漱石の作品と食べもの23/ロンドンの食事
夏目漱石のロンドンでの下宿を辿ってみましょう。 明治33年10月28日夕刻7時頃、漱石はロンドンに着きました。友人の大塚保治から聞いていたガワー・ストリート76番地の下宿(食事付で1日約6円)にひとまず落ち着きます。 ガウワー・ストリートは、ロンドン大学本部の近くにあるかなり広い通りで、二百年ほど前の建物が並ぶ暗い感じの町です。この地域一帯は『ブルームスベリ」と呼ばれ、大学生目あての下宿屋が多いところでした。 小生只今の宿所は日本人の下宿する所にて76 Gower Street, Londonに候。ここは旅屋より遥かに安直なれども一日に部屋食斜等にて六円許を要し候。到底留学費を丸で費ても足らぬ故早くきり上る積に候。(明治33年10月30日 鏡子宛て書簡) 11月12日、プライオリー・ロード八十五番地のミス・マイルド(ミルデ)方に転居します。家賃は週2ポンドでした。漱石は、この下宿に移る前の11月1日にケンブリッジ大学を訪ね、7日にユニバーシティ・カレッジのケア教授の講義を聴くことを許されます。しかしこれらの講義は、漱石のお気に召さなかったようです。11月の日記には「Kerの講義を聞く面白かりし。Craigより返事来る。滅茶苦茶の字をかきて読みにくし。來りて相談せよとの意味なり」とありますが、シェークスピア研究家のクレイグから火曜日に講義を受けることにしました。 始めて下宿をしたのは北の高台である。赤煉瓦の小じんまりした二階建が気に入ったので、割合に高い一週二ポンドの宿料を掛って、裏の部屋を一間借り受けた。(永日小品 下宿) 12月24日頃、漱石はフロッドン・ロード6番地のブレット家に転居します。12月25日、この日はクリスマスなので、アヒルのご馳走が晩餐に出ました。漱石は、この頃から下宿の一室に籠もって、なるべく金がかからないように下宿にこもり、書物を買い、書物を読むことに時間を当てようとしています。 この度の家は先頃まで女学校なりし処伝染病のため閉校。その後下宿と変化致候。主人夫婦と妻君の妹にてやり居候下宿にしては女学校の女先生だけありて上品に候。色々親切にて家族の如く致し居候。同宿のもの日本人少々有之候。主人は頗る日本人好にて西洋人を下宿させるよりは日本人を客にしたしと申居候。これは日本人はおとなしく且金にやかましからぬ故に候……昨日は当地のクリスマスにて日本の元日の如く頗る大事の日に候。青き柊にて室内を装飾し家族のものは皆その本家に聚り晩餐を喫する例に御座候。昨日は下宿にてアヒルの御馳走に相成候。(明治33年12月26日 鏡子宛て書簡) 僕の下宿は東京で云えば先ず深川だね。橋向うの場末さ。下宿料が安いからかかる不景気な処に暫く……じゃない、つまり在英中は始終蟄息しているのだ。(倫敦消息) こういう訳で語学その物は到底僕には卒業ができないから書物読の方に時間を使用することにしてしまった。従って交際などは時間を損するから可成やらない加之西洋人との交際となると金がいるよ。御馳走ばかりになっているとしても金がいるよ。まずい洋服などは着ていられないしタマには馬車を駆らなければならないし而も余程親密にならなければ一通りの談話しかできない興味のあるシンミリした話なんかはやれないからね それでも二年で語学が余程上達する見込があれば我慢してやるがそれは以上の理由でだめだから時間を損し金を損してこれという御見やげがない位なら始めからやらない方がいいからね。僕は下宿籠城主義とした。(明治34年2月9日 狩野亨吉、大塚保治、菅虎雄、山川信次郎宛て書簡) 明治34年4月25日、夜逃げ同然の体でブレット家ともににトゥーティング(ステラ・ロード二番地)に転居します。下宿屋の客が漱石一人になって、下宿屋自身が引越しをしなくてはならなくなり、漱石も頼まれてついて行ったのでした。ただ、漱石はこの下宿があまり好きではありませんでしたが、池田菊苗と同宿するようになり、少しは気が紛れたようです。※池田菊苗との親交はこちら 残るは我輩一人だ。こうなると家を畳むより仕方がない。