くのです。
 しかし、子規は「この愚痴を真面目にうけて返事などくれては困るよ」と強がります。癖になってしまった涙もろさに「君がこれを見て『フン』といってくれればそれで十分」なのだといいます。手紙は「金柑の御礼をいおうと思うてこんな事になった。決して人に見せてくれ玉うな。若もし他人に見られては困ると思うて書留にしたのだから」で終ります。
 子規は、漱石が送ってくれた金柑のほろ苦い甘さにつられ、自身の甘えを誰かに聞いてもらいたくなったのでしょう。しかし、その相手は、心を許した漱石にほぼ限られていたのでした。
 
 例の愚痴談だからひまな時に読んでくれたまへ。人に見せては困る、二度読まれては困る。
 御手紙はとくに拝見。金柑は五、六日前に相届候に付かたがたもって御礼かたがた御返書可差上存候いながら、それはそれはなさけなき身の上とても申すべき身の上、一通り御聞なされて下されたく候。病気激発の厄月は四、五、六月の際なれども勢力のもっとも少きは十二、一、二月に御座候。これはいうまでもなく寒気のために御座候。しかるに小生の職務上もっともいそがしきは十二月一月に御座候(コレハ『日本』がいそがしいのと地方の新聞雑誌などのたのまれ有之、『ホトトギス』は一番骨なれどもこれは毎号同じこと也。寒気と多忙のために十二月と一月始とに忙殺せられ候ところへ二月分の雑誌など書かざるべからずとくる。いざ書こうとすると客が来る。昼間は来客のために全く出来ず、これは毎日同じこと也。夕刻より熱が出る。時候がよければ熱いとて構うたことはない。徹夜してでも熱を押てでも書く。それがなさけないことにはこの頃の寒さではとても出来ぬ。現に只今もさしたる熱がないようだから原稿書こう、今夜は徹夜でもするぞと大奮発して先ず浣腸と繃帯取替とをする(このことが老妹の日々の大役だ)。平生ならば小生は浣腸後少し疲労するのみにて、むしろ安心するけれど体に申分あるとき、または痔疾に秘結とくると後ヘも先きへも行かぬことがある。陸の葬儀などのため四日目に今日は浣腸したけれど成績は中等であったが少し冷えて風引いたか咳が出てきた。折角の奮発の原稿はかけぬ。腹が立って立ってたまらんのでも腹の立ち処がないので貴兄ヘの手紙認めることに相成候。箇様な失敬な申条なれど情願御許被下たく候。
 御旅行の由。
 寅彦時々来る。
 俣野来て不平を漏らし候故、小生も立腹暴言を放ち候処、俣野曰く私が先生を困らしに来たように夏目先生に思われては面目がございません。
 金柑御送被下候由の御手紙に接し、何事かと少し怪み候処、大金柑に接し皆々驚き申候。鳴雪翁ひねりまわして見て曰く、どうしても金柑じゃ外のものじゃない。藤叔曰く、こりゃ金柑じゃない。小生曰く、この金柑を寒い処へ植ると小さくなるのであろう。皆々曰く、まさか。
 東京も大寒気の由(小生には分らず)インフルエンザ流行、十人の内五人以上はやられ候。小家も皆やり申候。小生も人並にやり健全な母さえ二日半就褥致候。小生記臆已来始めての大病に御座候。皆々軽症なれども小生はそれがためとはなくて毎夜発熱、時によると夜十二時頃より突然発熱夜明に至りて熱さむために徹夜致候など腹の立つことに候。翌日も昼間は来客ありて眠る事出来不申候。その日の夜はタ刻より発熱夜の十二時過熱さめ候故、夕飯を夜半にしたためて(ちょっと御馳走を御披露申上候。粥二椀、叔父より貰いたての豚のらかん三きれほど)これから『ホトトギス」の原稿(まだ一つも出来おらず)に取掛ろうと思うと眠くなったから「寝ろ寝ろ」ということに変って夜半過より寝て今朝は昼飯まで睡眠、非常に愉快になり候。しかしタ方まで来客絶えずタ飯すみて浣腸、繃帯替(この二つが同時に行わねばならぬこと故下痢症に掛ったときは何とも致方なく非常の困難を窮め候。この時は浣腸は不用なれど「さぁ糞がしたい」というてから尻の繃帯を取りはずし、お尻を据得るまでに早くて五分、遅て十五分を要し候。その五分乃至十五分間糞をこらえる苦は昨年始めて経験致侯。屎をする際に時々貴兄が兄上の糞をとられたという話を思い出し候)。この浣腸繃帯替すみ、いざ原稿という処で咳、そこでこの手紙と、こういう都合で、この後で原稿が出来るか出来ぬかが問題なり。
