2019.05.15

子規、「日本」新聞入社への根回し

カテゴリ:正岡子規
   我家はかくれて見えぬ岡見哉(明治25)
   君が住む方を吾家の恵方哉(明治25)
   留守の家は花に預けて茶摘哉(明治26)
 子規が陸羯南(くがかつなん)主宰の「日本」新聞に入社するのは、明治25年12月1日のことです。
 陸羯南は津軽出身で、子規の叔父・加藤拓川と司法省の法学校の学友です。同級生には原啓、福本日南、国分青崖らがいて、賄征伐事件に巻き込まれて退校しました。「東京電報」の社長を経て明治22年2月に、神田雉子町で「日本」新聞を創刊します。子規が「日本」新聞に入社したのは明治25年12月。その前から子規と羯南は交流があり、正岡律子編集『子規言行録(大鐙閣)』の序文で羯南は「二十四年の秋、予が根岸の寓を尋て来て、来年は卒業の筈だが、病気のために廃学するつもりだと語る、ドンな病気か知らんが我慢して卒業したらどうかと勧めても、決心はなかなか動かせない、近ごろ俳句の研究にかかって少しく面白味が付いて来たから、大学をやめて専らこれをやらうと思うといい、根岸に座敷を貸す家があらば世話してくれといって帰った、その晩端書に『秋さびて神さびて上野あれにけり』という一句をかいたのが来た、この時、予は俳句の趣味などを少しも解せぬ、こんなものを研究してどうする積りか、病気保養のためとあらば格別だが、これで文学に貢猷せんなどというのは、あの男の了簡違であるまいかと、一人で心配しておった、ちょうど寓居の向いに老婦独住いの家があって、誰か確かな人に下宿させたいとのことであったから、早速そのことを報じてやったら、すぐやって来て、やがて引越して来た、それから隣同志となって、毎日往来する間に俳句の味が少し分りかけて来た、そのころ新聞紙上に十七字の句を出す者は其角堂永機の輩か、さもなくば角田竹冷の徒で、それも至って少ない方であった、どうだ何か『日本』へ出して見たらばといったら、かねて書いてある紀行でも出そうとのことで、それからそれと俳句まじりの紀行などは出た、これがあたかも正岡子規の初陣である、その後のことは、子規の名声とともに大概世に知れておる」とあり、陸羯南の妻・てつ子は『正岡さん』で「確か明治二十四年頃でしたかには本郷に下宿しておられましたが、ある日自分も根岸方面に来たいと仰有られて、家をさがしました所、ちょうど宅の門前の上根岸八十八番地に、部屋を貸して下さる家が見つかりましたので、八畳の部屋をかりられて御移りになり、その後は、門一つ隔てただけでもあり、陸も子規さんが好きでしたので、しょっちゅう行き来していました」と書いています。
 

 
 明治24年10月に、子規は羯南の家を訪ねて根岸に家がないかと相談し、加えて大学を辞めて俳句の道で生計を立てたいという希望を伝えました。
 明治25年2月19日、子規は駒込から陸羯南の家の向かいにある根岸の金井ツル方に転居します。子規に世話を頼まれた羯南が、確かな人を下宿させたいと願っていたツルの家を探してきました。
 羯南と家の近いことが功を奏したのか、子規は大学在学中の5月27日から螺子の名で紀行文『かけはしの記』、6月26日からは、獺祭書屋主人の名で『獺祭書屋俳話』を新聞「日本」に連載します。「日本」の記者・古島一雄が語った『古島一雄翁の子規談』によれば、子規は「日本」への執筆以前に叔父・加藤拓川の紹介で入社試験の前哨戦ともいうべき面談の席上、古島に「試験のために勉強するのは嫌」と語ったといいます。とすれば、「日本」への執筆は試験代わりということになるのかもしれません。
 羯南が社長兼主筆をつとめた「日本」は、日本の伝統に基づいた近代化を標榜しようと、明治二十二年の明治憲法が発布された日に創刊された新聞で、石井研堂著『明治事物起原』に報知、日々、時事、朝野、毎日、読売とともに七大新聞と記されています。
 子規は、明治の言論界に大きな影響を及ぼした日本新聞社に入社したのである。
 子規は、入社の前から信州紀行の「かけはしの記」や「獺祭書屋俳話」を「日本」に連載し、入社のための準備を進めていたのでした。
 子規は、「日本」新聞の主筆・小島一念にも引き合わされます。『古島一雄翁の子規談』には「はじめ子規の叔父の加藤拓川の紹介で入社さしたいから君、逢ってやってくれ。で、子規に逢ったんだ。日本新聞社で。蒼ブクレで、紺絣の着物を着ていた。君は一体日本新聞に入社したいというが今何をしている、と聞くと、大学へ行っている。何年だというと、まだあと一年あると言う。あいつは試験のために勉強するのは嫌になった。井上哲次郎の哲学なんか聞いておれんと言うんだ。こいつ面白い奴と思った。君、新聞社に入ってなにをするんだ。芭蕉以来堕落している俳句を研究したいと、しきりに講釈するんだ。おれは『古池や』くらいは知っている、が俳句というものはろくに知っとらん。あいつは、身体が弱いと自覚しておった。早く新聞によって、この志を急いで発表したい。一年が待てんというのだ」とあり、『日本新聞に於ける正岡子規君』には「正岡子規なる一学生が社会に名乗りを上げたのは二十五年五月二十七日、螺子の名をもって『かけはしの記』なる一編の紀行文を日本新聞に寄せたのがそもそもの始めである。もっともこれより以前、羯南君の宅へはしばしば行ったことがあったそうで、羯南君はほぼその文学上の所論を認識しておったから、入社せしめてその材能を揮わしてみたいとのことであった」と書いています。
 