そこでこれから南の方にあたる倫敦の町外れ――町外れと云っても倫敦は広い、どこまで広がるか分らない――その町外れだからよほど辺鄙な処だ。そこに恰好な小奇麗な新宅があるので、そこへ引越そうという相談だ。或日亭主と神さんが出て行って我輩と妹が差し向いで食事をしていると陰気な声で「あなたもいっしょに引越して下さいますか」といった。この「下さいますか」が色気のある小説的の「下さいますか」ではない。色沢気抜きの世帯染た「下さいますか」である。我輩がこの語を聞いたときは非常にいやな可愛想な気持ちがした。(倫敦消息) 明治34年7月10日、漱石はクラッパム・コモンのザ・チェイス八十番地のミス・リールの家に移ります。ロンドンにおける第5の移転でした。この下宿は、漱石が明治35年(1902)12月5日にロンドンを出発して帰国の途につくまで、1年ほどいた下宿です。漱石は、ここで「文章論」の著述に専念して神経衰弱に罹り、「二度と英国みたいな所に来るものか」と思わすほどの「英国嫌い」になりました。 僕なんか英吉利へ来てからもう五へん目だ。今度のところは御婆さんが二人退職陸軍大佐という御爺さんが一人、丸で老人国へ島流しにやられたような仕合さ。この御婆さんがミルトンやシエクスピヤーを読んでいて、おまけに仏蘭西語をペラペラ弁ずるのだから一寸恐縮する。『夏目さんこの句の出処を御存知ですか」などと仰せられることがある。「あなたは大変英語が御上手ですが、余程おちいさい時分からお習いなすったんでしょう』などと持上げられたこともある。人豈(あに)自ら知らざらんや。冗談言っちゃいけないと申度(もうしたく)なる。こちらへ来てお世辞を真に受けていると大変なことになる。男は左程でもないが、女なんかはよく”Wonderful”などと愚にもつかないお世辞をいう。下手の方に”Wonderful”ですかと皮肉をいうこともある。(明治34年12月18日 正岡子規宛て書簡) 漱石が、ロンドン生活を回想しているのは『道草』です。サンドイッチやビスケットでの昼食を記しています。 その健三には昼食を節約した憐れな経験さえあった。ある時の彼は表へ出た帰掛に途中で買ったサンドウィッチを食いながら、広い公園の中を目的(めあて)もなく歩いた。斜めに吹きかける雨を片々の手に持った傘で防(よ)けつつ、片々の手で薄く切った肉と麺麭(パン)を何度にも頬張るのが非常に苦しかった。彼は幾たびか其所にあるベンチへ腰を卸そうとしては躊躇した。ベンチは雨のために悉く濡れていたのである。 ある時の彼は町で買って来たビスケットの缶を午になると開いた。そうして湯も水も呑まずに、硬くて脆いものをぼりぼり噛み摧(くだ)いては、生唾の力で無理に嚥み下した。(道草 59) 子規に宛てた漱石の手紙は、『倫敦消息』として「ホトトギス」に掲載されます。この中に、ブレット家の朝食であるオートミールとベーコンが記されています。 階子段を二つ下りて食堂へ這入る。例のごとく「オートミール」を第一に食う。これは蘇格土蘭(スコットランド)人の常食だ。もっともあっちでは塩を入れて食う、我々は砂糖を入れて食う。麦の御粥みたようなもので我輩は大好だ。「ジョンソン」の字引には「オートミール」……蘇国にては人が食い英国にては馬が食うものなりとある。しかし今の英国人としては朝食にこれを用いるのが別段例外でもないようだ。英人が馬に近くなったんだろう。それから「ベーコン」が一片に玉子一つまたはベーコン二片と相場がきまっている。そのほかに焼パン二片茶一杯、それでおしまいだ。(倫敦消息) ただ。ロンドンの生活は、漱石にとって苦痛の2年間でした。しかし、漱石はイギリス流のライフスタイルと、トーストと紅茶の生活を好みました。また、イギリスでの生活は、漱石に日本の良さを再認識させるとともに、「個人の生き方」について考えるきっかけを与えてくれました。 ロンドンに住み暮らしたる二年は最も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼軍に伍する一匹のむく犬のごとく、哀れなる生活を営みたり。(文学論)