 小生の欲望というと二月の月一ヶ月だけは何もせずに(気が向いたら俳句分類位はする)休みたくてたまらんのだ。しかしそんなことを高浜などにいいたまうな、まじめに心配する男だから。
『日本』は売れぬ、『ホトトギス』は売れる。陸氏は僕に新聞のことを時々いう(これはただ材料や体裁などのこと)けれども僕に書けとはいわぬ、『ホトトギス』を妬無というようなことは少しもない、僕が『ホトトギス』のために忙しいということは十分知っている故……………………(コノ間落涙)。
 僕に『日本』へ書けとはいわぬ、そうしていつでも『ホトトギス』の繁昌する方法などをいう。それで正直いうと『日本』は今売高一万以下なのだからね(売高のことは人にいうてくれたまうな)僕からいえば『日本』は本妻で『ホトトギス』は権妻というわけであるのに、とかく権妻の方へ善く通うという次第だから『日本』へ対して面目がない。それで陸氏の言を思い出すと、いつも涙が出るのだ。徳の上からいうてこのような人は余り類がないと思う。(その陸が六人目に得た長男を失うて今日が葬式出会ったのだ、天公、是か非かなんていう処だね)
 それで陸の旧案を今取りて今年は和歌の募集などというて少しばかり骨を折った。それでも骨折の度はとても『ホトトギス』には及ばぬ。僕が歌論を書いたからとて新聞は一枚もふえるわけはない(田舎には歌の新派というものはまだ少しもないから)けれどもこんなことをしていると新聞に多少の景気がつくのだ。あたかも吉原のひやかし連が実際の景気に関係するように。
『日本』へ少し書く。歌の方を少し研究すると歌にのり気が出来て俳句の方へ少し疎遠になる(貴兄の謡と俳句と両方ヘはといったような処でもあろう)。二月分ノ『ホトトギス』の原稿はまだ一枚も出来んのだ。察してくれたまえ、僕がこの無気力でこの後一週間位の間に『ホトトギス』を書いてしまわねばならぬと思うて前途を望んだ時の僕の胸中を。
 高浜も寝入るそうだからとてもまだ原稿は出来まい。ついでにいうがこの前の『ホトトギス』は二千四百位売れたそうだ。
 僕は「落涙」ということを書いたのを君は怪しむであろーがそれはねこういうわけだ。君と二人で須田へ往って僕も目を見てもろうたことがある。その時須田に「どんな病気か」と聞いたら須田は「涙の穴の塞がったのだ」というた。その時は何とも思わなかったが今思い出すとよほど面白い病気だ。その頃はそれがためでもあるまいが僕はあまり泣いたことはない。もちろん喀血後のことだが、一度、少し悲しいことがあったから「僕は昨日泣いた」と君に話すと、君は「鬼の目に涙だ」といって笑った。それが神戸病院に這入って後は時々くようになったが、近来の泣きようは実にはげしくなった。何も泣くほどのことがあって泣くのではない。何か分らんことにちょっと感じたと思うとすぐに涙が出る。僕が旅行中に病気する、それを知らぬ人が介抱してくれるということを妄想する、それがもー有難くてはや涙が出る。不折が素寒貧から稼いで立派な家を建てたと思うと感に堪えて涙が出る。僕が生きている間は『ホトトギス』を倒さぬと誓ったことがあると思うともー涙が出る。……………………(落涙)。