 日本への入社が正式に決まる前、子規は叔父の大原恒徳宛の手紙で次のように伝えています。内容を見れば家を羯南の近くに移し、家族を呼び寄せて生活すれば、世間も納得しやすくなると考えています。また、羯南と話をつけていて、体が悪いなら会社に行かない半社員のような存在でもいいといってくれたことを伝えています。叔父への手紙は、引越し費用の算段がつかないからお金を出してくれということが、主な目的でした。
 
 一筆務上仕候。昨日一封相出し候。御落掌被下候事と奉存候。
 この度は用事ばかり申上候。今朝も陸(羯南)へ参り、色々話致候うち、ふと私宿許上京の儀につき、右は如何相定め候やと被尋候故、未決定の旨相答え申候。また移転費の調達など差支うるやと被尋候故、移転費だけは出来可申候えども、当地にて相暮候事無覚束と国許より申越せし旨相答候えば、当地のことはどうとも相成可申につき、移転費さえ差支なければ至急呼び寄せる方可然と、懇々相話居候。私身の上に付ては逢うたびにかにかくと世話やきくれ候えども、もと病身にて、劇務にあたり得ぬことも承知の上なれば、押しかけて依頼するも気の毒に存じ、始終この方よりは余り口を出さぬ様致居候えども、彼方よりは箇様に親切に申しくれ候。
 これに付て私相考候は、陸の忠告は私養生のために申事なれども、またよくよく相考候えば、いやしくも世の中へ出るとなると、家のないのも多少不信用の廉も有之、また新聞社などにて相働き候も、家族ありて生計を立つるためといえば、私も頼み易く、陸も引き入れ易く、世間も承知し易くと存候。さすれば、今日家族移転の策を講ずるは、あるいは得策かと存候。もっとも、この後何年すれば多分の月俸が取れるという見こみ相つき候わば、その時期まで相待可申訳なれども、その見込みは到底無之候故、今日にこれを貫施するも、さまで相違無之と存候。
 なお別条のこと繰り返し申候わんに、今日の処では私は社へは一度も行かねども、まず半社員の有様に御坐候。しかるにこれが突然と本社員となるは(仮定)その間何の事情も無くては、甚だ間のわるきことにて、陸氏に在ても私に在ても何となく実行致兼候。また陸氏のいう所は「私病身なれば家族を呼び寄せて養生の出来るだけ力を尽すがよかろう。それに付て要する生計費はどうか工面の就かぬことはない」と箇様に注意致しもらい候こと故、この場合において移転費さえ出来るならば、その説を採用せぬは、陸に対しても親切に負く様に存候。また当地生計は陸氏が引き受けるというからは、この人は一言一語の然諾をさえ容易にする軽薄の人物ならねば、あてにする方が却てその人を信ずるの厚き所以にして宜敷かるべしと存候。
 右の訳に候えば、今私が始に廿五円の月俸を得るとして、それが不足なれば卅円を取るの策を相談し得べく、卅円にて不足ならば卅五円を儲けるの工夫を相談し得べくと存候。箇様に当方より悉皆信頼してかかれば、向うでも責任を負うて世話しくれ可申と存候。
 また先刻同氏の話に、今私の寓居している家を借りれば都合善きが如何の考にやと申候故、それもよかるべくと申候。この家の話も何でもなきことなれども、私を世話してくれるに近隣の方総て都合善き故ならんと存候。左すれば今の家は勝手不都合なれども、それ位は忍んでここにいる積に御坐候。
 就而は家のこと婆々に聞き申候えば、私が借りるなら家賃四円(敷金十円)にて貸し可申と申居候。右の次第に付私の考はいっそ家持った方が宜敷からんかと存候。もっとも万一事情ありて陸氏方にて依頼し難きに至るとも、どうかこうか自立の道は相立ち可申と自信致居候。
 就而は右に付、甚だ恐入候えども、佐伯とも御相談被下候上、可成至急御高答被下度奉願上候。恐惶謹言。
  十月二十二日  常規
  叔父上様
  日本新聞停止に付、今日もゆっくり閑談仕候。呵々。(明治25年10月22日 大原恒徳宛書簡)





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最終更新日  2019.05.15 19:00:06
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