日本新聞社で恩になり久松家で恩になったと思うても涙、叔父に受けた恩などを思えば無論涙、僕が死んで後に母が今日のような我儘が出来ないだろうと思うと涙、妹が癇癪持の冷淡なやつであるから僕の死後人にいやがられるだろうと思うと涙、死後の家族のことを思うて涙が出るなぞははずかしくもないが、僕のはそんなもっともな時にばかり出るのではない。家族のことなどはかえって思い出しても涙のないことが多い。それよりも今年の夏、君が上京して、僕の内へ来て顔を合せたら、などと考えたときに涙が出る。けれど僕が最早再び君に逢割れぬなどと思うているのではない。しかしながら君心配などするには及ばんよ。君と実際顔を合せたからとて僕は無論泣く気遣いはない。空想で考えた時になかなか泣くのだ。昼は泣かぬ。夜も仕事をしている間は泣かぬ。夜ひとりで、少し体が弱っているときに、仕事しないで考えてると種々の妄想が起って自分で小説的の趣向など作って泣いている。それだからちょっと涙ぐんだばかりですぐやむ。やむともー馬鹿げて感ぜられる。狐つきの狐がのいたようだ。それでもこんなことを高浜に話すとすぐに同情を表して実際よりも余計に感じる、そうすると『ホトトギス」が益々遅延するかも知れぬから言わずに置く。僕の愚痴を聞くだけまじめに聞て後で善い加減に笑ってくれるのは君であろうと思って君に向っていうのだから貧乏鬮引いたと思って笑ってくれたまえ。僕だって涙がなくなって考えると実におかしいよ。……………………しかし君、この愚痴を真面目にうけて返事などくれては困流よ。それはね妙なもので、嘘から出た誠、というのは実際、しばしば感じることだが、女郎でもはじめはいい加減に表面にお世辞いっていた男についほれるようなもので、僕の空涙でも繰り返していると終に真物に近付いてくるかも知レぬから。実際君と向合うたとき君がストーヴこしらえてやろかというたとて僕は「ウン」といっている位のもので泣きもせぬ。けれど手紙でそーいうことをいわれると少し涙ぐむね。それも手紙を見てすぐ涙も何も出ようともせぬ。ただ夜ひとり寝ているときにふとそれを考え出すと泣くことがある。自分の体が弱っているときに泣くのだから老人が南無あみだあみだといって独り泣いているようなものだから、返事などは起こしてくれたもうな。君がこれを見て「フン」といってくれればそれで十分だ。
 僕ガが愚痴っぽくなったのは去年の手紙中『ホトトギス』の文などで大方察してはいたろーがこれほどとは思話なかったろー、これほど僕を愚痴にしたのは病気だよ。もっとも僕は筆をとると物を仰山に書く方だから、喀血以前でも「病身である」だの「先ず無事でいる」だのと書いて菊池に笑われたことがある。この手紙などを見せたら菊池は腹の中で笑うであろう。それは笑われても仕方がない。僕もめめしいことでいいたくないのだ。けれどいわないでいるといつまでも不平が去らぬ。こう仰山にいってしまうとあとは忘れたようになって心が平かになる。…………これだけ書くと僕も夢のさめたようになったからもはややめる。そうなると君が馬鹿な目を見たと腹立てはしないかと思うようになってくる。ゆるしてくれたまえ。
 新らしい愚痴が出来たらまたこぼすかも知れないが、これだけいうて非常にさっぱりしたから、君に対して書面上に愚痴をこぼすのはもうこれ限りとしたいと思うている。金柑の御礼をいおうと思うてこんなことになった。決して人に見せてくれたまうな。もし他人に見られては困ると思うて書留にしたのだから。
   明治三十三年二月十二日夜半過書す。
 僕自らも二度と読み返すのはやだから読んで見ぬ、変な処が多いだろー。(明治33年2月12日 漱石宛書簡)






最終更新日  2022.01.06 19:00:06
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